シェフェール『なぜフィクションか』を読む③

ここで「遊戯的偽装」の素性が明らかになる。

第三章

第一節

この章はドイツの作家ヒルデスハイマーによる『マーボット。ある伝記』の話から始まる。この著作は同氏のモーツァルトの伝記に続いて出版され、ゲーテを始めとする多くの著名人との交流を豊富な引用で描き出していた。批評家からも高く評価された「伝記」だったが、実のところこれは全くのフィクションで、アンドリュー・マーボットとはどこにもいない架空の人物だったのだ。

ヒルデスハイマーは多くの読者が騙されたことに驚き、いくつかのフィクション性の手掛かりを挙げている。(カバー折返しのパラテキスト、索引に実在の人物しか載っていないこと、関連人物の日記などの資料。)普通に考えてこれらはあまりにも弱すぎる手掛かりだが、氏に騙す意図がなかったことについては信じるべきだろう。すると『マーボット』はフィクションなのか、まやかしなのか、両方なのか。前回「偽装」というものを意図によって区別したが、意図せぬまやかしというものが成立するのだろうか。
とにかく『マーボット』はフィクションとして理解されることに失敗した。この事実からは逆に、フィクションがフィクションとして機能するための条件を推定することができる。

『マーボット』におけるミメーシス、つまり伝記というものの真似し方について4つの手段が挙げられている。
作者の文脈(本物の伝記である『モーツァルト』の出版など)、パラテキスト(「ある伝記」というジャンル指標など)は分かりやすい。3つ目の形式的ミメーシスとはつまり書き方で、引用によりなるべく客観的に語っているよう見せる態度などがそれに当たる(その一部は捏造なのだが)。最後の「フィクション世界による歴史世界の感染」、これは実在の人物達の歴史にマーボットを織り込むという手法を言っている。これはどこか当たり前に聞こえるかもしれないが、もし3つ目までの特徴しかない作品、体裁は伝記らしいが全く読者に馴染みある歴史的事物と関わらない話であったなら、少なからず疑いの目を被るだろう。

さてこの中で何が決定的だったのか。シェフェールは語用論的ミメーシス、上に挙げた中ではパラテキストがそれだと指摘する。なお「語用論的」は「コミュニケーション的」と言い換えて良いと訳者解説にある。前章の「メタコミュニケーション的」信号が不正だったということになる。

第二節

『マーボット』は一見プラトンの疑念、つまり現実のフィクションによる侵犯が起こったように見えるが、シェフェールの見解は異なる。
それはフィクションを超越したというよりも、フィクションへと達することに失敗した作品なのだ。気取った言い方をすれば、ミメーシスの作用をフィクションへ昇華できなかった。

フィクションはそれが本気ではない遊戯として通知されることで、「遊戯的偽装」という形で成立する。『マーボット』ではそのコミュニケーションが失敗した結果本当に偽装として働いてしまったように、同じテキストでもフィクションとなったり(本気の)偽装となったりする。「フィクションの手段は偽装の手段と同じなのだが、目的が違うのである。」(p.128)

先に「意図せぬまやかし」があるかという問題が出ていたが、「まやかし」が「ミメームとそれが模倣する現実のあいだの混乱ないし短絡」(p.135)であるならそれは確かに存在する。偽装は意図的なのに対してまやかしは機能的、つまり誤解を与えたという効果によって判断されるからだ。
フィクションの「没入」はまやかしの効果と不可分であり、例えば映画を観ていて思わず顔を避けたり目を瞑ったり、というのは少なくとも前注意的(日常的に言う「無意識的」)には映画の中の脅威が本物に見えた(まやかしを受けた)ことを意味する。こういうリアクションを意識のレベルで認識したとき言わば「はっとして」、我々はむしろ没入していることを自覚しまやかしが中断する。「現実の行動がまやかしによってコントロールされることを防ぐ決定的な審級は、意識的コントロールや注意的認知の処理の審級なのである。」(p.137)

こうしてフィクションと偽装は、ミメーム(これまての議論から、この言葉は「模倣」とは異なるニュアンス、特に表象を生み出すものとしての意味合いを湛えている)によるまやかし効果を共有しながらも、フィクション=遊戯的偽装では意識的注意のレベルでその効果が堰き止められている点ではっきりと異なる。

シェフェールは更にフィクションが進化の過程で獲得される条件を3つ推定しているが、この内2つ、再実例化と見せかけの分離、まやかしを打ち消したり情報の重要性を判断したりできる精神構造(と解釈したが両方やや謎)はいわゆる認知革命と考えても良い気がする。今目の前にあるもの(あるいは精々現下の行動計画の目標)の表象と自らの意図が分離したとき、見せかけの行為を行ったり表象のコントロールが可能になるのではないか。
ただ第3の条件は実際尤もらしい。「共有された遊戯的偽装という状態は、葛藤的関係よりも相互協力が大きな場を占める社会組織の枠組みにおいてのみ可能である。」( p.141)前注意的なまやかし効果でさえ、敵対的関係の中では致命的に違いない。

(続く…)

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