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【小説】未来撃剣浪漫譚【2】Human Possibility

こちらは八幡謙介が2014年に発表した小説です。
未来撃剣浪漫譚 ADAUCHI」の続編となっています。


プロローグ

――お兄ちゃん、ねえ、待ってよ、待ってってば!
(あれ……これは、)
 茜はもやもやとした霧の中、兄である芹沢無二せりざわむにの背中を追いかけている。しかし、いくら足を速めても距離は縮まらず、それどころか、少しずつ少しずつ開いていく。茜は半べそをかきながら、それでも一心に兄の背中を追った。
 ――お兄ちゃん、どうして、どこに行くの、ねえ、あたしも行く、お兄ちゃんと一緒ならどこにでも、だから……
「一人で行かないで!」
 自分の声で目覚めると、茜は布団をはねのけて飛び起きた。早朝の冷たい空気が全身を包み込み、一気に目が覚める。窓には結露が浮かび、外はいかにも寒そうである。
(お兄ちゃん!)
 茜の脳裏には、まだ先ほどの夢のイメージが残っていた。
 と、――
 キッチンから物音がした。ドアに駈け寄り、勢いよく開くと、兄の芹沢無二(むに)が朝食を食べていた。胸が一気に締め付けられ、今にも泣き出しそうになるのをぐっとこらえる。
「お兄ちゃん、ねえ、どこ行くの? こんな朝早くから……」
 無二は、目に涙を浮かべながら早口で問い詰める茜を凝視し、
「今日から県警での武術指導だ……って、昨日言わなかったか?」
 ポカンとする妹に溜息を吐くと、茜の思惑を先読みして応えた。
「何度も言っているが、お前は連れていけない。ただでさえ、じじいのお守りをしなくちゃならねぇんだ、勘弁してくれよ、ったく……」
 そう言ってアフロの老人を脳裏に浮かべ、眉間(みけん)に皺(しわ)を寄せた。茜は一気に脱力し、兄の向かいに座ると、安心したように大きくひとつ溜息をついた。
 芹沢兄妹は、ここ新横浜県で仇討ちの指南および代行を勤める通称〈討ち屋〉を営んでいる。2034年の新仇討ち法施行後、〈討ち屋〉は軒を連ねたが、十年以上経った今では数が激減している。そんな中、仇討ち代行では高い成功率を誇る無二に対して、新横浜県警に来年度から設置される武装警察隊への指導が要請されたのだった。
「そ……か。そうだったよね、あたし何か、勘違いして……」
 新横県警での武術指導への同行を、茜は何度も何度も懇願(こんがん)したが、無二は頑として受け入れなかった。そのストレスからさっきのような夢を見てしまったのだろう。
 無二を見送り、食器を片付けながら、茜はまだ胸にもやもやが残っていることを改めて確認した。
 そういうことではなかった。
 一緒に出かけられないとか、そういうことではなく、もっと根本的な不安がまだ茜の胸に残っている。しかし、それが何なのかは自分でも分からなかった。
 兄が出て行った玄関をしばらく見ていると、くしゃみが二つ出て、茜は部屋に戻りもう一度布団にもぐることにした。

倉庫のような殺風景な部屋の中、二人の少女が真剣な眼差しで向き合っている。一月下旬の新横浜県は底冷えのする寒さだったが、薄着の二人は額に汗を浮かべ、頬は上気している。その二人を、道着を着た、ずんぐりとした巨漢の男が正座して見守っている。
 アシンパ――アシンメトリィ・パーマの髪をアップにした茜は、背格好の似た、極端なショートカットのもう一人の少女に宣言した。
「もうこっから絶対、一本も取らせないからね、凛ちゃん!」
 二階堂凛にかいどうりんは、どこか余裕の表情でにっこり微笑むと、
「どっからでもかかってきなさい! 茜ちゃん」
 と、芹沢茜を挑発した。それが合図となって、茜はファイティング・ポーズをとり、一気に間合いを詰めた。凛も咄嗟に両手を顔の前に構える。
 茜が左ジャブを数発放つ、しかし当たる距離ではないので凛は冷静に見ている。
 茜が次いで、左足を大きく踏み込んだ、
 ――来る!
 茜の右手が一瞬下がる、案の定右ハイが凛の側頭部めがけて放たれた。
 茜は蹴りを放った瞬間、当たるのを確信し、その衝撃に耐える準備を無意識に行った。しかしその予測は外れ、右足は虚空を旋回する。茜の体は勢いよく回転し、一瞬、相手に背中を見せてしまった。
 ――あ!
 茜がそう思った瞬間、首筋に固い感触があった。後ろから凛の細い腕が伸び、首に木製のナイフが当たっている。ついでに左手の小指も取られている。
「そこまで!」
 男の、太くどこか温かい声が響くと、凛は茜を解放した。
「ああ~ん、もうっ! 当たったと思ったのに!」
 両手をぎゅっと握りしめて悔しがる茜に微笑むと、凛は正座している道着の男を見やった。
「どうでした、熊さん?」
 熊こと熊谷修は立ち上がり、
「素晴らしい見切りです、凛ちゃん。横から見ているとぎりぎりで避けているのが分かりますが、正面からそれができるなんて、やっぱり一度でも実戦を経験すると全然変わりますね」
「じゃーあたしもお兄ちゃんに頼んで実戦やらせてもらうもん!」
 茜はふてくされて、足首まであるベンチコートを着ると、どすんと尻餅をつくように地べたに座った。凛と熊谷は目を見合わせて、同時に苦笑いした。
 昨年夏、二階堂凛は殺された姉の仇討ちを成功させると、身辺を整理した後、改めて芹沢事務所を訪ねた。ここで働きたいという凛の申し出を無二は予測していたのか、意外にもすんなりとOKがでた。茜は飛び上がって喜んだ。
 が――
 たった一度の実戦は、十数年の修行を簡単に乗り越えてしまった。兄芹沢無二と共に、幻の流派である天心陰流兵法てんしんかげりゆうひようほうを十数年修行してきた茜も、今では凛に歯が立たない。
「それにしても凛ちゃん、恐ろしく冷静に相手を見ていますね。やっぱ実戦を経験すると恐怖心は薄れるのでしょうか?」
 熊谷は立ち上がって膝の埃を払いながら、関心深げにそう訊ねた。彼も茜と同じく実戦の経験がなく、もっぱらこの芹沢事務所で稽古の相手を務めている。仇討ちのための稽古を始めた頃から凛を知っており、その成長には驚嘆させられている。
 凛は熊谷を見上げたまま首をかしげて、
「う~ん、なんだろう。怖くないことはないけど、やっぱホントの殺気とは全然違うから……」
 そう言いながらチラリと茜を見て、言葉を濁した。そして、改めて姉の仇である鮫島保との決闘を思い出そうとした。
「でも……私今でも信じられない、本当に、ホントウに勝ったのかなって、それも、〈天心〉で……」
 決闘の途中までは覚えていた。しかし、気がついたらベッドの上で、翌日退院してからは皆に祝福され、警察からは〈仇討ち証明書〉が送付され、代わりに〈武器携帯許可証〉を返還し、凛の仇討ちは完全に終了した。相手の遺体は見ていない。けど、警察ぐるみでウソをつくなんてありえない、それに、勝たなかったのなら、私は死んでいるはず……。
「僕はそこにいなかったから分かりませんが、無二さんは凛ちゃんが〈天心〉で勝ったことを何度も話していました。あれから稽古の内容もずいぶん変わりましたよ」
 熊谷はそう言って道着の帯に両手の親指を引っ掛けた。
〈天心〉とは天心流の奥義のようなもので、技ではなく心の状態のことを指す。〈天心〉の状態にある者に対しては、攻撃心を起こすことができず、ただただ呆然と立ち尽くすしか術がない。そして、気がつけば相手の攻撃を受けている。凛はじーちゃんこと天心流宗家である飯塚喜三郎翁との接触から、偶然にもそれを体現してみせたのだ。しかし、あれは単なる偶然だったのだろうか?……
「あれはホンモノだったよ、凛ちゃん」
「え?」
 凛と熊谷が同時に茜を見る。凛は心を読まれたようで、一瞬、心臓がきゅっと縮まった。
「凛ちゃんの〈天心〉。じーちゃんと同じで、相手は上段で待ってるのに、凛ちゃんが間合いに入っても振り下ろせなかった。あれは、ホンモノだった」
 茜はまた悔しそうな表情でそう言った。凛は気を使って、努めて明るく返した。
「でも……、私ホントに覚えてないんだよね~。おじいさんが都で無二さん相手に見せてくれたのは記憶にあるんだけど」
「録画できたらよかったんだけどね、公式な決闘は録画禁止だから」
 茜はそう言って、バッグの中からゴーグルを取り出し、黙って装着した。凛と熊谷はそれを見ると、また一瞬目を合わせて、二人で稽古を再開した。

芹沢無二は、旧神奈川県警察学校道場に着くと、玄関にいた丸刈りの若者に名を告げた。青年は一瞬目を丸くし、「少々お待ちください」と言って、早足でどこかへ去った。ひっきりなしに向けられる無遠慮な視線に苛立ち始めた頃、白髪交じりの中年が小走りでこちらに来るのが見えた。いかにも頑丈そうな体躯、人の良さそうな顔立ちをしているが、目の奥はどこか冷めた光を放っている。随分やっている人だな、無二は無意識にそう分析した。しかし、こちら側の人間ではない、人を斬ったことはないだろう。目の前に来ると男はキュっと口角を上げ、
「芹沢無二さんですね、本日はわざわざご足労いただいてありがとうございます。OBの井上と申します。今回は都の検非違使けびいし隊々長からのご指名で――」
 無二は軽く頭を下げ、
「ええ、聞いてます、新横でも抜刀隊を創設するとか……」
「ああ、そうでしたか」
 そう言って井上は、一瞬目の奥を光らせた。相手をどこまで信用していいのか、まだ腹を探っている。廊下の奥を平手で示して、無二を先導しながら井上は続けた。
「正式にはまだ決まっておりません。ただ、来年度の予算は通ってます。今回芹沢先生をお呼びしたのは、稽古の方向性や揃えるべき備品などの検討も兼ねて、実戦のご指導をいただければと思いまして」
 無二は「先生」と呼ばれたことになんとも言えないむず痒さを感じたが、そのままにした。古い建物なのか、壁はあちこちくすんでいる。
「ところで、師匠はもう来てますか?」
「ああ――」
 井上はぷっと息を吐くと同時に破顔した。
「私は初めてお目にかかりますが、なんというか、その……」
「ただのキチガイです」
 無二は眉間に皺を寄せながら吐き捨てた。
「しかし、師弟でも随分と人となりが違ってくるものですな――」
 井上はそう言いながら、少し目を細めて、どこか懐かしそうに無二を見た。無二はその意味ありげな表情を訝(いぶか)しんだが、すぐに放念した。
 廊下の先に、木製の両開きの扉が見えると、案の定、奥からはディスコ調の音楽と、それに合いの手を入れるような奇声が聞こえてきた。入り口付近で苦笑いしている若い警官がこちらを見てはっとし、背筋を伸ばして一礼すると、二人のために扉を開けた。
 広々とした道場には、一面柔道用の畳が敷かれている。その中央に、妙にシルエットのお洒落な作務衣を着た真っ白なアフロの老人。道着を着た屈強な男たちが彼を囲んでいる。一世紀近く前のダンスミュージックに体をくねらせ、奇声を発する老人に、男たちは次々とつかみかかるが、老人はそれをまるで真綿か何かを扱っているかのようにぽんぽんと投げ飛ばす。ただ、女性警官が組み付いてきたときだけはすぐに投げ飛ばさず、鼻の下を伸ばしながら不必要に密着し、腰のあたりをさすったりしている。
 井上は困惑するような笑みを浮かべたまま、
「芹沢先生、あなたもあんな方なのかと不安に思っていましたが、お会いして安心しましたよ」
 無二は苦虫を噛みつぶしたような顔で、恐らく師匠の飯塚喜三郎が持参したであろう、古くさいプレイヤーに歩み寄り、音楽を消した。
「くぅおらー! 無二、このアンポンタン! ワシのダンスタイムを邪魔するなぁ!」
「ここは曲がりなりにも警察道場だ、大人しくしていろ、じじい」
「相変わらずすくえあなやっちゃの~、そんなことやから未だに〈天心〉も掴めへんのじゃ……」
 喜三郎は一気に機嫌をそこね、真っ白なアフロヘアを撫でながら小声でぶつくさと弟子に文句を言っている。
「では皆、一旦整列!」
 井上の野太い声が道場に反響し、道着の警官たちが正面の神棚に向かって横一列に並んだ。彼らに向かって正座した井上に促され、無二と喜三郎も中央へと進み、井上の横に正座した。
「えー、来年度から発足する新横特別警ら隊――これはまだ仮の名称ですが、その顧問を務めさせていただきます、井上です。それからこちらは、――」と二人を平手で示し、
「天心陰流兵法、飯塚喜三郎宗家、新警視庁検非違使けびいし隊近藤一隊長のご厚意で、今回わざわざお越しいただきました」
 先ほどから正座しながら小声で何かを歌っていた喜三郎は警官達を見やり、
「ワシが天心流、飯塚ファンキー斎喜三郎でごわす!」
 と大声で自己紹介した。何人かは必死で笑いを堪(こら)えている。先ほどの不思議な体術を思い出し、神妙な顔つきで喜三郎を見つめる者もある。井上はひとつ咳払いをし、
「そして、お隣がそのお弟子さん、新横で〈討ち屋〉を営む芹沢無二先生……芹沢無一先生の息子さんだ」
 年配の顔ぶれを中心に、どよめきが起こった。しかし一番驚いているのは無二自身だった。なぜ彼は父の名を? そして警官たちにも父を知っている者がいる。
 井上は困惑する無二をはぐらかすように、
「では、今日は飯塚先生と芹沢先生の二手に分かれてご教授していただきます。それぞれ、習いたい方についてください。もちろん行き来することも可能、質問や実演など、遠慮なくぶつけてください」
 そう言うと、ずらりと正座した警官たちは一斉に頭を下げた。

芹沢茜は、熊谷と凛の稽古を気にしながら、ゴーグルから投射された夕方のニュースを見るともなしに見ていた。スカートの短さで物議を醸(かも)し出した女性アナウンサーが、いかにも大学教授といった風の男性パネリストに質問を振っていた。
『そこで柳沢教授、今回のキーワード〈ネオ・ニヒリズム〉と〈モブ〉の関係についてお訊きしたいのですが、一見接点のなさそうなこの二つの現象が密接に関係しているというのが教授の見解ですよね……?』
 柳沢教授は、主婦層に定評のある知的な微笑を浮かべながら、
『はい、そうなんです。まず〈ネオ・ニヒリズム〉ですが、提唱者はオランダの数学者ファン・エイクで、簡単に言えば、コンピュータを人間より上位に置く思想です。コンピュータは人間より賢いんだぞ、と。そしてあらゆる意志決定をコンピューターの演算に委(ゆだ)ねる、そうすることで実人生におけるリスクを極力回避し、ベターな日々が送れるというものです』
 すると、隣に座っている気むずかしそうな和服の老人が、
『それじゃあまりにも無気力すぎるでしょう? 人間の思考とか行動ってのはね、そんな簡単に数字で割り切れるものじゃありませんよ。西洋人の悪い癖ですな!』
 と一刀両断した。教授はさえぎられて怒るどころか、さっきよりも生き生きとした顔になり、
『無気力という状態は、意志決定をコンピュータに委ねるから起こるわけではありません。生身の状態で無気力な人間はいくらでもいる。この〈ネオ・ニヒリズム〉はそういった人達にむしろ救いの手を差し伸べているんです。こういうデータがあります。ファン・エイク教授の研究チームが開発した〈フォーチュンテリング〉系と呼ばれる一連のアプリがあります。これは、ゴーグルのカメラに写された情報や、GPSで現在自分がいる場所周辺の情報を解析し、次に何が起こりうるか、それに対し、どう反応すればいいかを逐一教えてくれるアプリです。例えば、道を歩いているとする。そのまま歩いていけば曲がり角で誰かにぶつかる可能性がある、といったことを教えてくれます。対人関係ではアプリが相手を自動的にスキャンし、ネットのログを検索して、円滑なコミュニケイションを図るためのアドヴァイスをしてくれます。初期はかなりうさんくさいものだったんですが、その後助成金を獲得し、ヴァージョンアップされたものが日本でも出回るようになりました。すると、全国の引きこもりたちがアプリの指示に従い、次々と外に出て社会活動をするようになったんです。しかもこれは日本だけではなく、世界中でほぼ同時に起こった現象です。無気力だからこそ常にゴーグルをかけ、〈フォーチュンテリング〉系のアプリを起動し、視界に見えている範囲内で何が起こりそうかをコンピュータに演算させる。そしてその結果に意志を委ねることで積極的に行動ができるようになるんです。……私も使ったことがありますけどねえ、これが実に的確で、正に未来を予言したかのような指示が次々と出てくるんです。妻に怒られているときについこれを起動して使ってしまい、後でバレてまたこっぴどく怒られましたけどね』
 キャラに合わないジョークに、乾いた失笑が起こった。すると、髭面のずんぐりとした男が人指し指をぴっと立てて発言の意志を示した。
『あ、藤堂さん』
 女子アナウンサーがそれに気づき、平手で示した。
『軍事アナリストの藤堂です。えー、今柳沢先生がおっしゃった〈フォーチュンテリング〉系のアプリの中に〈マインド・リーダー〉というものがあります。これは名前の通り、相手のちょっとした筋肉の緊張や瞬きの回数、瞳孔の開き具合、呼吸などから相手のマインド、つまり相手がどうしたいのか、自分に危害を加える可能性があるのか、といったことを読むアプリなんですが、世界各国の軍隊でも実戦投入に向けての試験が行われています。ひとつは近接格闘術の飛躍的向上のため。〈マインド・リーダー〉を使うと相手の間合いや攻撃の種類、もちろん攻撃の意志やタイミングなども手に取るようにわかります。だから、これさえあればそういったことをいちいち訓練する必要がなくなる。もう一つは民間人を装ったテロリストを見分けるため。これも訓練や経験に頼らず、誰でもすぐに見分けられるようになる――』
『ええー、そう、ですね……』
 女子アナウンサーは苦しげに笑顔を作ると、脱線しかけた話を強引に戻した。
『はい、軍事にも使われているとのことですが、次のテーマに移りたいと思います。ええ、先ほどの柳沢教授のお話で、〈フォーチュンテリング〉アプリが引きこもりの社会復帰に役に立っているとありましたが、一方で犯罪行為などに悪用されるというケースが後を絶ちません。例えば、今万引きすれば絶対にバレないとか、ここでひったくりをすれば誰にも見られずに済むとか……。そうして演算に頼って犯罪行為、反社会的行為を行う若者が集って……』
『モブ化していきます』
 と、柳沢教授が引き継いだ。
『MOBとは、元来ギャングや愚連隊といった意味ですが、こんにちの日本では、ヤクザ、マフィア、ギャングなどとは異なる集団として認知されています。まず、彼らは〈ネオ・ニヒリスト〉の集団です。そして、〈フォーチュンテリング〉アプリに従った結果、それぞれのクラスタに集ったというだけで、他のアウトロー集団のように出生や国籍といった、結束のための動機が生身の体には存在しません。連帯感、あるいは忠誠心といった意識が希薄なため、組織を大きくするとか、他の組織との抗争などを一切しない。ただそれぞれの利益のために自然発生的に集い、そして分散していく。だからモブは実体が掴み辛いんです』
 ――あ、
 ゴーグルから投射されたホログラムの先に、いつの間にか地味な服装の中年女性が立っていた。茜は「切って」とつぶやき、ホログラムが消えるとゴーグルを外して、笑顔で女性に近づいた。凛と熊谷も気づいたようだ。
「こんにちは、何かご用ですか?」
 女性は茜の風貌や明るさに少しほっとしたようで、固かった表情を崩すと、一気にまくしたてた。
「あ、あの…実はうちの娘が急にいなくなってしまって、電話もメールもつながるんですが返事がなく、警察も『ほとぼりが冷めたら帰ってくる』の一点張りで取り合ってくれませんし、こちらで捜索していただくことは……」
 茜、凛、熊谷の表情が少し曇ってきたのを察して、女性は言葉尻を詰まらせた。
「すいません、うちは仇討ち専門なので……人探しは受け付けてないんですよねぇ」
 茜がすまなそうに応える。熊谷が神妙な顔つきで訊ねた。
「電話やメールは、一応つながるんですよね?」
「はい……」
「じゃあ少なくともラスパラではないということです、それだけでも少し安心していいと思いますよ」
 熊谷に穏やかな口調で励まされ、彼女の表情が少しだけ和らいだ。凛も心配そうな口調で訊ねる。
「お嬢さんのお友達にはご連絡されました? 友達の家に泊まっているんじゃ……」
「友達……と言えるのかしら?」
 女性は少し目を泳がせてから、改めて皆を見て、
「娘は友達ができ辛い子でした。小学校からずっと。中学のときも家に友達を連れてきたことはありません。ですが、去年高校に入って、急に友達が増えて、性格も少し明るくなってきたところなのに……」
 そこまで言うと堪えきれなくなったのか、口を押さえて泣き出した。「すいません」とハンカチで涙を拭う。
「その、友達というのは……不良とかではなく……」
 熊谷が言いにくそうに訊ねると、女性は何度か鼻を啜(すす)り、
「不良……ではないと思います。ええ、ただ、覇気がないというか、けどそれも今時の子はだいたいそうですし、娘も……。少し変だなと思ったのが、皆ずっとゴーグルをしているんです。私にあいさつしてくれるときも。ちょっとマナー違反だなって思ったんですが、よそ様の子ですし、それに、私が叱ってうちに来辛くなったら娘が可哀想だと思って……」
「それ!」
「え?」
 茜の唐突な言葉に、一同は面食らってしまった。
「さっきニュースでやってた、えと、何だっけ、モビ? とかモバ? とか、ネオ……」
「ネオ・ニヒリズムのこと?」
 熊谷が代わりに言うと、女性は不安そうに彼を見上げた。
「娘さんもゴーグルはされてますよね?」
「はい、高校入学のお祝いにプレゼントしました」
「お嬢さんがどんなアプリをインストールしているかは把握していますか?」
 女性は首を傾げる、恐らく『インストール』という言葉の意味もわからないのだろう。熊谷はその反応を見て、説明を端折ることにした。
「結論だけを言いますと、お嬢さんは演算……つまり、コンピュータが出した指示に従って生きている可能性が高い。そして今回の出来事も、コンピュータに従って行っているはずです」
 女性は口をおさえて絶句した。熊谷は少しトーンを和らげて続けた。
「ですが、安心していいと思います。そういったアプリは、原則としてリスクを回避するために演算して利用者にベストな方法を提示します。きっとお嬢さんは元気でいますよ」
 最後の言葉をできるだけ明るい口調で締めくくると、女性は口から手を離し、ゆっくりと息をはき出した。
「そう……なんですか。私は機械には本当に疎(うと)くて、でも、娘が無事でいる可能性が高いと知って安心しました。もう少し待ってみて、それでも連絡が取れなければしかるべきところに相談してみます。すいません、色々と教えていただいて……」
 彼女はそう言って何度も頭をさげ、まだ暗い影をひきずりながら去って行った。入り口のドアが閉まり、しばらくして、熊谷がポツリと呟(つぶや)いた。
「娘さん、もう帰ってこないだろうね」
 話を黙って聞いていた凛は、熊谷の冷たい発言に驚いて、一瞬茜に目をやったが、彼女も神妙な顔でうなずいていて、急に不安が押し寄せてきた。
「どうして? 熊さん。さっき言ってたこととは……、茜ちゃんまで」
「何だっけ、熊ちゃん、モビ……モバ……」
「モブですよね」
 熊谷が険しい顔つきで応えた。
「モブ?」
 凛は時事にうといらしく、そういった集団がいることを知らない。熊谷が説明しようと口を開いた瞬間、茜が大きなくしゃみをし、鼻を啜(すす)った。
「ちょっと冷えましたね。今日はもう上がりましょうか。凛ちゃん、上で説明しますよ」
 熊谷がそう言って、凛にやや固い笑顔を向けた。

旧神奈川県警察学校道場は異様な雰囲気に包まれていた。無二の廻りは、苦痛の跡(あと)を表情に残したまま、畳にあぐらをかく者、正座して両手を固く握りしめながら憎々しげに組み手を凝視する者、大の字になって動かない者などがぐるりと囲んでいる。一方、喜三郎を囲んでいる警官たちは、目を丸くしたり、驚きのまじった笑いを浮かべたり、しきりと首を傾(かし)げる者が多い。こちらは怪我人はいないようだ。
「相手の攻撃は経験則から予測できます。一番簡単な例ですと、左足に体重がかかっていたら左の蹴りは絶対に出ない、右パンチもまあ無理でしょう。それらを除外し、残った可能性について対策を練る。それを一瞬一瞬切り替えている感じです。もちろん、読み違えればアウトですが。慣れてくれば、今度は〝意志〟を読む稽古をします。ある種の心理戦みたいなもんです」
 無二は一旦言葉を切り、警官たちを見廻した。ひしひしと敵意を感じる。自分でも、上手くないやり方だとは思う。が、所詮は闘争の世界、下手に出れば舐められる。指導者を舐めた状態で稽古しても実戦では役に立たないだろう。荒っぽいが、最初から力の差を見せつけておくのが一番手っ取り早いはずだ。
「次、どなたかやりませんか?」
 無二はもう一度ぐるりと見廻した。
「山下ぁ、お前いけよ! 古武術やってたんだろ?」
 苦しそうに腹を押さえている上司らしき男が、丸刈りの若者をけしかける。山下は立ち上がり、「すいません、警棒でもいいっすか?」と無二に訊ねた。無二は無言で頷いた。
「イったれ、山下!」
 別の男がヤジを飛ばし、複数がそれに呼応する。まるで喧嘩だ。しかし、警察も面子があるのだろう。柔剣道の高段者がほぼ全員一撃で倒され、しかも何が悪いかを逐一冷静に解説されて黙って引き下がるわけにはいかない。
 山下が警棒を持って戻ってきた。無二に対峙し、
「当てちゃってもいいっすかね?」
 と不敵に口角を歪めた。
「どうぞ」
 無二は無表情で応える。場が一気に緊張した。
 山下は左半身(はんみ)、警棒を左手に持ち、正中線上にぴったりと構えている。よく練られた体だと無二は少し感心した。
 間合いがぎりぎりまで詰まってきた。無二は自然体で〝待ち〟の状態。
 ――一度、試してみるか……、相手に花を持たせてやってもいい。
 脳裏に一瞬、凛の決闘がよみがえる。無二はあれから独自に〈天心〉の研究をはじめ、何かを掴みかけていた。その一つが『相手に委ねる』という心境である。武術とは所詮『相手をたおしたい』という意志のぶつかり合いだ。その意志の強い者が最後には勝つ、といっても間違いではない。しかしそれでは必ず限界が来る。それを突破し、〈天心〉へと至るために、『斃したい』という意志を全て捨てるのである。
 間合いは詰まったまま、山下は動けない。打てば簡単に当たりそうだ。それでいて不気味な気配がゆらゆらと無二にまとわりついている。
「おらぁ、行けよ、山下ぁ!」
 ヤジがまた飛んだ。
(クソッ、簡単に言うなよな……)
 心中悪態を吐きながら、山下は意を決し、正面から打ち込んだ。相手は動く気配がない。
(やった、当たる!)
 そう確信した瞬間、目の前から相手が消えた! たたらを踏み、わけがわからず全身が硬直した。と、肩に温かい感触があったかと思うと、すとんと尻餅をついていた。
 口を開けて、何故か笑っている自分に気づく。笑うしかなかった。
 絶句する道着の群衆に向けて無二はまた冷静に解説した。
「今のはさっきまでのとはちょっと違います。距離や確率ではなく、意識をどうコントロールするか、……まあこれはまだ実験段階ですが。じじい……いや、師匠と組み手した方は分かると思いますが、相手にできるだけ感触を与えない方法です。やられた方は何が起こったのか分からず、完全に戦闘意欲を削がれます。ただ、これはある種一か八かの賭けになるので、あまり実戦では使えません」
 無二は自らの技を冷静に否定した。
「チンピラ程度なら気迫で押せば皆さんなら制圧できるでしょう。問題は辻斬りなどの武術経験者、それも人を斬ってきたやつら。一度でも人斬りを経験するとタガが外れたように強くなり、殺気も読めるようになります。しかし皆さんは立場上それを経験することが難しい。ですから、その溝を埋める稽古が必要であると思われます」
 無表情のまま言葉を結んで皆を見廻すと、先ほどまでのほとんど憎しみを帯びた目つきは消え、多くは深く何度も頷いていた。

「いやあ、さすが、見事でしたなあ。うちも精鋭を集めたつもりですが、ここまで実力が違うとは……」
 井上は律儀に正座しながら、しきりとさっきまでの稽古に感心していた。道場にはまだ多くの警官たちが残って自主稽古をしている。無二は、小バエのように時折顔に張り付く視線をうっとうしく思った。喜三郎は女性警官を侍(はべ)らせて談笑しており、奇声や笑い声が起きている。
「ところで、先生」
 井上が少し真顔で訊いた。
「先ほどの稽古では、『相手の意志を読む』というようなことを仰(おつしや)っていましたが、〈マインド・リーダー〉をご存じですか?」
「マインド、リーダー……」
 訝(いぶか)る無二を見て、井上が続けた。
「はい、直近で起こりうる出来事を演算し、教えてくれる〈フォーチュンテリング〉系のアプリはご存じかと思いますが、それらを対人に特化させたものです。ゴーグルが目の前の相手をスキャンし、瞬時にあらゆる検索をかけます。そこから得られたデータを元に演算し、相手の言動を予測して教えてくれるのです。2045年度版では正解率は78%だそうです」
「なるほど、で、それが何か?……」
 無二にはまだ話の確信が掴めない。
「単刀直入にお訊きしますと、先生の仰る『読み』は、コンピュータの演算よりも速く正確なのか、という率直な疑問がありまして……」
 井上は一瞬職業的な顔つきを見せた。少し思案した後、
「やってみなければ分かりません。それに、アプリが優秀でも結局それを使うのは人ですから、相手の熟練度にもよるでしょう」
「確かに、そうですね。我々にとって驚異となり得るものは知っておかねばなりませんので、他意はありません。では本日はお帰りいただいて結構です。私はもう少し残って今日の復習をしますので」
 井上はそう言ってさっと笑顔を作ると一礼し、他の警官たちへと歩み寄っていった。父のことについては結局聞きそびれてしまった。

「あ、お帰りなさい無二さん。ちょうど夕食の支度できました」
 テーブルに箸を並べていた凛は、帰宅した無二にそう告げた。するとすぐさま茜が駈け寄ってき、
「お兄ちゃんお帰り! ねえねえ、どうだった? ケーサツの人やっぱり強い?」
 と彼の腕を掴んで何度も揺すった。
「ああ、さすがに骨はあるが、だいたいが実戦不足だ。命張ってると言っても普段の仕事はパトロールや職質、現場整理、あとは事務仕事だからな」
 そう言ってコートを脱ぎ、茜に渡していつもの席に座る。独り身の凛は手伝いも兼ねて毎晩夕食を共にし、熊谷も賑やか好きの茜の希望で、ほぼ毎晩同席している。
「怪我人は出ませんでしたか?」
 熊谷が少し苦笑いしながら訊ねた。
「さすがに手加減はした。向こうの仕事に差し支えたら悪いからな。最初は案の定潰す気でかかってきたが、最後の方になって渋々認められた……って感じだな」
 茜が最後の料理を運んでき、席についた。
「さあ、食べよ……あれ、凛ちゃんどしたの? きょろきょろして」
「……おじいさんは? 無二さん、一緒じゃなかったんですか?」
 無二は顔をしかめて小さく溜息をつくと、
「婦警と合コンらしい」
 茜が頬を膨らまして、フンと鼻を鳴らす。
「あたしんとこメール来たよ。『婦警さんをお持ち帰りするんじゃ』って。じーちゃんホントスケベなんだから……巴さんがいるのに。凛ちゃん、食べよ」
 凛は笑顔でうなずき、箸をとる。ふと、みやこの夏が脳裏によぎった。巴さんは元気かな? 相変わらずキレイなんだろうな? 山科(やましな)の地下鉄や天智天皇陵も今思えば懐かしく感じる。また訊ねてみよう。観光もぜんぜんできなかったし……
「――よね? 凛ちゃん、凛ちゃん?」
 茜に呼ばれて、凛は自分が空想に浸っていたことに気づいた。
「え? あ、ゴメン、何の話?」
「もう! お昼のおばさんの話。娘さんが……あれ、何だっけ熊ちゃん?」
「〈ネオ・ニヒリスト〉なんじゃないかって。それもあって、捜索依頼はきっぱりと断っておきました」
「そうそう、それ。で、何だっけ? その人たちが集まって……」
 熊谷は噴き出しそうになって慌てて口を抑えた。
「全然覚えてないじゃないですか……。モブですよ、茜ちゃん。コンピュータの演算の結果に従って自然発生的に集まった集団。盗みや誘拐なんかはやってるみたいですが、さすがに足がつくようなことは滅多にしません。ああ、そうそう無二さん、無刀流の免許が〈マインド・リーダー〉を使った素人に斬られたのはご存じでした? ニュースにはなっていませんが」
 無二は二重の意味で驚き、目を丸くした。
「〈マインド・リーダー〉の話は今日警察でも出た……俺なら勝てるのかってな。やってみなきゃ分からんと答えておいたが、それにしても無刀流の免許が……」
 黙ってしまった無二を見て、凛が熊谷に訊ねた。
「熊さん、無刀流って強いんですか?」
「ええ、うちと同じで討ち屋を営む実戦流派です。そこの免許ですからかなりの使い手なはずですよ。実戦ももちろん経験済みでしょうし。闇討ちとか銃撃ならまだしも、剣での立ち合いで敗れたわけですから、向こうにしてみれば屈辱でしょうね」
「ねえねえ熊ちゃん、免許って一番上のやつだっけ?」茜が不思議そうに訊ねる。
「いえ、無刀流ではどうなっているのか分かりませんが、伝統的にはだいたい目録、免許、印可あるいは免状と上がっていきます。しかし、古流でしかも実戦をやっているなら腕がないと絶対に免許はもらえません」
「いいなー、うちもそういうのちゃんとしたらいいのに。じーちゃんめんどくさがるんだよね……」
 茜のつぶやきを凛は痛いほど納得した。凛も昨年の決闘が終わり、正式に喜三郎に入門を申し込むと、鼻くそをほじりながら「ええでー」と言われただけだった。
「ところで、次回からどうします、無二さん?」
 熊谷は話を戻した。
「捜索や尾行の依頼が来たら受けますか?」
「そうだな……」
 無二はさっきまでの思考を一度断ち、視線を凛に向けた。今の凛なら仇討ち代行も可能だろう。しかし自分の代わりが必要なほど依頼は殺到していない。
「凛、茜と二人でやってみるか? どっちかっつーと探偵みたいな仕事になるが。ノウハウは薫にでも訊けばいい」
「え~、あいつの下につくのぉ? ちょっとヤダなそれ」
 茜はふてくされたが、凛は少し頬に赤みがさしている。思考はまた都へ、決闘の翌朝退院したときの情景が脳裏に浮かんだ。一度は勢いで振ったものの、決闘を終え、日常が戻ってくるにつれ、凛は後悔しはじめた。せっかく恋ができるチャンスだったのに。その後何度か薫とは顔を合わせたが、いずれも芹沢事務所の仕事で、二人きりで話す機会はまだ一度もなかった。そして、脳裏にはもう一人の顔が浮かんでいた。
 ――友子。
 親友で、仇討ち反対派の友子ともまだちゃんと話ができていない。決闘後何度か送ったメールには、一度だけ『生きててよかった』と返信があったきりだ。『おめでとう』とか『お疲れ様』がないことからも、よく思っていないことは確かだった。
 凛は自分がどんどんと普通の世界から遠ざかっていくことを、今さらながら不安に感じた。
(けど、無二さんは私を認めてくれている。新しい仕事も始まりそうだし。気持ち切り替えなきゃ!)
 静かにそう決意して、口角を上げた。

(試し読み終了)

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