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大和に祀られる出雲の神々

欠史八代 第六話  第四代 懿徳いとく天皇 

 欠史八代の中でも、懿徳天皇は記事書くネタに困るだろうなと思って、『出雲国造神賀詞いずものくにのみやつこのかんよごと』を温存していました(笑)。

出雲国造神賀詞いずものくにのみやつこのかんよごと』とは?


 『延喜式えんぎしき』巻八の「祝詞のりと」に収められている文書で、天穂日命あめのほひのみことに始まる出雲国造いずものくにのみやつこが新たに任命された際、朝廷で天皇の治世を祝して奏上した賀詞よごとです。

己命(大己貴神)の和魂を八咫鏡に取り託けて倭大物主櫛厳玉命と御名を称へて大御和の神奈備に坐せ、己命の御子、阿遅須伎高孫根の命の御魂を葛木の鴨の神奈備に坐せ、事代主命の御魂を宇奈提に坐せ、賀夜奈流美命の御魂を飛鳥の神奈備に坐せて、皇御孫命の近き守神と貢り置きて、八百丹杵築宮に静まり坐しき

出雲国造神賀詞 一部抜粋

 この賀詞では、大己貴神おおなむちのかみ和魂にぎみたまを「大物主おおものぬし」という名で三輪山に祀り、御子みこ神たちの御魂みたまもそれぞれの神奈備かんなびに祀って、皇孫の守護神としていますという内容です。出雲からの視点で語られますが、当時の歴史認識を伝える貴重な資料といえます。

以下に、出雲の神々が大和のどこで祀られているのかを一緒に見ていきましょう。


大和に祀られる出雲の神々


大神おおみわ神社

 大物主神おおものぬしのかみは、賀詞よごとでは「三輪山に鎮座する大己貴神おおなむちのかみ和魂にぎみたま」とされ、大神神社に祀られています。大神神社は、三輪山そのものを御神体とし、本殿は無く、古来の姿を今に伝える日本最古の神社として知られています。以前の記事で紹介していますので、ぜひそちらもご覧ください。


高鴨たかかも神社

 阿遅志貴高日子根命あぢしきたかひこねのみことを祀るこの神社は、初期の天皇に皇后を輩出した磯城県主しきあがたぬしの一族にも関連しています。磯城県主の一族は、大己貴神おおなむちのかみ大国主神おおくにぬしのかみ)の御子である事代主神ことしろぬしのかみの後裔であり、同じく大己貴神の御子である阿遅志貴高日子根命を祖とするのが鴨族です。前回記事で高鴨神社(上鴨社)、葛城御歳かつらぎみとし神社(中鴨社)、鴨都波かもつば神社(下鴨社)を紹介していますのでそちらをご覧いただけたらと思います。


河俣かわまた神社

事代主神ことしろぬしのかみを祀る宇奈提うなては、『延喜式』の高市御縣坐鴨事代主たけちのみあがたにますかもことしろぬしの神社とされますが、現在の河俣かわまた神社がその所在とされています(他説あり)。

社号標と一の鳥居 奈良県橿原市雲梯町うなてちょう689
二の鳥居
三の鳥居
神社の西を流れる曽我川
拝殿
 御祭神 鴨八重事代主神かもやえことしろぬしのかみ
壬申の乱じんしんのらんの際、高市社たけちのやしろ(河俣神社か)の事代主神と、身狭社むさのやしろ(現在の牟佐坐むさにます神社)の生霊神いくみたまのかみが、高市縣主たけちのあがたぬし許梅こめに神懸かりして、「神日本磐余彦天皇かむやまといわれびこのすめらみことみささぎに、馬と様々な武器を奉れ。そうすれば大海人皇子おおあまのおうじ(天武天皇)を守護する」と神託しました。河俣神社は陵のある畝傍山うねびやまの北西に位置し、距離感は写真のような感じです。
万葉歌碑


飛鳥坐あすかにいます神社

 賀夜奈流美命かやなるみのみことを祀った「飛鳥の神奈備」ですが、飛鳥坐神社の旧地とする説や、高市郡の式内社 賀夜奈流美命神社だとする説などがあります。

飛鳥坐神社  社号標と一の鳥居、手水舎、由緒書
由緒書 賀夜奈流美命は、飛鳥神奈備三日女神(下照姫命・加夜奈留美命)という名で祀られています。神社の説明によると、賀夜奈流美命とは、下照姫の御魂ということになります。
拝殿
拝殿内
奥の社。祭神 天照皇大神あまてらすすめらおおかみ 豊受大神とようけのおおかみ 奥の大石 御皇産霊神かみむすひのかみ
奥の大石。 境内いたるところに陽石があります。当社では、陽石を磐代いわしろとして、山の神を迎え、穏やかな春が来ることを祈る陽石信仰が行われています。
西日本三大奇祭の一つに数えられる おんだ祭
「珍々鈴」。  宮司家は崇神朝から数えて現在87代目だそうですから、子宝、安産、子孫繁栄のご利益は間違いなしですね!
御朱印



加夜奈留美命かやなるみのみこと神社


 『延喜式』に記される加夜奈留美命神社ですが、中世にはその所在がわからなくなります。当社は中世以降「葛明神」と称して隣接する龍福寺の鎮守社になりますが、上古は式内社 瀧本神社であったとされます。明治初期に当時石上いそのかみ神宮の神官であった富岡鉄斎が加夜奈留美命神社はこの地であると主張して復興されたものです。元の葛(九頭)神社は境内に末社として祀られています。

奥明日香柏森かやなもり集落にあります。
お寺の雰囲気?
鳥居ありました
本殿
境内末社 葛(九頭)神社 御祭神 九頭神(高龗神?)
境内にポツンと。今は遊ぶ子がいない様子のすべり台


皇孫の守護神ということで、祀る範囲に意味があるのかな?と思って、神社と天皇陵の関係をマップにしてみましたが、1〜9代天皇のうち、7代孝霊天皇と9代開化天皇は奈良盆地の中〜北部なので大きく外れます。あと5代孝昭天皇がわずかに外れています。『記紀』編纂を命じた天武・持統陵は範囲内でした。でも、まぁ、これはあまり意味がないかもしれません(^_^;)


懿徳天皇の宮と御陵


懿徳いとく天皇 軽曲峡宮かるのまがりおのみや

『日本書紀』は「軽曲峡宮」、『古事記』は「軽境岡宮かるのさかいおかのみや」と記します。橿原市白橿町に木碑が建っています。いろいろ訪れていますが、ここの碑が一番残念な感じです。住宅開発が行われる前はどのようになっていたのでしょうか。

 リスペクトを感じない。
碑から畝傍山へ続く一直線の道(見瀬五井線)が印象的です。でも、『日本書紀』の軽曲峡宮かるのまがりおのみやの「峡」という字は「山と山の谷あい」という意味だと思うので、もう少し下った場所にあったんじゃないかなぁ。 ただ、そうすると第八代孝元天皇の「軽境原宮」とほぼ同じ位置になってしまいますね…。 独り言です。


御陵

畝傍山南繊沙渓上陵うねびやまのみなみのまなごのたにのえのみささぎ 以前は神宮の森のイトクノ森古墳とされていましたが、文久の修陵で通称マナゴ谷の現在地に治定されました。

見栄えする御陵です
『延喜式』兆域東西一町✕南北一町 守戸五烟
 『記紀』が記された頃、『延喜式』の頃、そして江戸時代の修陵前の姿が見てみたい
御陵印
初代神武天皇から第四代懿徳天皇まての御陵は畝傍山のふもとにあります。


欠史八代天皇の事、事績が記されていないなら、系譜から考えてみましょう。

稲置いなきとその歴史的背景


「稲置」は、律令制以前に存在した皇室領の管理者であり、稲の収納を担当する地方長官とされています。

安寧天皇の系譜

 『古事記』によると、第三代安寧天皇の御子である師木津日子命の子孫は、伊賀の須知すち(現在の三重県伊賀市)、那婆理なばり(名張市)、三野(名張市美旗付近)を治める稲置の祖先と記されています。これにより、安寧天皇の孫が現在の三重県伊賀・名張地方を皇室領として管理していたことが伺えます。

懿徳天皇の系譜

 第四代懿徳天皇の御子、当芸志比古命たぎしひこのみことは、血沼別ちぬのわけ(大阪府泉州地域)、多遅麻の竹別たじまのたかのわけ(但馬、兵庫県豊岡市竹野町)、葦井稲置あしいのいなき(但馬地方)の祖先とされています。この記述から、懿徳天皇の子がこれらの地域を基盤にしていたことがわかります。

 このように、安寧天皇から懿徳天皇にかけての系譜を紐解くと、世代的には第五代孝昭天皇と同世代の皇族が、三重県伊賀・名張地方、大阪府泉南地域、兵庫県但馬地方に勢力を持っていたことになります。これらの地域への影響力の形成は、欠史八代を考察する上で興味深い点です。こうしたことをつなぎ合わせてみると、事績が記されていない欠史八代でも、何か見えてくるものがあるように思います。

最後までお読みいただきありがとうございます。次回は第五代孝安天皇です。


 


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