「我々に唯一許されている差別って愛なのかもしれない」

真理は無い、というのは常々言っている。正しいものを見つけ出すためには、正しいものを見つけるのに役立つ正しいものを見つけ出さなければならず、永遠に正しさを追い続けることになる。

人間は身体、感覚、理性、言語、あらゆる角度から見て有限であって、唯一の真理があるとすれば「真理は無いという真理」、絶対は絶対にない、あらゆるものは疑いようがある、疑いようの無いものは無い、という少し言葉遊びじみたことしかない。

これを肯定すればそのまま肯定になるし、疑ったとしたらそれは却って肯定になるため、絶対である。ただこれだけでは、もしこの思想が広まることがあれば、世の中は混乱し無気力に至る。
重要なのは、人間がいかに幸せに楽しく生きるか。

真理の無い世界では、我々はなにに囚われることもない。であればなにを信じてもいい。というか、信じるしかない。
もしなにも信じなければ世界と日常はひどく危険で退屈なものなる。これから渡る橋が崩れないと信じなければいつまでも向こう側には行けないし、土曜日に好きなアニメの放送があると思えば月〜金をいくらかはワクワクして過ごせる。

前者の、危険に対する信仰は必要性に駆られた防御的な信仰(神に対する雨乞いのような)であるのに対して、後者の、退屈と戦う、なにかを好きになる形の信仰にはある程度の自由がありそうだ。
なにを好きになるかは育つ環境にも依るだろうが、それでも、他人に押し付けられたとは思わない。私たちはなにを好きになるか日々選んでいる。あるいは、すでに選んでいて、行動の中でそれを発露させている。

これまでの話を映画館のポップコーンの味でまとめる。
塩とキャラメルの2つがあるとする。
選ぶのは彼/彼女の自由だ。
もしキャラメルを選んだら、彼/彼女は甘党か、塩があまり好きではない(相対的にキャラメルが好き)、ということになるだろう。
しかし、映画を見るか見ないかという選択肢はない。もし映画…………娯楽がなければ、好きなものがなければ、幸せでも楽しくもない。

このように我々はなにかを好きにならざるをえない。これは信仰であり、好きなものと好きではないものを個人の独断と偏見によって分けている。これを差別と言う。にも関わらず許されるのは、ひとえに、愛があるからだ。

しかし人種や異性に対する差別には愛がない。
親が自分の子を他の子より愛するとき、親は自分の子に尽くす存在となるが、許されざる差別は、むしろ自分の民族、性別、つまり自分のために他の人間を貶めて相対的に成り上がろうとする。他者への愛ではなく自己愛であり、他者を自分に尽くさせようとする。

もちろん、他者を愛することは人生を豊かにするから、自己愛が根本なのかもしれない。それでも、他者が好きであれば愛させてくれていることに感謝しなんらかの形でお返しをしようとする。典型的にはお礼やプレゼントで。
しかし他人を従わせる自己愛は、ただひたすらにこき使って、それでお終いであり、このような愛が世界のスタンダードになれば当然世界は荒れ果ててしまうから許されない。実際、強制収容所でそれは行われた。

このように他者愛は人生の必需品だが、理想は相互の他者愛である。
一方的な他者愛は……現代ではホストやパパ活などの……搾取で終わり、愛する側にとっても愛される側にとってもそれほどの幸せにはならない。しかし相互の他者愛はそれどころか、非常にエコかつ錬金術である。

たとえば、友好関係のある人と同じ小説を贈りあったとしよう。物質的には何ら変わりなく、同じ小説が一時手を離れただけである。しかし精神的には、贈られた小説は贈った小説と同じであるのにも関わらず、愛が付着している。この愛は何の資源も使われずに無から生み出されているのである。

あらゆる友好関係はあらゆる人間関係と同じように物質や行為の交換に過ぎないにも関わらず、不思議と幸せだ。もしこの幸せがない場合、小説を贈られても彼/彼女は小説自体が内在している幸福(小説の品質=面白さ)しか吸収できず、世界規模で行われれば物質主義と物質を巡る争いに陥ってしまう。

以上の話を総括すると、

世界と人生は他人に尽くす差別=他者愛に包まれなければならない。



↓この話の元ネタ…………というかこの記事自体がこのツイートの独自解釈です。

https://x.com/978054376523i1/status/1673871209593974784?s=20

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