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舞台という経験

 私が舞台というものを初めて経験したのは、日本の某バレエ学校の発表会からだった。
舞台前の気持ちの思い方、舞台の使い方、出方、舞台に関すること全てを教えていただいた。
 その甲斐あってか、アメリカの1カンパニーのオーディションを受けて、入団して舞台に出させていただくことになった時は、教えて頂いたことはすんなり出来るようになっていた。そしてその教えてもらったおかげもあってか、役柄もソリスト役や1人役をもらっていた。

(さすが日本、本当に日本人ってすごいんだな。先人の人達のお陰で、私のような人が世界から来た人達にも認めてもらえるように教育されている。日本人の丁寧な指導は、世界にも通じるんだなぁ。すごい。)

と感じていた。
某バレエ学校の先生方に師事していたのもあるからなのか、一流の人の人材の育成の貢献は、リーダーシップたるものが分かっているのだとも感じた。
さらにこのバレエ学校の経験は、ABT(アメリカン・バレエ・シアター)のサマーインテンシブでも役立った。ABTの教師陣からは、「レッスンに対する姿勢や普段の行動が素晴らしかった」という評価を頂いた。
サマーインテンシブは初日にクラス分けオーディションがあって、次の日の朝にオーディション結果がスタジオ内に貼り出される形式だった。
そして参加者全員が確認次第、クラスが分かれてレッスンとリハーサルが始まっていくが、私はいつも1番上のクラスに選ばれ、手本に扱っていただいた。
踊りが上手いとかどうこうではなく、バレエへの心構えが高評価に繋がっていたんだと思った。

バレエ学校の経験は、本当に貴重なことだったこだと他の国に出てみて分かった事だった。



 話は逸れたが、私のアメリカでの印象に残る舞台経験は、ナットクラッカー(くるみ割り人形)だった。
私のいたカンパニーは夏からシーズンが始まり、秋冬春と毎シーズン公演があるバレエカンパニーだった。素晴らしいことに、踊るチャンスが沢山あるカンパニーだった。アメリカの伝統行事になっているナットクラッカーに関しては、上映期間も半端なく長い上、1週間毎日続けて朝夜2回公演があった。とにかく踊る機会がたくさんあった。

(うわぁ、なんて幸せなんだろう。)

毎公演ごとに、胸がときめいていた。リハーサルは1週間続けてあって、その後本番が丸1週間、毎日あった。計2週間、舞台でバレエを踊り続けていた。

まだ当時、中学2年生の14歳。
(中2なのに、もうこんなことができるのか…アメリカってすごいな、)と思った。
 幸いなことに、私のいた中学の同級生や先輩、後輩も同じバレエカンパニーに入っている子達がいてた。その子たちが、「バレエカンパニーの公演出演は特別扱いになるんだよ」と教えてくれていたので、学校に出演証明書を提出して許可を得ていた。もちろん課題はオンラインで提出していた。そうする事で、学校は出席にしていただいていた。

(舞台上でこんなにたくさん踊る事ができるなんて、このカンパニーの人達はなんて幸せなんだろう)
と思いながら、私も1メンバーとして舞台上で踊らせていただいた。
しかも、くるみ割り人形の公演に関しては必ずオーケストラ付きだった。

こんな素晴らしい経験が出来るなんて!!

毎日楽しくて楽しくて、心が踊っていた。


 もちろん、私にというより、アジア人に対して嫌な態度をとる白人もいた。でも、それよりも何よりも、この白人の中で挑戦している自分が大好きだった。どこまで一緒に人種を問わず楽しく踊れるかというところに夢中になった。嫌な態度を取る白人しかいなかったわけではない。仲良くしてくれる白人も沢山いた。その人達がいたからこそ、舞台が成功したと思っている。

 また、私をカンパニーに所属させてくれて、出演する機会をくれたミスターオットーには感謝しかない。
そこだけを見れば…なんだけど。

 なぜかというと、彼は人種差別を持つ人だった。彼は堀内元さんと同じ、元ニューヨークシティバレエのダンサーだった。彼は、堀内元さんはとてもすごいダンサーだったと言っていた。堀内先生がプリンシパルだった時に自分はソリストで、バランシン(ロシア人)が日本人を選んだと言っていた。
「私はずっとSAB(スクールオブアメリカンバレエ)で頑張ってきて、NYCBにも入団した。急に来たアジア人にプリンシパルという座を取られて、負けた時は悔しかったこともあった。」
と語っていた。
 だからなのか、彼はワガノワメソッドを踊るバレエダンサーのことを嫌っていた。バランシンメソッドは、ロシア人であるバランシンが渡米してから考えたメソッドだった。アメリカのバレエスクールや有名バレエ団で踊られているバランシンメソッドはみんな、ロシア人であるバランシンが作ったメソッドなのにも関わらず、ワガノワメソッドは嫌がっていた。
 私からすれば、ロシアのバレエとアメリカのバレエは似て非なるもので、アメリカ人はバランシンに感謝こそしても、どこに怒る要素があるのだろうと思う。
忠実に、言われた通りに踊れる堀内さんは起用されて当然なのだが、きっとミスターオットーは黄色人種にこだわったから、人種関係なくひたむきに頑張る姿が良いという所を見れなかったんだと思っている。
「バレエは白人のものだ」と、当時16歳だった子供の私に言っていたところが、残念だった。
私はその言葉を言われて、(ただバレエにひたむきに向かうところだけ見るのは分かるけれど、地位に溺れるところではないし、人種で芸術に携わっていいとか携わっちゃいけないとかではないのでは)と思っていた。
もし堀内さんがソリストだっとしても、彼はそこにはこだわらないだろうと思う。
アメリカが他民族国家で成り立つのを現実に感じたシーンだった。

 相まって奥さんのミスレイチェルは、バレエ大好き少女の私に深い愛情を注いでくれた。彼女はPNB(パシフィック・ノースウェスト・バレエ団)のプリンシパルダンサーだった人だが、バレエのテクニックはもうセンスがいいとしかいいようがなかった。どう踊ればいいのかは体が知っているというくらい完璧だった。
プリンシパルってすごい!と感じた瞬間を今でも覚えている。引退してもう何年も経つのに、レッスンを教える彼女の姿は美しかった。バランシンのパがよくわからなかった私でも、彼女のバランシンスタイルのバレエが綺麗に見えた。
 更に、内面から出る美しさからバレエが美しく見えるのか、彼女の素晴らしさは人間性にもあった。私だけじゃなくて、周りのアメリカ人もみんな、彼女のことが大好きだった。

 ある時彼女が私に、「あなたは、日本のバレエ界に帰ったら人気者ね」と言ってきた。
私はその言葉をもらっても、日本でバレエを続けていくことには不安しかなかった。だから私は、「私は有名なバレエ団を受けても受からないと思うんです。コンクールの入賞者じゃないと、日本ではダンサーとしてご飯を食べてはいけない。それに日本は勉強大国だから、日本に帰ったらバレエを続けれられるかどうかわからない。」と彼女に言った。
漠然とした不安のある私に彼女はいつも、「あなたには、アジア人には珍しいその脚の形と体型があるから。それに、誰よりもバレエが大好きなのが分かるから、大丈夫よ、自信持ってバレエを続けなさい」と励ましてくれた。

 そうやって、バレエを続けていくことに不安を感じる私に、彼女はいつも希望とバレエを続ける勇気をくれた。
彼女のおかげで、私は人に対する思いやりを知ることができたと思っている。
それから、バレエを踊るのは場所が大切じゃないんだということも教えてもらった。
踊る喜びさえあればどうにかなるって…

 今まで何度も舞台に立たせてもらってきた。そして、1つひとつの舞台を通して、様々な経験があった。
バレエのレッスンだけでなく、色々な人間模様も見えた。
アメリカ南部のアラバマ州・ハンツビルで、アジア人という理由で人種差別に遭いながらも、私を観て、「良かったよ」と素直に言ってくれた白人・黒人・アジア人の仲間や観客、ABTで仲良くなった友人、先生達がいた。
そして彼らは、今でも公演の度に、声掛けやDMをくれて応援してくれている。
 白人の中で私のバレエに対する姿勢を見て、人間性を見てくれる人達がいるのも確かだった。

・これが日本人の姿なんだって見せてくれた彼女
・私の知っている日本人
・彼女と知り合えたことを誇りに思う
・リスペクトしかない

とインスタでも投稿してもらえた。他にも嬉しい言葉をたくさんもらった。
そういった言葉をもらうたびに、

(ただただ、真面目にバレエを頑張っている。それだけでいいんだな…)
と思えた。
だから私は、自分といつも向き合っている。


日本人でよかったな。と思える瞬間を、舞台に立つ度に、経験させてもらっている。

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