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再読について

若い頃から気に入った小説やエッセイを繰り返し読んでいる。私は年間大体150冊程本を読むが、その内、五十冊程の作品は再読になる。初めて読んだ作品が気に入り、そのまま再読する事もあるし、昔から気に入っている作品を読み返したりする場合もある。

小説だけでなく、エッセイも含めた作品の再読回数で最も多いのは、間違いなく五木寛之著【風に吹かれて】が圧倒的に一番。このエッセイは、著者とは私は年代が違うのに、不思議とエッセイで語られる当時の社会情勢や情景といったものが手に取るように感じられ、著者とその場を共感している感覚になる所に惹かれる。
五木寛之先生の作品は、個人的に60~70年代に発表された作品が好きで、この時代に書かれた小説とエッセイは今でも時間があれば再読している。

考えてみると、音楽や絵画、映画といったコンテンツは気に入った物を繰り返し鑑賞するのに、書籍はそれらと比べたら圧倒的に少ない。例えば音楽は、ジャンルや流行に左右されず、長年愛聴している曲は皆さんもあるでしょう。好きだから何度も聴いたりする。絵画も同じ。既に鑑賞した事のある絵画でも再び美術館に足を運んで鑑賞する事はよくあるし、画集等で作品を見る事は多々ある。そして映画も好きな作品はDVDやブルーレイ、または配信などで繰り返し鑑賞する事は一般的。
しかし書籍に関しては、再読する作品があっても、他のコンテンツと比べたら圧倒的に回数は少ないと思う。

再読が他のコンテンツと比べて少ない理由の一つには、やはり読書という行為が時間が掛かる物だという事があげられる。そもそも日々の生活の中で読書に時間を割く事は難しい。
しかし時間が掛かるコンテンツというものは、再発見や新たな解釈と出会うケースが多い。映画も複数回見た方が伏線の回収を含め新たな発見があったりする。

忙しい現代社会においては仕方のない事なのだろうが、一度観たらお終いでは、やはりもったいないと思う。

では時間が掛かり、再読に時間を割けない場合、深く解釈する事は諦めなければならないのだろうか?
単純に対策を考えれば、一度の読書の質、読解力を上げれば良いのだが、現実は、なかなかそう簡単にはいかない。書籍を注意深く読めば読むほど、更に時間は掛かってしまう。

 とはいえ、冒頭にあげた五木寛之先生の風に吹かれては、読んだ時の年齢で解釈が確実に変わり、その変化に自分が歳を重ねているのだと実感できる。
 このエッセイのエピソードに五木先生が、新聞配達で生計を立てながら大学に通い、それでもなけなしの給料から風俗に行くが、疲れて寝てしまい、結局何もしなかったというエピソードがある。私がこの話を初めて読んだのは、二十代の時で、当時の感想は五木先生は貧乏で、ハードで大変な学生時代を経験してきたのか。大変だったんだな程度の感想だったが、三十代で読んだ時は、疲れていればいる程、男ってのは風俗行きたがるよな。五木先生もそうだったのか!わかる!!といった感じ。
50代になって読んでみると、将来が見えない若い男が、僅かな金でも男として女の温もりが欲しくなって風俗に行ってしまった。でも行為が無かったおかげで、短時間であるが風俗嬢との会話を通して、記憶に残る交流出来たのか。と、解釈が変わる。

 そういう側面からも書籍の再読によって得られる事は意外と多く、そして深いと思う。これからもこの風に吹かれては再読するだろうが、次はどんな解釈になるのか。とても楽しみだ。


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