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夜の散歩

若い方にバブル世代ですか?と聞かれる事がる。私はバブル崩壊が始まったと言われる1991年3月に大学を卒業してそのまま就職したので、経済的にバブルの恩恵にはあずかれなかった世代だ。その後日本は酷い景気後退に遭遇する訳だが、私が勤め始めた頃は、それでも残業代は支払われていて、90年代中期の就職難やサービス残業の常態化といった情況よりはまだましであった。今から思うとまだバブルの活気が多少残っていた。90年代前半はそんな時期であった。

私にとってバブルは、学生時代がまさにそれで、とにかく活気があった。アルバイトを探すのに苦労しなかったし、欲しい物があれば仕事を選ばなければいくらでも稼いで、手に入れる事が出来た。そんな時代で、私も色々なバイトをしていた

当時居酒屋のバイトと解体のバイトをしていたが、どちらも当時アルバイトとしてはけっこう金を稼げる業種であった。現在は両方とも稼げない仕事になってしまったが。
居酒屋のバイトは週末には仕込みから閉店まで働いた。当然店が閉まり後片づけをしていると、バイトを終えるのは2時過ぎ。給料日後であれば近くのクラブに行って始発まで遊んでいたりしたが、金の無い時は、当時住んでいた杉並区永福町まで歩いて帰った。渋谷から永福町まで約6km。それを一時間ちょっとかけて歩いて帰っていた。
当時、週末都内でタクシーなど捕まえられなく、タクシー乗り場で相当の時間を待たなければタクシーに乗れなかった。歩いて帰ればタダである。そこで歩いて帰ったのだが、昼間は大学に行き、夕方から深夜までバイトして、そこから6kmの道のりを徒歩で帰るとは今から思えばよくそんな体力あったと思う。

渋谷から永福町に帰るには、井の頭通りを使った。渋谷から井の頭通りをそのまま歩けば永福町に帰れた。

東京はそれなりに人通りがあっても一歩道を逸れると住宅街が広がっている。アパート近くまで来ると、井の頭通りを逸れて住宅街を通るのだが、深夜という事もあり、誰もいない夜の街は良い散歩道であった。

色々と発見する事もあった。日本の住宅街は海外と違って、富裕層と一般庶民が同じ街に住んでいる。都内も白金や松濤といった高級住宅街があるが、それでもそういった高級住宅街の一角には逆に昔からある一般住宅があったり、海外のそれとは明らかに違う。永福町近辺もそれは同じで、永福町近くまで1~2km位まで来ると、近道を使うので井の頭通りから逸れて住宅街を歩いた。そこでも東京の住宅街特有の一般住宅の中にひと際大きな住宅があったりして、歩きながら大小さまざまな住宅を見て歩くのが面白かった。

そんな渋谷からの散歩をするようになって暫くして当時付き合い始めた女ができた。その彼女は私が東京に来て初めて出来た彼女であった。彼女は私と同じ学生で、私とは違い、週末はよく友達と渋谷で飲んでいた。私のバイト上りの時間になると、それに合わせて店まで来てくれて、そこから金があればホテルへ。ただ当時は週末の渋谷のラブホテルはどこも満室で、探すのに本当苦労した。

そんなある日、いつものように彼女が店先で待っていてくれて、そのままホテルに行こうかと思ったら、その日は飲んでいないので、散歩しながら私のアパートに泊まると言い出した。私が、金が無い時、永福町まで歩いて帰る話をしていたのを覚えていて、それに興味があったのかどうか解らないが、とにかく一緒に歩いて帰りたいとの事だった。勿論ホテル代が浮くので、私は反対する理由などない。早速歩きなれた深夜の井の頭通りを永福町に向けて歩き出した。6km歩くのは大丈夫かと心配したが、東京生まれで東京育ちの彼女は歩く事には慣れていて、全く問題なかった。田舎育ちの私には東京人が平気で何キロも歩くのは驚きでもある。田舎では公共交通機関は限られているので、移動は親に車に乗せてもらうか、近場では自転車で、東京のように歩いて移動という事は殆どなく、田舎者はとにかく歩かないのだ。

永福町が近くなってきて井の頭通りを外れて住宅街に入ると、通り沿いの家を見ながらこんな家に住みたいとか、そんな話になった。当時お互い付き合っていただけでなので、勿論結婚など考えた事などない。勿論彼女も私との結婚生活を夢見てこんな家が良いとか話していた訳ではなかったが、歩きながら視界に入って来る家を見て、将来の事を話すのは楽しかった。

この夜初めて将来について考えるようになった。それまではただなんとなく生きて、将来の事など考えた事もなかった。家を持つという事を想像すると、何だか将来にポジティブな物を抱かせてくれた。

社会人になって、既に彼女とは別れてしまっていたが、数年した頃、私は会社員を辞めて独立を考えていた。そんな時、共通の知人を通して彼女から連絡があった。

懐かしさもあり、再会する事になった。渋谷で再会した彼女は出版社に勤めていて、完全に社会人で大人の女になっていた。彼女は就職を機に実家を出て、永福町に住んでいる事を知った。別に私との思い出で永福町を選んだのではなく、たまたま良い物件が永福町であったのだが、それを聞いた時すぐにあの夜の散歩を思い出した。

再会の夜は、結構話が弾んで遅くまで飲んでしまった。帰り際、彼女がこのまま散歩してみない?と誘ってきた。久しぶりに永福町まで歩くのもいいなと思い、誘いに応じた。二人で歩きながら付き合っていた頃の話で盛り上がりながら、井の頭通りを歩いたのだが、前回と違っていたのは、とにかく疲れた。歩き始めた時、永福町近くで住宅街の家を見ながらまた語り合うだろうと思っていたが、実際は彼女の家に着く頃にはお互いぐったりと疲れていて、学生時代のあの夜の再現とは程遠い状態だった。社会人となると学生とは違い、疲れの度合いが違っていたのである。疲れているといっても彼女の部屋でやることはやったのだが、その後、シャワーを浴びる事もなくお互い熟睡してしまった。翌朝目が覚めると、彼女が朝食を作ってくれていた。それを見て、よりを戻そう・・・とはならずに彼女は土曜日出勤なので、早く食べて!との事で、朝食を取ると忙しく、(実際は追い出されるように)アパートを出た。

その後、彼女とは会っていない。彼女が今どこでどうしているのか知らない。今でもあの初めての夜の散歩を思い出す。彼女と散歩した夜の東京は私にとって学生時代の本当に良い思い出だ。

しかし、もう二度とあの夜は戻ってこない。決してセンチな気持ちになっている訳ではない。彼女は、あの時代、あの夜、あの空間を共有したかけがえのない仲間。いわば“同士”のようなものだ。

三十数年経った今、私は彼女を思い出す度、同士のような感覚を持っている。同士とは表現がいささか大げさであるが、それでも私には彼女は人生で初めて遭った同士であったように感じる。

恐らく二度と彼女に会う事はないだろう。FacebookやSNSで探すなんてことはしない。そもそも今更会っても意味がない。

あの夜は私にはかけがえのない時であった。
今でも時々あの夜のことを懐かしく思う。

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