高井一喜

物書き / プロデューサー/宗教学・図像学研究家 米国・ロシア・ウクライナ・CIS諸国…

高井一喜

物書き / プロデューサー/宗教学・図像学研究家 米国・ロシア・ウクライナ・CIS諸国在住経験あり。

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夜の散歩

若い方にバブル世代ですか?と聞かれる事がる。私はバブル崩壊が始まったと言われる1991年3月に大学を卒業してそのまま就職したので、経済的にバブルの恩恵にはあずかれなかった世代だ。その後日本は酷い景気後退に遭遇する訳だが、私が勤め始めた頃は、それでも残業代は支払われていて、90年代中期の就職難やサービス残業の常態化といった情況よりはまだましであった。今から思うとまだバブルの活気が多少残っていた。90年代前半はそんな時期であった。 私にとってバブルは、学生時代がまさにそれで、と

    • 彷徨い人

      私がサラリーマンを最初に辞めたのは25の時。その後三十三才から3年だけサラリーマンとして働いた期間を除けば約25年以上自営業か会社経営者として働いてきた。 サラリーマンを辞めたのは会社に不満があったとか、仕事が嫌だった訳ではない。日本とは違った他の文化圏で生活してみたかったからだ。個人事業主や零細企業の経営者の方であれば解ると思うが、小規模のビジネスは収入が安定しない。安定されている方もいるだろうが、収入が安定しなくて苦労されている方は多いと思う。私は完全に不安定な方に属して

      • ヘミングウェイのハードボイルドスタイル

        ヘミングウェイの小説はハードボイルドスタイルと呼ばれている。ハードボイルドスタイルは装飾を排除した簡素な文体で構成され、多くは犯罪・暴力・ミステリー・推理の要素で構成される娯楽小説で用いられる手法だ。ヘミングウェイがハードボイルドスタイルと聞くと意外に感じるかもしれないが、ヘミングウェイは現代のハードボイルド小説の文体に確実に影響を与えた作家の一人だ。 ヘミングウェイの文体は短文・簡潔・感情表現の欠如が特徴である。登場人物が『どう感じた』とか『どう思った』という表現は殆どな

        • メトロポリタン美術館

          メトロポリタン美術館は歌川広重作品をはじめ多くの浮世絵を所蔵している。メトロポリタン美術館には何度か行ったが、残念ながら広重作品に遭遇した事はない。そもそもメトロポリタン美術館は膨大な作品を所蔵している訳だから、展示に遭遇出来る確率は低い。どうしても観たければあらかじめ展示を確認してから行くべきなのは解っているが、訪れるたびにもしかして展示されているかなと淡い期待を抱いてしまう。 初めてメトロポリタン美術館に行った際、見た事のある有名な絵画を始めとする美術作品の展示方法に驚

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        夜の散歩

          酒について

          二十代、三十代はとにかく酒を飲んでいた。それでも泥酔する事は殆どなく、いつもほろ酔い程度。でも週4〜5日は必ずお気に入りのバーに出向いて飲んでいた。とにかく酒が楽しかった。 ところが、四十代になるとパタリと酒を飲まなくなった。別に禁酒した訳ではなく、単に飲みたいと思わなくなった事が大きい。 理由は解らないが、まあ一生分の酒を既に飲んでしまったのかもしれないと勝手に思うようにしている。今は年に数回食事の際に飲む程度である。それもグラスに1〜2杯程度。この変化は本当自分でも不思議

          酒について

          都内の運転について

          18歳で初めて免許を取ったのだが、教習所で初めて路上に出たのが甲州街道だった。今から考えると良くもまあ仮免で甲州街道走ったなと感心するが、当時とにかく合流と他の車の速度が怖かった記憶がある。まあ合流に関しては教習所の車という事もあり、道を譲って貰えるのだが、問題はそこから。昭和後期のバブル期の頃の運転は今と比べたら平均速度が本当に速かった。制限速度で走っている車など皆無な環境。そこを交通量も多く皆飛ばしている中をトロトロと制限速度で運転するのは本当怖かった。流れに合わせて走ろ

          都内の運転について

          再読について

          若い頃から気に入った小説やエッセイを繰り返し読んでいる。私は年間大体150冊程本を読むが、その内、五十冊程の作品は再読になる。初めて読んだ作品が気に入り、そのまま再読する事もあるし、昔から気に入っている作品を読み返したりする場合もある。 小説だけでなく、エッセイも含めた作品の再読回数で最も多いのは、間違いなく五木寛之著【風に吹かれて】が圧倒的に一番。このエッセイは、著者とは私は年代が違うのに、不思議とエッセイで語られる当時の社会情勢や情景といったものが手に取るように感じられ

          再読について

          怪談・心霊・都市伝説・陰謀論の取扱い

          ネット上に氾濫している陰謀論は残念ながら、いい加減な物が多い。個人的には、都市伝説をはじめ、ミステリー・心霊・怪談・陰謀論、これらはエンターテイメントとして割り切っているので、後から嘘でしたとなっても怒りは湧かない。それでも有名な話が、実は嘘でしたとなると虚しさを感じると同時に、それなりのメディアで未だにミステリーと取り上げられている事にある種の違和感と怖さを感じる。 ミステリー界隈で有名な話にロレット礼拝堂の螺旋階段がある。この螺旋階段には支柱のなく、支柱のない螺旋階段は

          怪談・心霊・都市伝説・陰謀論の取扱い

          図像学研究者とテレビ番組

          図像学とはなかなか一言で言い表せない。とは言ってもその一つに視覚芸術作品に織り込まれている意味を学術的に研究する事があげられる。 図像学は宗教と強い結び付きを持っており、宗教学・宗教史・美術史とも密接に繋がりがある。 私は仏教図像学とキリスト教図像学を研究している。前者はやはり日本人という事もあり幼い時から仏教が身近に存在していた事、後者は私は正教徒であるので、聖書と同じくらいイコンを始めとするキリスト教美術に接してきた事。これらの理由がきっかけで図像学でもこの二つの分野を

          図像学研究者とテレビ番組

          悪夢について

          ​三十年経っても忘れられない悪夢がある。悪夢の内容は自分の部屋で目覚め、トイレに行こうとすると、風呂場に人の気配を感じる。そこで覗いてみると、鉈を持った旧日本軍の軍服を来た男が立っていて、私に向かって来て、鉈を振りかざし、切られた所で目が覚めた。 今でもその夢をはっきりと覚えている。振り下ろされた鉈から身を守ろうとした左腕に切り付けられた痛みをはっきりと覚えている。とにかくリアリティがあり過ぎで、恐ろしかった。それ以来この悪夢を忘れる事が出来ない。 悪夢の原因は色々あるよ

          悪夢について

          孤独

          エドワード・ホッパー(1882年7月22日 -1967年5月15日)は不思議な画家だと思う。技術的に飛び抜けた何かがある訳ではなく、彼の独特のタッチで描かれる作品にとにかく惹かれるといった方が多い。多くの方が考察を述べているが、その中で必ず取りあえげられるキーワードが″孤独”。 確かに彼の作品は常に孤独を感じる。しかしその孤独は普段我々が実生活で感じる孤独とは違い、悲壮感がない。かといって孤独を賛美するようにも思えない実に不思議な孤独だ。 実社会における孤独とはどういう物が

          摩訶不思議な話

          ちょっと変わった知人がいる。仮に将司としておく。将司はありえない程商売が下手で、二十代からいくつも起業しては失敗を繰り返している。カフェ、バー、キャバクラ、中古車販売、失敗した商売を上げたらきりがない。それにしても商売を始める度にどこから資金を調達してくるのか、本当に不思議であった。彼も彼の実家も決して資産家などではなく極々一般的な労働者階級の家庭である。それに将司は最初の商売を失敗してからは銀行の借り入れが出来なくなっていた。所謂ブラックリストに載ってしまっていたのだ。に

          摩訶不思議な話

          ドッペルゲンガー

          ビル・エヴァンスのアルバムに【自己との対話】という作品がある。Jazz好きであれば知っている有名な作品だ。ビル・エヴァンスが3トラックそれぞれに彼のピアノを多重録音で収めた作品で、正に【自己との対話】というタイトルが相応しい作品。3トラックに収録したピアノ演奏を左・中央・右と分けて構成されている。そのどれもが彼の演奏だから、聴いていると本当に不思議な感覚に陥る。普通Jazzの演奏はそれぞれの演奏者同士の即興による掛け合いが重要な要素である訳だが、この作品にはそれがない。完全に

          ドッペルゲンガー

          何者でもない

          私は何者でもない。 何だか哲学的な書き出しだが、そんな意味などなくて、言葉の通り私は何者でもない。 社会的な地位も特別資産もない。特定の分野で実績を残したわけでもない。本当に何者でもない。 変った人生を歩んできた。仕事の関係で国内外を転々として、米国・ロシア・ウクライナ・CIS諸国に住んで現地で働いていた経験がある。これらの国で生活してきたのは日本人として珍しいと思う。特にロシア・ウクライナ・CIS諸国での政治・行政の腐敗、アメリカでの犯罪、そういった物を生活しながら経験

          何者でもない