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「対話」について、中島義道と斎藤環を参考にして、考える

哲学者として好きな人物に「中島義道」さんがいて、以前、彼について記事を書きました。

コチラのサイトで色々な方の名言を調べることが出来るのですが、そこで中島義道さんの「対話」について気になることがありましたので、いくつかの名言を紹介します。

「対話」が育たない「察する文化」の日本


<対話>を育てなかったわが国では、討論の形態は大きく二つのタイプに分かれるように思われる。一つは、互いに絶対的に意見を譲らずにエンエンと平行線をたどるタイプであり、もう一つはいとも簡単に各人の意見が一つに融合してしまうタイプである。

中島義道『<対話>のない社会』

日本では「対話」が育たなかったというのです。その理由として以下のように述べています☟

わが国に対話が欠けているのは、他者を理解しようとしないからではない。むしろ、他者をあまりにも安易に理解してしまう、正確に言えば理解していると思い込んでしまうからなのです。

中島義道『「うるさい日本」を哲学する』

これには、とても共感しますね。なんか僕は、「分かる~」とか言われると心の中でムカついちゃうタイプです。笑

「分かられてたまるか!」っていう反発心と共に、「なんだ、分かられてしまったか・・・」という落胆の気持ちが両方生じますね。

それらが生じる理由としては、以下のような価値観を持っているからだと思います☟

他人は自分にとって「異質な者」であると自覚すればこそ、自分も他人から見たら想像を絶する「異質な者」かもしれないという自覚が生ずる。相互に「異質」であるからこそ、そこにおたがいに安易には介入できない領域を承認しあい、尊重しあう態度が開ける。

中島義道『うるさい日本の私』

僕は、だからこそ、普段から敬語口調なのです。他人を異質な者として尊重してるからこそなのです。それを「タメ語でいこうぜ!」と無視する奴等は、「自分と他人が大体同じである」という幻想に陥って、領域を踏みにじってくるから嫌いですね。

話変わって、自分は普段は丁寧語を使っているので、ときたま初対面の人から「タメ語でいいよ」ってよく言われる。個人的にはこれがどうしても気に食わない。笑

そもそも論、なんで初対面の人にタメ語を使わなければならないのだ?僕だって気の置ける人にはタメ語で話しているが、それはその人と長年の時を経たからこそできる芸当である。なので、僕は、初対面の人と長年来の友人を同列に思うことはできないから、初対面の人にタメ語を使わない。なんか、初対面でタメ語を提案する側には、そういう長期的な関係性への配慮が無いばかりか、ずうずうしくも関係性の出来上がった友達と同列扱いされようとする部分が垣間見えてしまうのであんまり好きじゃない。

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「自分は自分であり、他人は他人であり、自分が感じたことを他人がそのまま感じれるわけがないし、他人が感じたことを自分がそのまま感じられるなんてありえない」と思っているので、他人を自分とは『異質な存在』として認め、他人を理解するというよりも、その事実を受け入れようという態度になります。

なので僕は、「分かる~」とは言わずに、「そうなんだ~」と言ってしまいます。

「分かる~」と言ってしまう人は、「自分も他人もだいたい同じ」と考えているが故に、自分軸で他人を判断してしまい、理解した気になっているだけなのではないかと思います。

その上、「自分、あなたという人間を理解してるよ」という態度でもって、どんどんと距離を詰めてこようとするもんだから、こっちとしては「うざったい」という印象を抱いてしまう。

まぁ、日本にはほぼ日本人しか住んでおらず、外国のような入交り方をしていいないから、「だいたい同じ」と考える気持ちも分からなくはない。そのおかげで日本は世界に類を見ない「ハイコンテクスト文化」を創り上げることができ、相手の気持ちを察する能力に長けた人となった。

ただ、その察するという文化が時としては悪い方向に行ってしまうことがある。具体例として挙げるとすれば、「同調圧力」である。

その同調が”正しい”方向へと向かっていれば良いが、”間違っている”方向へと向かっている際に、誰もが他人の思いを察して行動しているという「錯覚」に陥り、反対意見を言えない雰囲気にして、同調してしまうのだから埒があかない。

「赤信号 みんなで渡れば 怖くない」という名言が如実にその実態を表現しているし、このコロナ茶番において、「コロナワク みんなで打てば 怖くない」や「顔パンツ みんなで着ければ 一安心」など、日本人の負の面が噴き出してしまう結果となった・・・

そのような事態を繰り返さない為にも、

われわれが「語る」ことを取りもどすには、あえて他人を「察する」ことをやめなければならない。「察する」ことに鈍感にならなければならない。そして、その分だけ「語る」ことに鋭敏に勤勉にならなければならない。そこまでしなければ駄目なのだ。

中島義道『うるさい日本の私』

というような意識改革が必要なのではないかと思う。その為にも、個人的には、

むしろ、私は世の評論家や教師は、若い人々に「他人の痛みや気持ちをわかる難しさ」を教えるべきだと思っております。そこから、自然に他人に干渉しない、他人を異質なものとして尊重するという態度が養われるからです。

中島義道『哲学の教科書』

こういう態度で子ども達に向き合っていきたいと考えている。

そもそも論、「対話」とは何か?


この動画を参考にして考えたいと思います☟


対話とは【主観性の交換】であり、あなたと私の世界の違いを掘り下げて、ポリフォニーの世界を創っていくこと。


ポリフォニーとは、「各声部が独立した旋律とリズムをもちながら,調和を保つ多声様式の音楽」を意味する、音楽用語です。

まぁ、つまり、「モノフォニー(=ただ一つの声部しかない音楽)な状態ではなく、そして、シンフォニー(=いろいろの要素が作用し合ってできる調子)を最初から狙わずに、それぞれが好き勝手やっていく過程で自然に調和していく」みたいなイメージかと・・・。

森の幼稚園と同じなんだよな・・・。子ども達が好き勝手に自由遊びをしていて、それが自然とその森の幼稚園として成り立っていく感じ・・・。

対話の目的は、「どうでもいいこと、くだらないこと、無意味で無価値なことをたくさんしゃべること」で、「まとめず、結論付けず、対話を続けること」


*男性は対話が苦手の傾向…泣

直近の画像に記載されてある、『肯定とは「そのままでいい」よりも「あなたのことをもっと知りたい」』というのは、大事な態度だなと思いますね。

斎藤さんは、引きこもりの人を、一番最初の画像に記載があるように、「困難な状況にあるまともな人」として見ることを提示されていますが、この感覚はズバリ、「箱の外に出ている」という事ではないですかね!?

君が相手を一個の人間として見ている時に限られる。箱の外にいるということは、そういうことなんだ。

箱の外にいれば、以下の引用部分みたいに、相手を責める必要がなくなるから、結果として引きこもり問題が解決されるのではないかと思う・・・

時には、子どもを厳しくしつけることも重要よ。でも、私が息子をしつけようとしたのは、息子にしつけが必要だったからじゃない。息子に生活をめちゃくちゃにされたと思って、頭にきて、しつけていたの。しつけているあいだもそれ以外の時も、わたしは箱の中に入り続けていた。息子を、手を貸してあげるべき人間としてではなく、叱る対象としてしか見ていなかった。息子はそれを感じて反発したの。

「箱の中にいた私が何よりも求めていたのは、自分が正当化されることだったの。一晩中、いいえ、もっと前から息子を責め続けていたとしたら、自分が正当化された、自分が正しかったと感じるために、何が必要になる?」

「相手が間違っていなくてはなりませんね。息子さんを責めている自分を正当化するには、相手が責めるに足る人間でなくてはなりませんから」

「つまり、驚くべきことなんだが、こちらが箱の中にいると、相手が問題を起こす必要が出てくるんだ。つまり、問題が必要になる。」


対話じゃないものは、「結論ありきのもの」:議論、説得、尋問、叱咤激励、アドバイス


自分の意見を相手に飲み込ませようとしてはいけない。

対話をする為の条件①


・当事者との信頼関係を構築
・何をしゃべっても良いという安心感の醸成

これなんだよな。

保育の仕事って、子ども達と信頼関係を築けるかどうかが勝負ですよね。先生にとって一番大切なことだし、それで保育の仕事が決定づけられると言っても過言ではないと思います。

関係性作りをするのに一番適してるのがファーストコンタクトの時だから、最初から全力でやりにいかないとダメですよね。

この記事で書いたスウェーデンでの出来事はそれを象徴するようなモノだと思います☟

仲良くしたいが為に、最初は仲良くしない

1年間ドイツに留学していた時に、色々なご縁が重なって、スウェーデンの保育研修に参加することが出来ました。その研修には教育関係の仕事を長く勤めていらっしゃる方々が多く参加されていました。その方々は、日本からスウェーデンへ向かい、自分はドイツからスウェーデンに行き、現地で合流する流れでした。

ここで書きたいのは、あるスウェーデンの森の幼稚園を視察した時の出来事です。森の幼稚園に到着した参加者の方々は、登園してきた子ども達に対して「可愛い~」って言ってはしゃいだり、あろうことか、子ども達に近寄って話しかけたり、遊びに加わろうとしていました。

個人的にはそういう態度や行動って、子ども達のことを考えてないよなって思うのです。登園してきた子ども達がまず一番最初にすることって、「安心」を見つけることでしょ?家族より外の範囲の人達との社会性を築いていく最初の時期にあたるんだから、親と離れることに一抹の不安を覚えるのは当然かと。そこで、子ども達は幼稚園に到着したら、好きな先生や友達と話をしたり、自分の好きな遊びをしたりすることで、自分が幼稚園にいても安心する感覚を作ろうとしているハズです。そんなその幼稚園生活の一日の基礎作りをしている子ども達に向かって、見知らぬ人かつ見た目が全く異なる外人が幼稚園にいたり、あろうことか近寄ってきたりしたら、子ども達はどう思うでしょうか?きっと不安になるだろうと私は考えています。なので、私は、他の園にお邪魔する際は、最初はなるべく目立たないようにして、子ども達が一秒でも早く幼稚園で安心を見つけられるように協力するようにしています。

そういう考え方をしているので、登園してきた子ども達に対して、自分の欲望のままに行動するベテラン教育者を見た時にビックリしましたね。案の定、子ども達から不審がられてましたし、ファーストコンタクトが最悪なモノになってしまったので、今日一日で修正するのはキツイだろうなと遠目から見て思っていました。

僕は朝の会が終わって、子ども達が自由遊びの時間に入った頃に、コミュニケーションを図りましたね。もう朝の会というルーティーンを終えて、子ども達が幼稚園での生活リズムをつかんできたと判断したからです。こういう時はいつも1人で遊んでる子をターゲットにします。なぜなら、1対1で直接的なコミュニケーションがとりやすい(2人とかだと、片方が自分に好感を持ってくれたとしても、もう片方が良く思ってくれなかったら、どっかに行ってしまい、関係性を築けなくなる)、一人で没頭するタイプなので自分に興味を持ってくれたら深い関係性を築ける確率が高い子ども一人と仲良くできればその様子を見ている周りの子ども達が自然と寄って来てくれるという理由があります。

最初はその子の遊びを遠目から観察して、次第に距離を詰めていき、気づくか気付かないところで「自分」が遊び始めるんです。砂をいじったり、生き物を捕まえたりとかして自分で楽しんでると、運良くその子が自分の存在に気付いた時に、「何が楽しいの?」って興味を持ちながら寄ってきます。そしたらもうこっちのもんです。二人でキャッキャッと楽しんでいたら、他の子ども達も寄って来て、最終的には気の合う子ども達と深い関係性を築ける。

結局、その森の幼稚園の研修で子ども達からずっと人気があったのは僕だけでした。他の参加者には子ども達は予想通り寄り付かなかったですし、多くの参加者から「なんでそんなにキーくんは人気なん?」って質問されたりしました。参加者の中には30年以上幼稚園の先生をやっているというベテランの方もいらっしゃいましたが、まさかその方から上記の質問をもらうとは思ってませんでしたね。子ども達はスウェーデン語を話していて、僕を含めて参加者全員はスウェーデン語を話せませんでしたが、それでも関係性に違いが出てくるのはひとえに、「子どもの立場に立って行動できているかという意識」ではないかと、その出来事を通じて思いました。

まぁ、「可愛い~」って言いながら近寄っていく気持ちも分からんではないですが(実際に可愛いし、初めて外国人の子ども達と接する女性の先生だったらなおさら母性本能をくすぐられて我慢できないだろうと。)、研修中ということや、子ども達の生活にお邪魔させてもらってるという意識を”メタ認識”として持っておかないと、ただただ感情の赴くままに行動してたらエライ目に合うなと思いますね。

こんなこと考えてる幼稚園の先生っていないんですかね…?笑

対話をする為の条件②


・フラットな関係作り:役割(お父さん、お母さん、先生etc.)ではなく、ファーストネームで呼び合う
*「お前」は論外
*上から目線ではなく「対等性」が大事

人は全員「名前」を持っているんだから、それで呼べばいいだけだと思うのだが・・・。

「お前」とか言っちゃう奴はマジで論外だと思う。

「キーくん」というあだ名が付いてて、まじでラッキーだなと思いますね。

対話の効能は、「自発性が生まれる」こと!

自分が持っている結論に相手を導かないからこそ、最終的には相手が自発的に決定することになる。やっぱり、「誰かに決められたこと」よりも、「自分で決めたこと」の方が、頑張り具合が違いますよね。

対話とは、「オープンダイアログ」というフィンランド発祥の精神疾患ケアメソッド


「現時点で、ひきこもりに対してもっとも有効性が期待できる手法 / システムである」
ってスライドに記載があるけど、それが本当なら、凄いなと思う。

*フィンランドと言えば、教育先進国として有名ですよね☟

こんなこと考えてくれている教師って日本にいるのだろうか・・・???

最後に:察することが幸せにつながるのか?


個人個人のレベルで考えれば、誰一人として同じ人間はいないんだから、他人を理解するのは相当難しいことであるというのが、ちょっと考えたらすぐに分かりそうなのになと思ってしまう。

すると、察する(=自分基準で相手のことを決めつける)ことなんて、ほぼ不可能じゃないかと思ってしまう。

そもそも論、察してもらって嬉しいか?

「熱がありそう」とか「疲れてそう」みたいなのは、自分の健康を気にしてくれて嬉しく思ったり、「この商品、前に欲しいって言ってたから、今日の誕生日プレゼントとしてあげる」みたいなのは、自分の些細な発言を覚えてくれてて嬉しく思ったりとかか?

なんか、個人的には、決めつけられてる感があってあんまり好かないですね。あと、察するって独りよがりの行為だから、ものの見事に外してしまうことがあって、それは避けたいなと思ってしまう。

〈追記〉

そして、「状態」としての不登校の認識は実にシンプルです。なぜなら不登校という状態は「その子にとっては家にいること(学校に行かないこと)に合理性がある状態」といえるからです。この捉え方のコツは、環境を「学校」中心で考えるのではなく、「家」を中心に考えてみることです。

例えばいじめがきっかけであれば「いじめっ子がいるから学校に行かない」のではなく「いじめっ子がいないから家にいる」が正しい。きっかけがよくわからない子は「なんかめんどくさいから学校に行かない」ではなく「楽だから家にいる」が正しい。

不登校とは「学校に登校しないこと」ではなく「家に居続ける状態」であること。そして、その状態を保つことがその子にとって最も心地よい合理的な行動となっているということになります。

このような捉え方をすると、不登校の子供への初期対応も変わってきます。「学校への登校を促す」前にやるべきことは、「家から出る」ことになります。散歩でも運動でもいいし、休日なら家族と旅行に行ってもらってもいい。学校と家というどちらも超狭い世界で二択を迫るより、どうせ休むならいっそ思いっきり外の世界で遊んでこい!くらい言ってしまってもいいかもしれません。

人間というのは大変興味深いもので、「思いっきり休め!遊べ!」というと、経験上、大体8割が1〜2週間くらいで学校に戻ってきます。その多くは「休んだことへの罪悪感」「このままじゃヤバイという焦燥感」「やることがなくなったり飽きてしまって手持ちブサになる」「あれ、そもそも何に悩んでいたんだっけ?」「自分の悩みってなんかちっさいなぁ・・・」などなど。

重要なことは自分で構築した合理性を自分自身で否定させるという点にあります。基本、極端なロジックにコミットしている考えを他人が論理で崩すのは、容易ではないどころか逆効果です。「学校に行かないと人生困る」とか、「みんな君に会いたがっている」とか、そういう御託を並べても、目前の家にいる状態に合理性を感じている子どもにはほとんど届きません。不登校を解決できるのは、基本本人しかいない。そして、その答えを見つけられるのは、家の中ではなく外にある。不登校の半分は理屈で考えても原因が分からないからこそ、状態だけをシンプルに捉えた方が良いと私は考えています。

外にでていけない理由は人それぞれだと思うが、通底しているのは、社会は「恐ろしいもの」であり、「自分を拒絶するもの」だと捉えていることだろう。

この心境は、一朝一夕にはつくられない。
様々な理不尽な出来事を通し、自分を理解してもらえない悔しさや絶望感、悲しみや心の痛み、疎外感に孤独感、自己の非力さ・無力さの自覚とセットになった自己否定感、他人との比較による劣等感、他者への羨望と恨みつらみ… それら諸々感情が重なり合った結果として、「社会は恐ろしい」「社会は自分を拒絶する」が形成される。

だからこそ、まず必要なのは「ずたずたになった自尊心の復活」なのだ。「こんな自分でも受け入れてくれる人がいる・場所がある」と実感できることで、少しずつ本人の緊張感がほぐれ、罪悪感が薄れる。

治療を目指さず、ただ対話に没頭したら、
なんかしらんけど、治っちゃった。
ってのが、オープンダイアローグ。
- 斎藤環

それゆえ他者のトラウマに深く関わろうとする者には、一定の「覚悟」が要求される。何度裏切られてもすべて受け入れる、という覚悟ではない。それでは単なる自暴自棄と区別がつかない。覚悟とは「もしこの一線を越えてしまったら、たとえ被害者であろうと裁く」という覚悟のことだ。ある種の罪は、許されてしまうことが地獄につながる。許さないこと、毅然として裁くことが時に救済となる可能性を、「鬼滅」は極めて説得的に描いている。

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2018年2月に急逝した名優・大杉漣が自ら初プロデュースも務めて主演したヒューマン・ドラマ。受刑者を教えさとす宗教者"教誨師"という存在にスポットを当て、教誨師と6人の死刑囚との対話を通して、様々な反応を見せる死刑囚それぞれの心のありようと、教誨師自身の葛藤を静かに見つめていく。

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