「理解する」とはどういうことか 認知心理学的、ピアジェ的な回答

自分のことを理解するのは難しい。「自分」というものが心身の連続性や体性感覚から構築されている、と私は理解しているがあまりピンと来る説明ではないだろう。自分そのものについて考えるとすぐにループに陥り、方針すらも見失ってしまう。
理解そのものにもまた似た困難がある。「理解」とは何か、どういうことが起きると「理解した」と感じるのか。

一例として「音が高い・低い」という表現がある。これはとても直感的な言い方に見えるが、よく考えると不思議で、何しろ「高い・低い」とは基本目に見える物に使う表現のはずだからだ。素朴な物理的位置の高低に対して、音の高低はかなり共通点が見出しにくい。それにもかかわらず、色々な言語で音の周波数は空間の高低によって表現されている。室町時代の用例があるという「上下(かるめる)」の語は周波数の概念や西洋の記譜法など知らなくとも「高い・低い」の感覚が成り立っていたことを示している。

もう一つ、目に見えないものの視覚的な表現として「時間が長い・短い」がある。我々は時間が実のところ何かをよく知らず、ただ記憶と現状を比べて「時間が経っている」と追認し続けているだけだ。物が落下したり、湯が冷めたり、そうした変化しか起きないから時間は一定方向に流れるのだと信じる。直線状の「時間」イメージはこうした日常感覚に符合する一つの比喩と言える。
カントは「時間と空間」を認識の本質的な形式、つまり時間の情報・空間の情報によって世界を認識しているとしたが、その時間さえ(少なくとも部分的には)空間的に理解されているのは興味深い。

一方で空間という形式からは独立していそうな概念もある。それは例えば数だ。
古代ギリシャに由来する逸話で「テセウスの船」というものがある。昔の英雄テセウスが乗った船を保存しようとして腐った木材をどんどん交換していくと、やがて全ての部材が入れ替わってしまうかもしれない。そうなったとき、当の船はまだ昔と同じものと言えるのか? もし古い部材を集めて別に船を組み立てたとしたら、今や「テセウスの船」はどちらを指すのか?
これは純粋に空間的な情報から1つのもの、個物を特定することの難しさを示唆している。箸は2本あって「1膳」と数えられるが、これはどれだけ物理的性質を調べても「1つ」には見えない。ただ人間との関連、つまり人間の使い方によって「1つ」となっている。

私の知る限り、こうした人間の「理解」を最も明解に説明したのはピアジェだ。
ピアジェはスキーマという概念で人間の認知を説明した。(これはシェマ Schéma と紹介されたりするが、氏の用法ではシェマはただの視覚的イメージに過ぎず、シェム Schéme こそが本質的な概念である。)スキーマの説明として標準的な心理学では「同化と調節によって発達する構造化された知識」といった説明をする。
例えばリンゴを認識する(あるものがリンゴだと理解する)という過程を考えると、頭の中にリンゴの知識=スキーマがあり、目の前のものをそのスキーマに取り込む=同化する、ということになる。このスキーマは最初、リンゴについて「赤い球状の果物」としか言っていないかもしれない。しかし例えば青リンゴの存在を知るとどうなるだろうか。スキーマは「2つの凹みがある球状の果物」のような、もう少し別の内容に更新されなければならない。これが調節である。

だがこれはピアジェの理論の片面でしかない。もう一面は操作だ。操作は「内化され可逆的となった行為」※であり、これは「考える」ということの全てを含む。
レストランのスクリプト(一連の手続きの知識)がスキーマの例とされることがある。注文をする、食べる、会計する、というレストランにおける流れは、3要素がありそこに順番を持つ一種の構造と確かに言える。だがスキーマとして見るなら、重要なのは「内化」つまり頭の中で、「可逆的」巻き戻すことができるという点だ。
レストランで肉料理を注文することを想像する、食べる過程まで想像してやっぱり魚にしようと考え直す。現金で会計することを想像して、やっぱりカードにしようと考え直す。こういうことが可能なのは内化され可逆的となっている、つまりまさにピアジェの意味でスキーマだからに他ならない。

※ J.ピアジェ、中垣啓「ピアジェに学ぶ 認知発達の科学」北大路書房、初版、p.134。右ページがずっと註という凄い本だがこれはピアジェ自身の部分。

コンピューターサイエンス的に言えば、スキーマとは状態遷移図のようなものだ。人間は物事がその中のある状態に当たると認識し、また状態の間の遷移を頭の中で想像できる。
ただあらゆる状態が予め頭の中にある訳ではなく、有限の理解の仕方によって、無限の状態について理解する。100000000000000000000000のような数字を初めて見ても理解できるのは、0が1つ増やす(操作!)と10倍になるということ、10倍という計算(これも操作!)によって数がどうなるかということ、それをスキーマが知っているからだ。

「理解する」とはどういうことか。その答はあるスキーマの状態として把握し、操作可能になること、となる。
人間にはいくつかの生得的なスキーマがあり、最初に触れた空間や数はその例だろう。そしてそれらを応用することで、実に多くの物事が理解される。比喩とはスキーマの応用だ。音には空間的な意味での位置や大きさがないが、それでも「高さ」のスキーマで理解することにより一直線のスケール(物差し)、また恐らくは「高い」ときのエネルギーの多さなどのイメージ、そして上がったり下がったりの操作などを流用できる。

人間はただ自分の感じる物事によって基礎的なスキーマを構築し、どんなこともその応用によって理解する。逆に我々が「原理的に理解できない」ことというのは、全くどんなスキーマにも当て嵌まらない、つまりそもそも我々が感知できないということになる。それは存在しないに等しい。
これを人知の限界と取るか、可能性と取るかは各人の考え方次第だろう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?