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どうして人は自由を求めるのに自らを制限するのか?

模範的回答は「自由と言っても”公共の福祉に反しない限り”という制限があるから」なんだと思います(笑)。

しかし、その「公共の福祉に反しない」以上に制限をかけてしまう心理状態って、意識的なのか?無意識的なのか?

はたまたストレスなのか?といった正解のない問いについて、今回は書いてみようと思います。

共感や理解をしていただけるのかわかりませんが、最後までお付き合いいただけると幸いです。

なお、「note」での活動にフォーカスして書いていく中で、あなたの価値観と違う表現が出てくるかもしれません。

ですが、その価値観の違いについて、改めて考えていただき、あなたの「note」に反映していただけたら、嬉しく思います。

決して、誰かを批判したりする内容ではありませんが、捉え方は人それぞれですし、こちらも使用する言葉や文章表現には最大限配慮しますが、至らない部分もあるかと思います。

ご容赦頂ければ幸いです。

女性・インスピレーション・森林・夕日・解放感・自由

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自由とは虚構である。

①自分の意のままに振る舞うことができること。また、そのさま。「自由な時間をもつ」「車を自由にあやつる」「自由の身」
②勝手気ままなこと。わがまま。
③ 《freedom》哲学で、消極的には他から強制・拘束・妨害などを受けないことをいい、積極的には自主的、主体的に自己自身の本性に従うことをいう。つまり、「…からの自由」と「…への自由」をさす。
④法律の範囲内で許容される随意の行為。(デジタル大辞泉より)

上記は「自由」に対する意味合いなのですが、人は「①」や「②」を求めながらも「④」についても考慮していると考えられます。

この時点で、すでに「自由という言葉自体が制限を受けている」ことは明確であり、この矛盾が、そのまま自由について思いを巡らす際の閉塞感に繋がっていると、私は考えています。

つまり、「自由になりたい」と考えることは「自由にも制限がある」ことに意識が向くことでもあり、その事実を認識することで、さらに人は心に閉塞感を抱いてしまうというジレンマが存在するということです。

よって、「自由」について考える際、もっとも「自由」に近いのは、「③」の消極的意味合いである「他から強制・拘束・妨害などを受けないこと」に落ち着くのが自然ではないでしょうか?

誰もいない空間」や「何も強制されない時間」にその身を置く行為が「自由」と表現されているのではないか?ということです。

女性・ウェディングドレス・指輪・ヴェール

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制限は自由以上に幸福感を与える。

最たる例は「結婚」という制度ではないでしょうか?

生涯の伴侶との永遠の愛を誓い、が二人を別つまで、ともに運命を共にする…。

これほどまでに拘束力のある制限は、あまり存在しません。

ですが、人はこのような制限のある暮らしに憧れ、そこに幸福感を見出します。

「自由」という虚構よりも「制限」という現実を優先させるという意味において、実は「結婚願望」というのは、「理想を求めるロマンティスト」ではなく「現実重視のリアリスト」なのかもしれませんね。

要するに、「一人、自由気ままに暮らしたい」というのは虚構だと捉えることも出来るということです。

もしくは、「自由にも制限がある」ことを理解しているのであれば、自虐の意味を含んだ言葉なのかもしれません。

…これは、完全に個人的な意見なので、どうかご容赦をm(__)m。

ノートパソコン・ラップトップ・ノート・机の上・花・軽食

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「note」での「自由」と「制限」

よく聞くテーマですが、「誰のための投稿なのか?」「なぜ投稿するのか?」「どんな目的での投稿なのか?」について、考える機会は多いと思います。

ですが、これらは全て「制限」です。

note」でも、やはり「制限」がある投稿のほうが、幸福感…ではありませんが、投稿のしやすさを感じるのでしょうか?

好きなこと」や「自己解放」「自己肯定」といった言葉は、一見すると「自由」を連想させます

一方で、「PDCA」や「分析・統計解析」「書くテーマを決める」といった「制限」を連想させる言葉を、同記事内で使用する場合、そこに矛盾を感じる人というのは、どれくらいいるのでしょうか?

「制限つきの自由」という概念

冒頭に述べた結論へと進みますが、改めて「”公共の福祉に反しない”以上に制限をかけてしまう心理状態」とは、どういった状態なのでしょうか?

女性・ファッション・部屋・ジーンズ・靴を履く

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「制限」があるからこそ「自己表現」が可能になる。

ファッション」を例に考えてみましょう。

服を着る」というのは「公共の福祉に反しない」という「制限」を受けたものです。

この「制限」の範囲内での「自由を求める行為」が「自由」であり、その「自由」の行き着く先が「自己表現」だと私は考えます。

ここに「季節感」や「季節の先取り」という新たな「制限」を加えてみましょう。

服を着る」行為は、公衆衛生上の行為であり、それ以上のことは本来「制限」されていません。

ですが、あえて自ら「制限」を加えることによって、自分の「自由」を顕在化させた「自己表現」が出来上がるのです。

以上の事から、「”公共の福祉に反しない”以上に制限をかけてしまう心理状態」というのは、矛盾するように感じるかもしれませんが、「自由を求めるがゆえの心理的行為」であると、私は結論付けたいと思います。

女性・ファッション・屋外・日差し・髪をかき上げる

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いかがだったでしょうか?

人がなぜ、自由を求めながらも、自らに制限を課すのかは、「制限された自由にアイデンティティを見出しやすいから」というのが、私の考えです。

これも個人的な意見ですが、「真なる自由」は存在しないと思います。

例えば、「」というものに「解放や自由」を求めても、そこにだって「秩序」や「虚無」といった「制限」は在るということです。

ですから、人は「自由」という言葉のもつ力に縋りたくなる生き物ではありますが、実は「制限」されることを求めているのだと思うのです。

…なんだか気持ちの良い納得感は感じないかもしれませんが、何かあなたの価値観に響くものがあればうれしく思います。

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ということで、最後までお読みいただきありがとうございました。

今回の投稿は以上です。

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