情報化社会へのソフィストの帰還 コマーシャルとお客様気分 ネットと国語力

オタクの友人と帰り道で話したことを解釈・拡大する。


情報化社会の問題は…………周知の通り…………情報が氾濫していることだ。
前時代の知識人は期待を寄せていたのかもしれないが、失敗したと言っていい。

なぜ有益な=正確な情報だけが残るのではなく雑多な情報が溢れたのかというと、そもそもその有益で正確な情報が本当に有益で正確か知るためには調べなくてはならないのだが、調べたら結局自力で知ってしまうので、ネットを厳密に使おうとすると却ってネットを使う必要がなくなるからだ。

だから、というかたいていの人はなにも考えていないからだろうが、楽な方に流れる。調べることをやめる。調べることをやめた人々は無知であり、あらゆる商業はそこに漬け込む。

ある商品を売り込む方法は2つ。その商品の品質を上げるか、上がったように見せかけるか。
前者はもう打ち止めが来ている…………このしばらくの技術はそう進化していない…………となれば後者に尽力するのは当然のことだ。

もし人々が賢ければ騙されはしないが、実際には無知なので、いくらても見せかけに引っかかる。
さまざまな家電や電子機器の広告が打ち出されているが、その内容とメリット・デメリットについて熟知している消費者は何%いるのだろう?

広告が有効となれば、皆がその量と質を争う。
結果、より騙しやすく、声のでかい情報が企業にとっては有益な情報となる。その欺瞞に満ちた有益な情報が氾濫する。その中で本当の情報がどれなのかもうわからない。泥水に一滴だけワインを落としたとして、それだけをストローで吸うような真似はできない。

ともかく、そんなふうに企業が売り込みをかけると、狙う消費者の範囲とはもはや店頭に来ている者だけではなくて広告を見るすべての者になる。だから彼らに媚び諂ったり、あるいはあえて傲慢な態度を取る。要はネットに触れる者すべてもお客様にする。

コミュニケーションは発信力と受信力のセックスであるのにも関わらず、そうやってお客様気分を育てられた大衆は受信力を失い、ぽかんと口を開けて情報を鵜呑みにする。言いたいように言うが聞きはしないようになる。

人間が生まれつきもつ発信力は非常に低く、周りの言動や行動を受信して育てるのにも関わらず、受信力が働かなくなれば、発信力も減る。詐欺だけが上手くなる。
このように国語力は低下する。

今はもう正しいから議論に勝てるのではなくて、議論に勝てるということが正しさの証明になる。正しさは分からないから勝敗で判断する。そうするとディベートやら弁論術が流行って、いずれはソフィストが帰ってくるのだろう。

古代ギリシャでは世界に対する無知ゆえに弁論の巧みさが重要だったが、現代日本では実世界=社会に対する情報の氾濫→無知ゆえに弁論の巧みさが重要になる。

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