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ドッペルゲンガー

ビル・エヴァンスのアルバムに【自己との対話】という作品がある。Jazz好きであれば知っている有名な作品だ。ビル・エヴァンスが3トラックそれぞれに彼のピアノを多重録音で収めた作品で、正に【自己との対話】というタイトルが相応しい作品。3トラックに収録したピアノ演奏を左・中央・右と分けて構成されている。そのどれもが彼の演奏だから、聴いていると本当に不思議な感覚に陥る。普通Jazzの演奏はそれぞれの演奏者同士の即興による掛け合いが重要な要素である訳だが、この作品にはそれがない。完全に三人のビル・エヴァンズによる掛け合いなのだ。

3台のピアノが奏でる演奏はそのどれもがビルによる物だから、聴き始めると直ぐに違和感に襲われる。だって同時に三人のビル・エヴァンズによる演奏など本来存在しないのだから。しかし本来多重録音なくして存在しないはずの演奏にも関わらず、作品は非常に美しく素晴らしい出来だ。その完成度の高さが更に違和感に拍車を掛ける。

もう一つの違和感は、ビルの演奏が完全に彼自身に向けて演奏されていた物であって、聴衆に向けられた物ではないという事。完全に彼の“自己との対話”なのだ。その彼自身の対話を我々リスナーは覗き見ている。そんな感覚だ。

それを感じながら作品を聴いていると、彼の演奏に底が無い暗闇のような物を感じる。正直怖い。

私はこのアルバムを最初から最後まで通して聴いた事がない。途中必ず中断する。三人のビル・エヴァンスの対話を聴いていると恐ろしさを感じてしまい怖くなってしまうのだ。協演しているのが彼自身でなく、彼に似た別物。それと対話しているように感じる。それが強烈な違和感になっているのかもしれない。

違和感の原因を突き詰めて考えてみると、このアルバム、ビル・エヴァンスが演奏を通して対話しているのは、実は彼のドッペルゲンガーだったのではないかと思った。

ドッペルゲンガーは自身の分身でもある訳ですから、その分身と演奏を共にしたら・・・精神的に非常に危険な状態で収録された作品であった事になる。

この“自己との対話”という作品の違和感と恐ろしさ、それはドッペルゲンガーの存在によって齎されたのかもしれない。ビル・エヴァンズが彼の分身と彼自身の為に一緒に演奏している、そんな場面に遭遇してしまったら・・・間違いなく恐怖を感じる。

日本では芥川龍之介がドッペルゲンガーに遭遇していたのは有名な話。彼は結局自殺してしまいました。精神学的にはドッペルゲンガーに遭遇するという事は危険な精神状態の兆候なのかもしれない。

それにしてもこのアルバムはグラミー賞を取っていて名盤なのだが、皆このアルバム聴いていて怖くないのか?と不思議に思う。やはり私には怖すぎる。

なぜ人間は自分の分身に遭遇する事に恐怖を覚え、そしてそれは危険なのだろうか?そもそも分身とは何なのか?民俗学・宗教学的には死の前兆とされたりして忌み嫌われる存在だ。医学的には単に自己像幻視とされ原因は単なる幻覚として扱われる。

しかしここで私が提示しているビル・エヴァンズの分身は精神学的でも宗教学的にそれらと無縁だ。あくまでも彼の分身はその場に存在していたのではなく、彼の精神の中に存在していた。さらに彼のドッペルゲンガーは意思疎通が出来ない分身でなく、この上なく意思疎通が出来る分身。それとの対話なので恐ろしいのです。

実際に自分の分身がいて、その分身とこれ以上ない程の意思疎通を演奏という形を通して存在している。分身と共に作品を作り上げたと思うと本当に恐ろしい。そんな事、私には絶対に無理。

分身の存在を恐れるのはもしかしたら人間のDNAレベルで拒否するように組み込まれているのかもしれない。人間が生きていくうえで自分の分身が存在した場合、その存在を認めると自身の存在価値の崩壊、自己破壊に繋がりかねない。非常に危険な存在だと思う。だからこそ分身、ドッペルゲンガーに遭遇する事を恐怖と捉えているのかもしれない。

もし皆さんがこのドッペルゲンガーと遭遇したであろう作品を体験してみたければ、ぜひビル・エヴァンスの自己との対話を聴いてもらいたい。彼がドッペルゲンガー相手に創作している姿は普通経験できない恐怖に満ちているから。

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