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孤独

エドワード・ホッパー(1882年7月22日 -1967年5月15日)は不思議な画家だと思う。技術的に飛び抜けた何かがある訳ではなく、彼の独特のタッチで描かれる作品にとにかく惹かれるといった方が多い。多くの方が考察を述べているが、その中で必ず取りあえげられるキーワードが″孤独”。
確かに彼の作品は常に孤独を感じる。しかしその孤独は普段我々が実生活で感じる孤独とは違い、悲壮感がない。かといって孤独を賛美するようにも思えない実に不思議な孤独だ。

実社会における孤独とはどういう物があるだろうか?
まず我々が孤独に陥る場合、その理由の一つに社会に馴染めない事による孤立が挙げられる。何らかの理由で孤立してしまい、結果孤独に陥るというケース。例えば会社で同僚と人間関係が上手くいかない。そこから職場で孤立してしまい、結果孤独になってしまう。
また、歳によって齎される孤独もある。若い人の場合、実生活において社会と理想のギャップから孤独感を覚える事もあるだろう。中年・老年になれば自分の過ごしてきた人生と理想とのギャップから孤独を感じる場合もある。まして老年の場合、家族や知人が亡くなるといった物理的な喪失により齎される孤独もある。年齢や社会環境によって多種多様の孤独が存在する。

都会の孤独を描く画家としてエドワード・ホッパーは有名だが、彼の描く孤独には、こういった実生活に起因する孤独は感じられない。彼の描く孤独は現実とはちょっと違う、別物の孤独なような気がする。ホッパーの絵画に登場する人物達が醸し出す孤独は人間の意識と密接に繋がっていると思う。彼の作品の孤独は我々の潜在意識における孤独と繋がっているのではないか。
人間の意識という物は基本的に孤独だ。他人と価値観や喜怒哀楽といった感情を共有する事は出来ても個人の意識を誰かと共有する事など出来ない。意識=孤独なのだ。
我々は生きていく上でこの孤独から逃れられない。意識が存在する限り、それはあくまで一人称で展開される世界であり、結局孤独である事に変わらない。意識は自我の根源である。
ホッパーの作品を観ていると、作中展開される孤独が個人の意識と重なる。だからこそ悲壮感といったものが感じられないのかもしれない。

知人で孤独が一番と豪語している男がいる。彼は自分で商売をしていて、仕事場にほぼ毎日泊まるといった生活をしている。奥さんは車で三十分程の場所に住んでいて、ほぼ別居状態だと本人は言うが、会いたい時にはいつでも奥さんの待つ自宅に戻っている。まあ中年だから四六時中一緒にいる必要もないし、適度に離れていた方が夫婦の関係上良かったりするケースもある。とにかく彼には帰る家がある。
 そんな彼は私にいつも「お前は一人では生きていけない男だ。俺の様に孤独を愛する男とは違う」と聴いているこちらが恥ずかしくなるような事を良く語る。でも本当の孤独というのは帰る家も頼れる家族、親戚、友人もいない。経済的に頼る事も出来ない。まして死んでも誰も気に掛ける事なく、葬式すらあげてくれる人もいない。そんな状況が現実社会における本当の孤独だ。
やはり孤独というのは辛い物だ。勿論、このような環境でも一人が最高という方もいるだろう。こういう方は間違いなく孤独でも生きていける方だ。でも私の知人に関して言えば、やはり彼は孤独などではない。いつでも家庭に帰れて、実際帰ったりしているのだから。現実世界での本当の孤独というのは悲壮感もあるし寂しい物だ。
個人の意識が孤独であるのは仕方ない事だが、物理的な孤独はやはり避けたいものだ。

近年SNSで今まで接点の無かった他人と簡単にコミュニケーションを持つ事が出来るようになった。SNSによる誹謗中傷も問題化しているのは周知の通り。表面上では人間関係が飛躍的に広がったように見えるが、実際は皆孤独だと言われる。それはそれで寂しい物だ。
エドワードホッパーが現代の人々を描くとしたら、登場人物はやはりスマートフォンを手にしているのだろうか。
私は彼が現代の人間を描いたとして、その登場人物がスマートフォンを手にしていたとしても、やはり彼の作品から孤独による悲壮感は感じられないと思う。

冒頭の絵画、【ナイトホークス】の四人の登場人物がそれぞれスマートフォンを持っていたら・・・

何だかそれはそれで興ざめかな。


巻頭画像:Edward Hopper, Nighthawks
パブリック・ドメイン File:Nighthawks by Edward Hopper 1942.jpg - Wikimedia Commons による


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