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怪談・心霊・都市伝説・陰謀論の取扱い

ネット上に氾濫している陰謀論は残念ながら、いい加減な物が多い。個人的には、都市伝説をはじめ、ミステリー・心霊・怪談・陰謀論、これらはエンターテイメントとして割り切っているので、後から嘘でしたとなっても怒りは湧かない。それでも有名な話が、実は嘘でしたとなると虚しさを感じると同時に、それなりのメディアで未だにミステリーと取り上げられている事にある種の違和感と怖さを感じる。

ミステリー界隈で有名な話にロレット礼拝堂の螺旋階段がある。この螺旋階段には支柱のなく、支柱のない螺旋階段は強度的にも構造的にもありえないと。このロレット礼拝堂の螺旋階段は現代の建築家でもどうやって作ったのか解らない。などと言われているが、実はこれ全くの嘘。
支柱のない螺旋階段は数多く存在する。それにそもそも現在の建築家の間でこの螺旋階段が技術的に不可能などといった認識はない。私はそれを知って本当にビックリした。有名な話なのに、全然ミステリーでも何でもなかったのだ!

ロレット礼拝堂の螺旋階段
パブリックドメイン https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Loretto_Chapel_Miraculous_staircase.jpg
による

これは、あまりにも酷い話だと思う。この螺旋階段は結構長い間、ミステリーとして色々な媒体で取り上げられてきたにも関わらず、ちょっと調べたら全く不思議でも何でもないと解る話だとは。これをミステリーとして紹介している媒体は確信犯で悪質だ。

次に怪談だが、個人的に怪談は面白いと思うし、好きだ。怪談を聞くのは楽しいが、これは実話ではなく、あくまでもエンターテイメントとして捉えるようにしている。
基本的に心霊を信じていない私にとって、怪談がエンターテイメントの枠から外れると急にカルトになってしまう。私は正教徒でクリスチャンであるので、霊の存在を信じないとなると信仰的に矛盾しているが、巷でいう心霊物にはやはり懐疑的だ。

怪談は創作、伝承、実話系と意外とジャンルは多様だ。私はどの系列の怪談も好きだが、実話系と呼ばれる怪談については、完全に信じていない。例えば誰かが体験した事を実話系怪談として語ったとする。これを頭ごなしに体験者が嘘つきという気はない。語っている本人にしてみれば心霊現象を体験したのは、本人にしてみれば事実なんだろう。でも仮にその場に第三者がいたとして、その第三者が体験者と同じ物を見るとは限らない。あくまでも実話怪談を語る体験者が見て、感じた事でしかない。

こういう話をするとお前は捻くれているとか、怪談を馬鹿にしているとか言われるが、決してそういう訳ではない。怪談は聴いていてやっぱり面白いし、エンターテイメントとして魅力的なコンテンツだ。

 怪談の歴史は古く、日本での古典怪談では四谷怪談、番街皿屋敷、牡丹灯篭が有名だ。三大怪談とも言われる。これら三大怪談については1700年代、もっと古くは室町時代にはすでに流行っていたという記録がある。長く日本では庶民の娯楽の一つとして怪談が親しまれてきた訳だ。そういった経緯もあり、怪談は歴史のあるコンテンツなのだ。長い間親しまれてきたからこそ、日本のホラーは他の国とは違った怖さが生まれたのかもしれない。
 怪談は怪談師の語りから、物語の描写を聴き手がイメージして物語を追っていく。ある意味、優れた怪談が成立するには、語り部と聴き手が共に怪談で語られる世界観を共同でイメージして成立する特殊なコンテンツなのかもしれない。

怪談の怖さの重要な要素として、現実の話なのか、それとも創作した物なのかその線引きを曖昧にしている事があげられる。創作怪談にしても事前にこれは実話でなく創作した話ですなどと話したら興ざめだ。逆に実話怪談も話の前にこの話はあくまでも実体験を基にした実話だと、それを必要以上に主張すると、後々矛盾が生じたりして、それもまた興ざめ。
一番いいのは、「この話、実話だったら」と含みを持たせて語られる怪談が一番面白いし、それでも十分恐怖を掻き立てられる。

私の好きな怪談師で、自身の心霊体験を実話怪談として話したり、書籍にしている怪談師がいる。仮に怪男としておく。とにかく怪男の話は、心霊現象が起こるまでの描写が絶妙で、その場の状況が手に取るようにイメージできて、話に引き込まれる。非常に面白い。
しかし、彼の怪談をいくつも聴いていくうちに、ちょっと不都合な真実に気が付くことになる。怪男の体験したという実話怪談は既に数百にも及んでいる。その数を知ると、おいおいとなる。彼の怪談の数を彼が体験した年数(初めて体験してから現在まで)で割ったら最低でも毎月1~2回は恐ろしい恐怖体験、心霊体験に遭遇していなければならない。考えてみて欲しい。霊に遭遇したという話だけでも驚きなのに、その霊を通して恐ろしい体験までしたのが、月1~2回のペースだとすると、人間、精神が崩壊してしまう。そもそもこれだけのペースで霊体験をしていると謳ったら、一般には精神に問題があるのではと疑われてしまう。あなた大丈夫?って話になる。
実話怪談にはこういう矛盾、一歩引いて考えるとおかしいと思える事が後々出て来てしまい、やはり興ざめになってしまう。その怪男の話には本当に怖い話がいくつもあって、好きなのだが、怪談数を検証してからというもの、何だか純粋に楽しめなくなってしまった。

やはり怪談は実話なんですという主張はほどほどにして、事実か創作か解らない、その中間を前提で話して貰った方が面白い。

陰謀論も同じ。確かに世界には陰謀というものは存在する。それは歴史的にも判明しているものが現にある。しかし近年のSNSや掲示板で書かれている事をそのまま鵜呑みにするのは非常に危険だ。例えばアメリカでは陰謀論によって議会襲撃が発生して、挙句の果てに死者まで出るという有様。ネット上で語られている陰謀論を鵜呑みにして自らは検証しない。そういう人間がいかに愚かで多い事か。これは非常に危険だと思う。確かに陰謀論の多くを個人の力で事実確認するのは現実的には限界がある。だからこそ鵜呑みにしないで、自分で情報を集め検証しなければならないと思う。

私は旧ソ連諸国で生活した際、これでもかと言う程、政府役人や公務員の汚職に遭遇した。そんな社会ではどうせ政府は陰で好き勝手やっているに違いないという考えが蔓延して、それに伴い陰謀論も盛んだった。おそらくそれらの中には事実もあるだろう。しかしそれら陰謀論を事実か確認する事は我々一般市民には限界があった。だからこそ、現地での陰謀論を決して鵜呑みにする事はなかった。

我々の社会では確かに解明できない不思議な事は起こり得る。宗教でも同じだ。例えば聖書に書かれた話の中には物理の法則を超えた、常人には不可能な事が奇跡として記述されている。私は昔、正教会の洗礼を受ける際、神父に聖書で語られる奇跡は、実際の所、現実に起こった事ではなく、たとえ話のような物なのか?と質問した事がある。私の質問に神父は頭ごなしに「聖書に書かれている事を疑うとはふとどき者!」とは決して言わなかった。神父は私に神は我々を含め世界を創造した方で、その神であれば我々に不可能である事を可能にする事は容易い事。そして現代を生きる我々は科学的に解明できない事に遭遇した際、それは『解らない』と受け止めなさいと話しました(これに似たような事を仏教でも説いている)。正教では人類が積み重ねて来た科学的見地を絶対に否定しない。しかし聖書に書かれている奇跡は科学的に証明出来ない事ばかり。しかし科学を否定する事もない。
矛盾しているようだが、結局解らない物は解らない。そういうスタンスな訳である。頭ごなしに宗教を否定し嘘と断言する科学者と比べて、宗教の方がよっぽど理性的だ。

実社会では米国防総省が未確認空中現象UAPに関する動画を公開して、これは解らないが実在した現象だと発表したのは、非常に素晴らしいと思う。解らない事を無かった事にするのではなく、解らないとはっきり政府が表明した訳だ。それを機にUFOに関する陰謀論が無くなった訳ではないが、理性的に語られる物が増えた気がする。

解らない物は解らない。

これは心霊・怪談・都市伝説・陰謀論といったコンテンツを楽しむ際、我々が絶対に肝に銘じなければならない事だ。何の検証もなしに、解らない物を安易な結論と結びつけるのは非常に危険だ。
まあ心霊や都市伝説の楽しみ方は自由だから、それをとやかく言うつもりはない。ただネット上に散乱する陰謀論を信じた結果、思わぬ事態に遭遇したり、意図せず加害者になりかねないといった事態にだけは、避けたいと思う。

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