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【小説】友人との出来事

こちらは八幡謙介が2013年に発表した小説です。

noteでは試し読み公開しています。


プロローグ


 二〇〇五年に初めてカンボジアを訪ねて以来、私は彼の地に憑かれた。その独特の空気や匂い、そこに流れる時間、色彩、人……。それらは私を魅了し、いつまでも已むことはなかった。
 初訪問では、バイタクの青年A君と仲良くなり、連絡先を交換しあった。帰国後、まだ始めたばかりのギターレッスンやポツポツと入る演奏の仕事をこなすかたわら、私はカンボジアを夢想した。そうして私は、二〇〇九年までの四年間、四度カンボジアを訪ねた。プノンペンでは、初訪問のとき友人となったA君と必ず会い、行動を共にした。A君と私は、会うほどに友情を深め、彼は私を「親友」だとか、「兄」だと言った。私もそれに応えようと努めた。あれは、何度注意深く反芻しても、確かに友情といえるものだった、確かに……
 本書では、前半、このA君との友情を、後半はそれが崩れていく様子を客観的に描写するつもりである。その目的は、告発や警笛といったものでもなく、復讐でも、もちろんレイシズムでもない。疑いを挟む余地のなかった友情が、恐らく金によって(あるいは他の何かによって)瓦解してしまった経緯を、私なりに精算したいと思ったから、筆を取った次第である。


初めてのカンボジア

 二〇〇五年の春だったと記憶している、私は生まれて初めてカンボジアを訪ねた。目的はもちろん、アンコール遺跡群の見学。十日程度の日程で、プノンペン、シェムリアップの二都市を観て廻る。初めてのアジア、それも発展途上国ということに不安はあったものの、生来の楽天的な性格と、比較的豊富な海外経験、アメリカ留学で英語には自信があることなどもあいまって、期待の方がはるかに大きかった。
 到着は、夜だっただろうか? もう覚えていないが、とにかく異質な熱気を全身に浴びながら、私はバックパッカー御用達の安宿へと無事チェックインを済ませた。
 翌日、宿を一歩出るとバイタクたちの洗礼が待っていた。口々に声を荒げ、「マイフレンド」とか、「ヤスイヨ」とか、とにかく自分をタクシーに雇え! と必至でアピールしてくる。苦笑いをしながら彼らを見渡すと一人、どこか控えめな青年が、廻りの男たちに気圧されながら、どうにか僕に向かってアピールをしていることに気づいた。彼がA君だ。僕はすかさず訊ねた、一日つきっきりで○ドルでどうか(カンボジアは米ドルも流通している)、ネットで調べた当時の相場だ。彼は承諾し、私はA君を本日のバイタクに雇うことにした。後でふっかけてきたり、何か気に入らないことがあれば明日は別のバイタクを雇えば良い。
 これが私とA君との出会いだ。


 さて、二〇〇五年当時のカンボジアはというと、内戦の爪痕はまだ散見されるものの、悪名高いスワイパー村も閉鎖され、復興に向けた足取りは堅実だった。A君は私を、トゥールスレン虐殺博物館や、キリングフィード、王宮博物館など、メジャーな観光施設へと案内した。カオスなプノンペンの道路でも、A君の運転は穏やかで、私が退屈しないよう、クメール語訛りの英語で明るく話しかけてくれる。観光を終えて出てくると、木陰に停めたバイクから颯爽と飛び降り、A君は明るく私に手を振って、「Ok, what's next?」 彼への信頼は、時間と共に増していった。 
 一日観光を終え、宿に戻ると、私はA君と明日の約束をして、本日分の手当を支払った。すると彼は少しずるそうな笑みを浮かべて、「あなたは日本人で金持ちだから」だとか「我々はプアだ、毎日の生活がやっとで……」などと言いながら約束以上の金をせびってきた。私は『ああ、なるほど』とネット情報を反芻しながら、それでも安全で楽しいガイドをしてくれたからと、チップ代わりに少しだけ多めに支払ったと記憶している。今考えれば、これが全ての元凶だったのかもしれない。


 二日目、私はプノンペン郊外の遺跡〈ウドン〉へと向かった。バイタクはもちろんA君だ。カブを二人乗りしてカンボジアの田舎道を颯爽と走る。南国ののどかな風景は、どこか懐かしくもあり、新鮮でもある。私は初めての東南アジアを満喫していた。
 A君はとある集落で一旦休憩しようと停まった。屋台に腰を下ろし、さっぱりとした自然な甘さのマンゴージュースを二人で飲みながら、A君がさらりと切り出した。
「ケン、今回のガイドでは○ドルかかるがOKか?」
 僕はその額に唖然とした。丸一日貸し切った額の4~5倍をA君はふっかけてきたのだ。『来たか』と思った瞬間、全身の血がたぎるのを覚えた。私はA君を真っ直ぐに見据えて反論した。冗談ではない、そんな額だとは聞いていない、それならそれで君は私に先に告げておく義務がある、そして私はその額なら断っただろう、私にはそんな額は払えない(実際は可能だが、あまりにぼったくりすぎで払う気がしない)、どうしてもそれだけ欲しいというのならガイドはここまでで結構、自分はここまでのガス代を支払って別のバイタクを雇ってホテルに帰るよ、それが嫌なら君は今すぐ正統なガイド料を提示するべきだ。
 自慢ではないが、私は四年に渡るアメリカ、ヨーロッパの暮らしで、〈交渉〉というものに慣れきっていた。交渉に慈悲はいらない。ただ相手の不備を一心不乱に突き、自己の正当性を声高に主張するのみ。最初こそA君は、あなたは金持ちだとか、僕たちはフレンドだとか、最初に額を提示するなんて知らなかったなどと反論したものの、だんだんと気圧され、最後には何かの打算が働いたのか、ではいくらなら支払えるのかと私に訊ねてきた。私はまたしてもここでポカをしてしまった。A君のすまなそうな表情に憐憫が湧いたのだ。貧しい国の若者が一生懸命日々を生きているのに、私は目くじらを立ててちょっとでも損をしないために自己主張をしている、しかもその額は、日本でならランチ数回分程度だ、人助けだと思って払ってやってもいいのではないか? いや、しかし……
 結局、私は一日の正当なガイド料にそこそこの額をプラスした料金を支払うことにした。
 観光を終え夕暮れ時、埃まみれの体でプノンペンに戻ってくると、A君が僕にある提案をした。よかったら今から妻の仕事場へ行かないか? 妻を紹介したい。私はもちろん承諾した。バイタクはある電気店で停まった。比較的綺麗な店で、こちらでは高級店にあたるのだろう。A君の声に、奥から色白の可愛らしい女性が姿を現した。彼女ははにかみながら合掌して私にあいさつをし、私もようやく覚えたクメール語(カンボジア語)でそれに返した。
 お茶が出て、店のテーブルでA君と歓談。こういう大らかな気風は好きだ。私はA君に、内戦時代のことを訊ねた。彼は私よりも一つ年下だから、記憶はあるはずだ。A君は屈託のない笑顔で、日本人の私からしてみたらとんでもないようなエピソードを次々と話してくれた。中でも、未だに記憶から離れない話がある。
 カンボジアには一本だけ電車が走っているらしい。しかし、車より遅いからあまり需要はない。まだクメール・ルージュ(ゲリラ団体)の残党が残っている時代には、ゲリラの襲撃に備えて運行には必ず軍の護衛がついたらしい。あるときA君が実家に帰省する際、その電車を利用した。すると運悪くゲリラの銃撃に遭ってしまった。兵士の指示で物陰に伏せていると、頭上を弾丸がビュンビュンと過ぎていくのが分かる。兵士が応戦する。しばらくして銃声も収まり、ようやく敵が去ったかと思った次の瞬間、爆音と共に車両が大きく揺れた。なんと隣の車両がグレネードランチャーで吹き飛ばされたらしい。
 A君はそんなとてつもない話を、満面の笑みで語った。私は彼を尊敬した。けど何について? 分からない、ただ、彼が過ごしてきた時間を尊敬した。
 そんなこんなでプノンペン滞在も最終日を迎え、私とA君は連絡先を交換し、握手を交わして別れた。私はバスでシェムリアップへと向かい、アンコール遺跡群を見学し、帰国。そちらの話は今回の主題ではないので触れない。


帰国、再びカンボジアへ

 無事帰国し、関空から実家へと帰る電車の中で、私は心中の違和感と格闘していた。車窓から見える無味乾燥な街並み、電光掲示板、綺麗に舗装された道路や車の渋滞、ゴミひとつ落ちていない車内の、ある種不気味な静寂……。特に違和感を感じたのは、人々の目である。クメール人の、あの強烈な日光をはじき返すような瞳の輝きを持った日本人は一人もいない。『日本人は目が死んでいる』と言えば、『何を偉そうに、じゃあお前はどうなんだ?』とか、『じゃあお前もカンボジアに住めばいい』と返されるだろう。それらが的を射た反論なのかどうか、私には分からない。しかし、心中に生じてしまった違和感はどうしようもなかった。それは直接的に体へと影響を及ぼした。帰国直前から、胃腸が丈夫な私が下痢になり、帰ってからもしばらく止まらなかった。さすがに病院に行って検査をしようかと思い始めた頃に、突然止んだ。後で調べたところ、楽しかった旅行を終え普段の生活に戻ることを体が拒否し、下痢になるといったことが実際にあるらしい。
 体調も治ってくると、私はカンボジアで購入したTシャツやアクセサリーを身にまとい、余暇を割いてクメール語やカンボジア史を勉強しはじめた。もちろん、A君とはEメールで連絡を取り合った。再訪のために早速貯金もはじめた。
 物価の安い国への旅、それも貧乏旅行なら、実行は容易である。一年も経たないうちに、カンボジア再訪の目途は立った。そして私は、再びプノンペンへと降り立った。


 A君は仕事を休んでプノンペン国際空港へと私を迎えに来てくれた。熱帯の夜の分厚い熱気に映える笑顔は相変わらずで、私は一気に旅の疲れが癒された気がした。A君は私の長旅をねぎらって、屋台でバイクを停めた。ここで何か飲み食いしていけと。夜食をかき込む私にA君が告げた。ケン、君は僕の親友だ、だから君が行きたいところにはどこでも連れていってあげる、観光客が行かないような場所にも案内してあげよう、ガイド料はいらない、ただ、ガス代だけ出してくれればいい。
 私は了承し、礼を述べた。ああ、友達とはなんてありがたいものなんだろう。またカンボジアに来てよかった! そしてこれから私は、何度もこの地を訪れることになるだろう。その都度、A君との友情を深めるだろう!
 翌日、A君は私をプノンペン郊外のリゾートに連れて行った。リゾートといっても、川縁に竹で櫓(やぐら)を組み、その上にゴザを敷いただけだったが、私には十分新鮮だった。川風を浴びながらゴザの上に寝そべって、南国のフルーツをつまみながらビールで乾杯した。A君はおしゃべりで、色々なことを私に話してくれた。しかし、どんな話もなぜか最後には嫁と息子自慢に帰結するのが可笑しかった。A君に息子が生まれたことはメールで知っていた。自分はしがないバイタクだが、息子にはそうはなってほしくない、きちんとした教育を受けさせて立派な仕事に就いてほしい、そのためにはお金がいる。
 A君はまだ、時折暗に、あるいは直接的に金銭的な援助を要求してきた。私はその点に関してはシビアに対応していた。例えば、ガス代や飲食代などはこっち持ちで構わない、案内してくれているのだから当然ともいえる。しかし、息子の学費の援助となるとやはり話は別だろう。私自身、日本で余裕のある生活をしているわけではない。そういったことを説明し、A君に理解を促した。彼はその都度了承してくれた。
 陽が陰り始めた頃、我々はプノンペン市街へと戻り、トンレサップ川沿いの屋台で夕涼みをした。観光客が集まるお洒落なスポットではなく、その川向かい、地元の若者が集まるエリアである。スルメか何かをつまみながら、二人とめどなく話をした。A君は私に、しきりにカンボジアの素晴らしさを語った。顧客にはいつもそうしてカンボジアのいい所を知ってもらうよう努力しているのだという。他のバイタクのように、悪所に連れて行ったり、大麻を買わせたりはしない。A君は語る、自分のカスタマーがカンボジアを好きになってくれれば、国に帰ってから友達や家族にカンボジアの素晴らしさを伝えてくれる、するとまた新しい観光客がカンボジアに来てくれる、我が国は貧しく、繁栄のためには観光業に頼るしかない、自分はバイタクとして国の発展のために精一杯観光客に楽しんでもらうよう努力しているのだ……。
 夕日に染まる川沿いの屋台で、瞳を輝かせながら熱く語るクメール人の友人に、私は感動を覚えた。日本の同年代の若者は、私も含めて、誰一人としてそんな志を持って働いてはいないだろう。このとき私には、彼らの貧しさが、まるで宝石のように輝いて見えた。日本にもそういう時代がきっとあったはずだった……
 

 多くのバックパッカーが言う通り、プノンペンは何度も訪れる都市ではない。一度訊ねて主要なスポットを巡ったら十分だ。私も二度目の訪問でそれを感じていたので、予定を変更して早々とシェムリアップに向かうことにした。それを告げるとA君は残念そうな顔をして、せっかくだから妻と息子の顔を見ていってくれと私に告げた。もちろん、断る理由はなかった。陽もあらかた沈んだところで、A君は私をいつもの安宿に送ってくれた。我々は翌日の待ち合わせを確認して別れた。

(試し読み終了)

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