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【ジャズ小説】ラプソディ・イン・アムステルダム

こちらは八幡謙介が2015年に発表した小説です。


ラプソディ・イン・アムステルダム


nul


「じゃ、演奏はここまで。ここからはセッションタイムに入るから、弾きたい人はステージに出てきてね。」
 サックスのドイツ人っぽい大柄な女の子が、明るい笑顔で客席に告げた。
 ――ほら、始まったぞ! 立て、よし、そうだ、そのまま前に歩いていけよ、ビビんな! 参加するって決めたんだろ? そのためにアムステルダムに来たんだろ? 
 僕の中のもう一人の僕がはやし立てる。震える足をなんとか前に進めてステージへと登った。すると、広い会場の空気が一瞬ざわついたのが肌で感じられた。東洋人だからだろう。
 ――逃げろよ、逃げていいんだぜ?
 ――ダメだ、ここで逃げたら負け犬だぞ! なんのためにここまで来たんだ? なんのために今までギターを弾いてきたんだ!
 2人の僕がせめぎ合う。
 ギターをケースから取り出し、備え付けのアンプにケーブルをさして、ステージ上の若いミュージシャンたちを見廻す。
「何する?」
「じゃあ、ブルーズで。」
「キーは、Fだな。」
 すかさずピアノがイントロを始める。
 僕はまだ震える足をなんとか踏ん張って、ようやく顔を上げ、扇状の客席を見渡した。アムステルダムいち大きなジャズクラブ、〈ビムハウス〉のステージから見る景色は、まるでグランドキャニオンのように雄大に感じられた。


 セッションが終わり、ハイネケンを飲みながらほっと一息ついていると、ライダースを着た白髯の老人が声をかけてきた。「ヘイ! お主はいいギターを弾くな。儂は好きじゃよ、オールド・ビバップみたいじゃ。どこかで習ったのか?」
 さっきドラムを叩いていた爺さんだ。僕のフレーズにノリノリで合わせてきて、いいドラマーだなと感じていた。
「ありがとう。ボストンのB音大に行ってたんだ。アムステルダムには来たばっかりで、ここでのセッションは今日が初めてなんだよ。」
「そうか、儂はラルフ、地元の人間じゃ。お主は……ケンか、よろしくな。ケン、よかったらこの街でセッションをやってる店を案内してやろうか。自転車は持っとるかの?」
 僕は先日、質屋でダッチバイク(オランダ独特の自転車)を買ったばかりだった。アムステルダムに自転車は必須だ。
「ああ、持ってるよ、ぜひ案内してほしい。」
「OK、明日でいいか? よし、待ち合わせは4時にライゼプレーン、分かるかの? 日曜日は儂がホストをやっておる初心者セッションがあるからそこも来てくれ。」
 僕はもちろん了承し、何人かとしゃべってから店を後にした。さい先の良いスタートに心は弾んでいた。
〈ビムハウス〉を出て、ギターをたすき掛けにし、ダッチバイクに乗って運河沿いの道を走り出すと、ビールとジョイント、それに初セッションをなんとかこなした疲労感でくらくらしている頭が少し冷めてくる。大通りの先にレッドライト・ディストリクトの喧噪が見えると、僕はやっとこの街での第一歩が始まったことを実感した。


een


 ほんの少し前までは、語学留学でハンブルクに滞在していた。ボストンでやっていたバンドもそのために辞め、意気揚々と移ったはいいものの、ドイツ語の異常な難しさと、ドイツ北部の独特な気候――冬は日の出が10時、日の入りが5時ぐらい、空はずっと曇りで、めちゃくちゃ寒い――に、すぐに滅入ってしまった。年末の休みになると、僕は逃げるようにアムステルダムを訪ねた。
 ハンブルクが楽しくなかったせいか、アムステルダムは僕の目に華やかに映った。レッドライトの喧噪や、あちこちから臭うマリファナの妖しい香りだけでなく、街の至るところを走る大小の運河や、赤茶色のレトロな建物、ぼーっとしていたら轢かれそうになるほど静かなトラムなども、北ドイツのよそ者をはねつける硬質さとは違って、どこか温かく感じられた。
 ――この街に住みたい!
 ハンバーグに閉じ込められた肉汁がナイフの一切りで溢れ出るように、一度浮かんだ『住みたい』という思いは、僕の裡から溢れ出て、もう止まりそうになかった。
 年が明け、どんよりとした気持ちでハンブルクに戻るとすぐ、僕はネットカフェに入り浸って部屋探しを始めた。語学学校の授業は一応出てはいたけど、全くやる気はなく、そんな僕に露骨に嫌な顔をしたり、イヤミを言う先生もいた。そういうとき、僕は彼らにナチスの影を見るのだった(実際、優しい先生はみな移民で、イヤミなのは金髪のドイツ人だったから)。
 部屋探しは難航した。とはいっても僕はそれほどあせってはいなかった。見つからなかったら日本に帰ればいいだけだし、実家に住んで働きながらお金を貯め、改めてアムステルダムに移住するのもありだ。今すぐ無理して高いところに引っ越しても、結局資金が尽きて帰るのがオチだろう……。そう考えてゆったり構えていると、ある女性からメールがあった。

 ハイ、ケン。あなたのオファーを見ました。ちょうど一部屋空いたところなのでよかったらお貸しできますよ。一度内見に来ませんか? ――フローラ

 「来た!」
 ブラウザを見つめながら思わずそう呟くと、店のおやじが怪訝そうな顔をした。
 とある掲示板に出ていたかなり好条件の部屋のオーナーからだった。家賃も安いし、保証金一ヶ月分、礼金なし、しかも家具付き! 当然競争率も高いだろうし、入居希望者が複数集まればたぶん東洋人は弾かれるだろうと最初から諦めていたんだけど、一番最初にメールを送った僕に返信をしてくれたらしい。僕はすぐにメールを返した。
 翌日、同じネットカフェに行くと、大家のフローラさんからまたメールが来ていた。少し詳しく話したいから電話をしてほしいと。番号を控え、すぐにトルコ人が経営している国際電話屋に行き、電話をかけた。
「はい――」
「あ、フローラさんですか? 僕はケン、アパートのことで電話したんだけど……」
 どもりながら早口で話すと、電話の向こうで彼女の声が明るく弾んだ。
「あぁ、ケン! ハイ、オファーをありがとう。条件はどうかしら?」
「最高だよ! ぜひ借りたいんだけど、他にもオファーがあったんじゃない?」
 言ってから『しまった!』と感じた。こういう遠慮は海外では無用なのだ。しかしフローラさんは落ち着いた口調で、
「あなたの後から何通かメールが来たけれど、今のところキャンセル待ちということにしているの。ケンが借りてくれるなら他の人は断るわ。」
 と、当然のことのように告げた。こちらでは珍しいくらい誠実な人なんだ。他のオファーを引き合いに家賃をつり上げるようなオーナーもいるのに。このやりとりだけで、僕の心はもう決まっていた。
「もちろん、ぜひ借りたいよ。そちらの都合のいい日に見にいくから、いつがいいか教えて?」
 僕は紙に住所と日時を控え、フローラさんに礼を言って電話を切った。
(やった、これでアムステルダムに住める!)
 心は躍り上がらんばかりに高揚していて、このときばかりはハンブルクの鬱陶しい空も、2月の刺すような冷たい風も全く気にならなかった。
 引っ越し準備を口実に授業をサボり、僕は再びハンブルク中央駅からアムステルダムへと向かった。前回同様、オスナーブルックの小さな駅で乗り換え、まっすぐ西へ。よくできたもので、国境を越えてオランダに入ったとたん、景色が切り替わり、建物の色がだんだんと赤茶色に変わっていく。それを見ていると僕の心も弾んでくるのがわかる。ドイツ自体はそんなに嫌いじゃないんだけど。
 アムステルダムの中央駅(セントラム)を出ると、僕はすぐに一本右の大通りに出て車道を渡り、右側の歩道を南下して、前回泊まった〈ボブズ・ユースホステル〉を目指した。ドムは乱雑だけれど格安だし、店員もフレンドリーで気にいっていた。
 ホステルの看板が見えると、半地下の鉄の扉を開ける。すると一瞬でマリファナの気怠い香りが全身を包み込む。アムステルダムのハッパは香りが強く、匂いを嗅ぐだけでストーンしそうになる。見るからに妖しげな客たちが小汚いテーブルで真っ昼間から一心にジョイントを巻いたり、マッシュルームを囓っている異様な光景をよそに、僕は奥のカウンターへと向かった。
「あら、また来たの?」
 ドレッドの女の子が僕のことを覚えてくれていた。
「うん、実はこっちでアパートが見つかって。ドイツから引っ越そうと思ってね。」
「いいじゃん!」
「ドムで3泊、空いてるかな?」
「空いてるわよ。」
 本当は1泊、いや、とんぼ返りでも大丈夫なはずだけど、授業をサボるため3泊にした。支払いを先にすませると、カウンターの右にある階段を上り、とりあえず自分のベッドに向かった。昼過ぎなのにドムでは何人もまだ寝ている。朝まで騒いでいたんだろう、ここではいつもの光景だった。
 フローラさんとのアポイントまではハッパも吸わず、本を読んで時間を潰し、頃合いを見て下に降りていった。そして、アパートへの行き方をさっきの子に訊ねようとメモした住所を見せると、驚きの言葉が返ってきた。
「わかんない……これダッチじゃないもん。」
「え?……」一瞬で全身が凍り付く。
「そ、そんな!そんなはずないよ、だって、アパートのオーナーに直接聞いたんだし……」
「ごめんなさい……。でも、私にはこれをどう発音していいかわかんない。このストリートも聞いたことないし……」
 困惑顔の僕らを見て、他の店員も寄って来た。女将さんっぽい女性も僕が書いた綴りを見て首を傾げている。どうしよう! もうすぐアパートに向かわないといけない、でも場所が分からない、そうだ、電話は? ……クソッ! こんなときに限って電話番号のメモを忘れてきた。今からネットカフェに行ってもういっぺんメールを確認して、フローラさんに電話をかけて……、
 と――
「ねえ、これ〈オーフェルトゥーム〉じゃない?」
 と誰かが言った。
「あ、そうだわ! 英語読みだと〈オーヴァートゥーム〉になるでしょ? この綴りだったらそう読めるし、ほら、ここよ。」
 ドレッドの子が観光用の地図を開いて指をさす。そこには〈overtoom〉と書かれた通りがあった。僕は番地を探した。
「405……うん、アパートだ、ここだ! 良かったぁ……ありがとう!」
 カンダタが蜘蛛の糸をよじ登って、無事地獄から天国にたどり着いていたら、きっとこんな気持ちだっただろう。僕はゆっくりと深い溜息を吐いて、知恵を絞ってくれた皆に何度もお礼を言った。そして、妙に疲れた体を引きずるようにし、タクシーを拾って目的地へと向かった。


 大通りに面した赤茶色の、映画に出てきそうなアパートを見あげ、もう一度番地を確認した。確かにオーヴァートゥーム405で間違いない。胸の高鳴りを押さえながらベルを鳴らす。すると数秒経ってドアが勝手に開いた。ゆっくりと開けると、目の前に細くて急な階段がある。ずっと上に暗い小さな踊り場があって、そこに細身の女性が立っていた。両手で紐を引っ張っている。
「ハイ、ケン。中に入ってちょうだい。ドアを閉めるから。」
 彼女はそう言って紐を持ったまま両手をちょいと上げた。僕は急いで中に入る。女性が紐を手から放すと、ドアはひとりでに閉まった。なるほど、いちいち階段の下までいかなくていいようにそうなっているらしい。もしくは、防犯用か。早足で階段を駆け上がり、
「ハイ、フローラさんだね。はじめまして、ケンです。」
 僕はそう言って、狭い踊り場でフローラさんと対面した。年齢は恐らく30過ぎ。柔らかな赤毛に、垂れ気味の大きな瞳、薄く形の良い唇は両端がきゅっと持ち上がっている。想像していたよりもおっとりとして優しそうな美人だった。背は180センチの僕よりも少し低く、オランダ人にしてはやや小柄な部類に入るのかもしれない。
「はじめまして。時間きっちりね、迷わなかった?」
 フローラさんは、電話で聞くよりも柔らかい口調で僕を気遣ってくれた。とっさにさっきのユースホステルでの顛末を話しそうになったけど、それだと彼女が気を悪くしそうだったから、
「うん、セントラルからタクシーで来たんだけど、わりと近かったよ。」
「そうね、駅まで歩けなくもないし、自転車があればすぐよ。じゃあ部屋を案内するわね。」
 そう言ってフローラさんは僕に背を向けると、また急な階段を上っていった。揺れる髪から、シャンプーのいい匂いが漂ってきた。
「あなたの部屋は3階、部屋は3つあって、オランダ人の男性と、アイルランド人が使ってるわ。――フローラよ、入るわね!」
 少し汚れた扉の前で彼女はそう告げ、細長い鍵を鍵穴に入れた。平日の昼間だからか、ルームメイトは誰もいないらしかった。
 初めて観るオランダの一般的なアパートは、造りがちょっと古く不安だったものの、新鮮さと好奇心のほうが僕の中では勝っていた。キッチンは狭く、ダイニングはなし。シャワーは電話ボックスぐらいの広さで座れないけど、トイレと別なのが好印象だった。そして、肝心の僕の部屋は、ベッドや棚もあり、ギターとアンプを置いても十分なスペース。日当たりもいい。
「どう? 狭くはないと思うんだけど……」
伺うようにこちらを見つめるフローラさんに、
「うん、全然問題ないよ。借りてもいいかな?」
 そう言うと、彼女は安心したように、にっこりと微笑んだ。


 フローラさんに別れを告げると、僕はコートの襟を立てて、散歩がてらオーヴァートゥームをセントラムの方へ徒歩で向かった。心なしか移民が多い気がしたが、治安の悪さは感じなかった。ガラの悪そうな人は見当たらない。アムステルダムもハンブルクと同じくらい寒かったけど、心はポカポカと火照っていた。
 ――この街に住めるんだ!
 契約書のようなものを交わさなかったのがちょっと気がかりだった。でも鍵はもう貰ったし、家賃を先に払ったわけでもない。それに彼女のあの人柄! おっとりしていて、瞳がせかせかと動かずいい意味ですわっている。口調は常に穏やかで、いつも気遣いが感じられた。結婚しているらしいが、旦那さんを心底羨ましく感じた。『奥さんにしたい女性は』と訊かれたら、どんな男でも真っ先に思い浮かべるようなタイプだ。
 オーヴァートゥームの突き当たりを右折し、ライゼ通りを真っ直ぐ、運河を何度も越えて、今度はスパイ通りをセントラムへ。しばらく歩くとさすがに寒さで体が震えてきた。ダム・スクウェアあたりで今夜のジョイントを買うため、コーヒーショップを探した。
 この街で〈コーヒーショップ〉と名がつく店は、全てマリファナやマッシュルームなどの合法ドラッグを扱っている。それらを楽しみながら軽く飲食する店だと思えばいい。食べ物を扱っていない店もたまにある。大通りに面した有名店は観光客がうるさいから、路地裏で見つけた小さな店に入り、煙草のまじっていないグラス・ジョイントとコーヒーを注文した。ソファにもたれ、極太のジョイントに火をつけて一口吸い込む。するとすぐ、柔らかな頭痛が起こり、目に映るものの立体感が強調される。ストーンしてくると人は眩しさを過度に感じる、という習性から、コーヒーショップはたいてい薄暗くしてある。薄暗がりの中に浮かぶウォーホールのポスターをぼんやり眺めながら二口ほど吸って、一旦火を消した。まだ慣れていないので、吸いすぎると不安感が出てしまうんだ。量を自分で調節できないやつはダサい。
 コーヒーをすすり、僕は引っ越してからのプランを考えた。まずは毎週火曜日の〈ビムハウス〉のセッションに行く。そこで情報を集め、他の店のセッションにもどんどん繰り出していく。改めて考えると何ともいい加減だったけど、ハッパの効果もあいまってか、上手くいきそうな気がした。
 時計を見るとまだ5時過ぎだ。
 ――後でレッドライトにでも行くか……
 少しニヤつきながら、僕はまたジョイントに火をつけた。


twee


 ビムハウスでの初めてのセッションが無事終わり、セントラムの喧噪を抜けて、すっかり人気のなくなった夜のオーヴァートゥームをダッチバイクで走り抜けて、無事アパートへと到着した。引っ越してから数日経つが、改めて思うに、郊外の治安はかなりいいらしい。歩道の端の、地面から突き出ている半円状の鉄パイプと自転車を鉄のチェーンで結び、細長い鍵で扉を開けて、階段を足音を立てないよう、ゆっくりと上っていった。先日、足音がうるさいと苦情が来ている、とフローラさんから優しくたしなめられたからだった。めんどくさいなと思ったけど、トラブルはおこしたくなかったし、なによりフローラさんを困らせたくなかった。その一方で僕は、彼女の垂れ目がちな瞳が困惑に泳ぎ、両端のきゅっと上がった唇が固く一文字に結ばれて、いつもの落ち着いた態度を失い、イライラと足踏みする様子をいつまでも眺めていたいという、Sな妄想に駆られていた。フローラさんは、そういう想像をかき立てる人であることは間違いない。
 馬鹿みたいな妄想を膨らませながら、部屋の鍵を開ける。自室に入るまでには三度――アパートの入り口と部屋、そして自室――鍵を開けなければならない。この作業をまだ寂しく感じる分、僕はヨーロッパに慣れていないのだろう。アメリカはもう少しおおらかだった気がする。
 たすき掛けにしたギターを部屋の壁に立てかけ、コートを脱ぎ、すぐにTVをつける。ベッドに座ってジョイントに火をつけ、MTVを見ながら、今日のセッションの反省をすることにした。
 ラルフ(白髯のドラマー)は僕を気にいってくれた。他のプレイヤーもそれなりに認めてくれている雰囲気だった。ただ、今日の演奏は自分の中では50点ぐらい。もっとうまく――技術的にという意味ではなく――やれたという気持ちが強かった。その原因は……、
 ――緊張。
 これに尽きるだろう。足は小刻みにがくがく震え、首や肩はすぼまり、指先から腕はまるで棒のように固まっているのが演奏中自分でもありありと感じられた。特に、ピックを持つ親指の硬さはどうしようもなかった。先端から甘い香りを漂わせているジョイントを一旦灰皿に置き、右手の親指をクイ、クイと動かしてみた。まあ、思い通りには動く。しかし、ステージに立つと魔法にかかったようにここが固まってしまうのだった。あれさえなければ、例えば、今こうしてリラックスしているのと全くおんなじ感覚で演奏できたなら……。
 テクニックや音楽理論なら音大でも、個人レッスンでも学べる。しかし、ステージ上でいかに緊張せずに弾くかなんて、誰も教えてくれやしない。だから自分で、実践の中で掴み取るしかないんだ。B音大を卒業する前から僕は、今日、明確に浮かび上がった問題、『緊張におけるパフォーマンスの減退』を半ば予見していた。
 ――人前に出ても緊張せず、練習と同じようにリラックスして弾けるようになるためには……。
 恐らく、心を鍛える必要があるだろう。
 では、どうやって……?
 昔日の侍たちは、剣の修行は突き詰めれば心の修行だと確信し、こぞって参禅したとか。ここはアムステルダムだが、禅の坊さんが一人ぐらい住んでいてもおかしくはないだろう。ネットで探すか、それとも、公園で一人座禅でも組むか……。
 ジョイントを消して、冷蔵庫に冷やしておいたハイネケンを取ってきた。ストーンした体をビールの冷気が洗い、同時に新たな刺激を胎内にもたらしていく。すると、ふと僕の脳裏に一冊の本が浮かんだ。
(そうか! あれに……確か、持ってきていたはずだけど……)
 本棚に這い寄って、ふわふわした手つきで乱雑に並べた本をあさると、あった!
『柳生宗矩 兵法家伝書 岩波文庫』
 ページをめくると、何度も読み返して折り目がついていたらしく、該当箇所はすぐに見つかった。

一、病気のこと
 かたんと一筋におもふも病也。兵法つかはむと一筋におもふも病也。習いのたけを出さんと一筋におもふも病なり、かからんと一筋におもふも病なり。――

 沈没(ストーン)した頭独特の集中力で、いにしえの侍が著した文章を一心に読み進める。

後重
 後重には、一向に病をさらんとおもふ心のなきが病をさる也。さらんとおもふが病気なり。病気にまかせて、病気のうちに交じりて居るが、病気をさつたる也。

 ――!
「病気にまかせて、病気のうちに交じりて居るが、病気を去ること……」
 僕は思わず声に出してそう言ってみた。
 この場合、自分においての〝病気〟とは、緊張のことだろう。いや、正確に言えば『緊張しないように』と思う心。緊張に抗うことも、またひとつの緊張ではないか? ここから抜け出すために、宗矩は、『緊張しないようにと思う心がない状態になると、病気(緊張したくないという心)が去ってしまう』という。そのためには、〝病気〟(緊張)に任せて、そのうちに交じっていればいいと……
 そうか! 座禅だの心だのとごちゃごちゃと難しいことは考えず、ただセッションに行けばいいだけなんだ。行って、おもいっきり緊張すればいい。そこから何かを感じるだろう。そしたらまた考えればいい。
 急に体が軽くなったように感じた。いや、単に沈没(ストーン)した上に酔っ払っているだけだからかもしれないけど……。
 ハイネケンを一気に飲み干して、まだ慣れない電話ボックスみたいなシャワーに入ろうと自室を出ると、部屋の入り口に人影が差した。シルエットで、すぐに誰だかわかった。


drie


 あまり顔を合わせないルームメイトたちの生活音で何度か目が覚め、昼過ぎにようやくベッドから出ると、朝食代わりのインスタントコーヒーを淹れた。アムステルダムに引っ越してきてからまだあまり経っていないけど、もうすっかり昼夜は逆転していた。
 ミルクを入れても変な苦さの残る不味いコーヒーを啜り、窓から中庭を見下ろす。薄汚れたベンチがいくつかあるが、真冬だからか、誰も座ってひなたぼっこする者はいない。
 ドラマーのラルフとの待ち合わせは夕方。それまではギターでも練習するか……、とぼんやり考えていると、ふと昨夜のことが思いだされた。
 シャワーを浴びようと自室を出た僕は、フローラさんのシルエットが部屋の外に浮かんでいるのに気づき、ドアを開けた。彼女は平静を装ってはいるが、どこか浮かない顔つきで、何かがあったことは一目で察知できた。
「ハイ、ケン。……いえ、下で物音がしたから、帰って来たのかと思って……」
「あ、ごめんなさい、うるさかった?」
「う、ううん、そうじゃないの。その……セッションに行くって言ってたでしょ? どうだった。」
 どこか様子が変な彼女を訝りながら、
「ありがとう、緊張したけど、楽しかったよ。一人知り合いができたんだ。地元のミュージシャン。明日はその人に街のジャズクラブを案内してもらうことになってる。」
 俯きながら聞いていたフローラさんは、言葉が途切れると僕を見上げて、
「よかったわね。」
 と微笑んだ。すると、降ろしていた髪が後ろに流れ、頬が露わになった。左が赤く腫れていた。
「ちょ、どうしたの?」
 フローラさんはうろたえて、髪を手で梳き、頬を隠しながら、
「ううん、ごめんなさい。なんでもないの……」
「なんでもなくないよ!」
 僕はとっさに、フローラさんの両肩をぎゅっと掴んだ。すると彼女は全身を硬直させ、急に瞳をキョドらせはじめた。唇の震えを必至におさえているのが分かった。それを見た瞬間、生きのいい虫を捕まえた小学生のように、無邪気な、それでいて残酷な興奮が僕の裡に湧き起こってきた。あの物腰柔らかなフローラさんが、こんな醜態をさらしている。Sな気持ちは、僕を科学者のように冷静にする。
「旦那さん?」
 その言葉に、フローラさんはびくっと体を震わせた。ビンゴだ。僕はちょっとわざとらしいくらいに悲しげな表情を作って、
「可哀想に、殴られたんだね。まだ痛む?」
 と左の頬を親指で優しくさすった。するとフローラさんは少しだけ落ち着いた様子を見せた。僕が味方になったことを確信したんだろうか。この計算高さは女だった。
「大丈夫、ありがとう、ケン。……もしよかったらだけど、時々上にも遊びに来てくれる? 洗濯以外にも……。昼間なら、私一人だから。」
「うん――」
 僕はようやく理解した。フローラさんが週一回、アパートの住人の服やシーツを無償で洗濯してくれる理由を。そして、おせっかいとも言えるほど僕らを頻繁に訪ねてくることを。旦那は、人前では手を出さないんだろう。


 コーヒーを飲み干し、適当にパンをかじってだらだらとMTVやTV5(フランスのニュースチャンネル)を観ながら時間を潰し、頃合いになるといつものように防寒装備をして外に出た。一瞬、フローラさんのことが気になったけど、わざわざ外出の挨拶というのもおかしいから、声はかけないことにした。
 待ち合わせは、4時にライゼプレーン駅前の広場。オーヴァートゥームを東に突き当たってすぐだ。走り出すと、冷たい風が顔を刺し、すぐに耳が真っ赤に痛くなってくる。よく行く古道具屋で耳当てを探そうかな、などと考えながら、ライゼ通りできっちり自転車用レーンに入り(以前歩道を走って歩行者に怒られたから)、しばらくすると煉瓦敷きのだだっ広い広場が見えてきた。ラルフはたぶん、よそ者の僕に分かりやすいように、有名なコーヒーショップ、〈ブルドッグ〉の前にいるだろうと思っていたら、やっぱり。昨日のセッションと同じ、シングルの渋い皮ジャン。
「ハイ、ラルフ!」
「ハイ、ケン、いい自転車じゃな。天気もいいし、絶好のサイクリング日よりじゃ。では行こうか。」
 ラルフはフレームの細いスポーティな自転車で、颯爽と走り出した。地元民らしくすらすらと裏道を抜けていく背中を追いながら、僕はまだ新鮮なローカル・アムステルダムの景色を楽しんだ。ヨーロッパが舞台のアニメで観たような工場や、あまり観光客が来なさそうなさびれたコーヒーショップ、時折大通りに出ると、いかにもお上りさんな人たちが溢れていて、原因不明の優越感が僕の中に生まれてくる。
 ふと気がつくと、いつの間にかダム通りに出ていた。道路を渡って、レッドライトはすぐそこだ。ラルフは徐々に減速すると、小さな店の前で止まった。
「ここが〈ドゥ・プール〉。毎週月曜日にセッションをやっておる。ホストがなかなか秀逸なんじゃよ。レベルは高いけど、お前さんなら問題ないわい。」
「へー……」
 僕はまだ〈ビムハウス〉みたいな、大きくてお洒落な(言い換えればヤッピーな)店しか知らなかったけど、たぶん、こういったローカルな店の方が上手いのが集まるんだろう。なんとなく、そんな気がした。
 ダム通りを渡って、ごちゃごちゃしたワルムス通りへ。左右にはコーヒーショップが建ち並び、マリファナの匂いが一段ときつくなる。カジノの前で道路に座り込み呆然とするおっさんや、ドラッグのやりすぎで路上で失神しているバカ観光客を尻目に、僕らは通りを北上した。
 またラルフが急停止し、左手にある建物を指した。
「ここが〈ザ・オールドクウォーター〉。ここもさっきと同じで毎週月曜にセッションがある。儂ならさっきの〈ドゥ・プール〉に行くのう。あそこの方がレベルが高い。さ、お次は目と鼻の先じゃ。」
 すぐに自転車を翻し、来た道を半分ほど戻っていく。左にある脇道を指して、
「すぐそこにも一件あって、たまに儂もギグをするんじゃが、セッションはつまらん。今度は郊外へ行くぞ!」ラルフはそう行って、ダム通りからまた裏路地へと入った。そうなると僕にはもう何がなんだか分からなくなる。店に着く度、地図に印とセッションの日時を書き、すぐに次の店へ。アパートの一室のようなクラブや、隠れ家的な――といっても、お洒落な意味ではなく、本当にナチスの目から隠れるために作られたような――店もあった。そうして何軒か廻った後、また運河をいくつも渡り、気がつけばスタドハウス・カーデに出ていた。観光客を追い越し、ハイネケン博物館を右手に眺めながら、しばらく走ると、今度は静かな住宅街に入っていった。僕のアパートがあるオーヴァートゥームよりものんびりとして住み心地がよさそう。こんなところにジャズクラブがあるんだろうか?
 ラルフは公民館のような施設を指差し、
「ケン、ここが〈ドゥ・バットクップ〉じゃ。儂が毎週日曜の昼からホストをしておる。日曜はぜひここへ来てくれ。参加者にはドリンクチケットも配っておるからな。」


 ラルフに礼を言って別れた後、ムスリムの子がレジ打ちをしている近所のスーパーで買い物をし、アパートへと帰って情報を整理することにした。
 月曜日は〈ドゥ・プール〉、火曜日は〈ビムハウス〉、水曜日は〈エレンズ・カフェ〉、木曜は休みで、金曜は隠れ家みたいな〈ト・ゲベルチェ〉、ここは遅めの10時スタート、そして日曜にラルフがホストの〈ドゥ・バットクップ〉。週5日セッションに行ける! しかも、全部無料か、ドリンクチケットがもらえるらしい。ほとんどは夜だから昼間は観光地でストリートライブだな。今夜は……、〈エレンズ・カフェ〉でセッションがあったが、もう六時半になっている。今すぐ出ればセッションには間に合うし、遅れて行ってもいいけど、ちょっと疲れたのでやめた。
 またジョイントで一息つくと、歯車が廻ってきた、という感じがした。いいスタートだ。

(試し読み終了)

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