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人間の悪をどうするか/切り離した影は、他人に投影されて生き続ける

このタイトルを見てザワザワする人は、一定数いると思います。そんなあなたは真面目な人ではありませんか?

あなたは以下のどれかに該当しますか?

✱「人がいいね」と言われる
✱エネルギーが低めで覇気に欠ける
✱いじめ、モラハラ、パワハラの被害に遭いやすい
✱犠牲になりやすく自分の身を守ることができない
✱理不尽な目にあっても怒れない
✱NOが言えない
✱いい人をやめたい

真面目に生きようとする人は、切り離した自分の真面目ではない部分=影を他人に投影して、影に苦しめられることになります。

そんな人に向けて書きますね。

日頃感じています。
トラウマがある人は「真面目過ぎ」じゃないの? 
「真面目過ぎる」のが苦しみの一因ではないの?

これ、私の問題でもあるんです。だから、とてもよくわかるし、関心の高いテーマなんです。

トラウマのある人は思考で生きています。「こうあらねば」と真面目に考えて行動します。
感情と感覚が麻痺しているから自分の本音がわかりません。

人が良すぎです。ピュアで理想主義です。
子どものまま時間が止まったように、見た目も実年齢より若くみえることがあります。
清らかに生きようとするから、現実が分かりません。
真実の人間の姿が分かっていません。

子ども時代、親の顔色を見ないと生きてこられなかったから、他人に気をつかうことになります。他人中心に生きようとします。他人にとって快適な存在=いい人になろうとします。

また、自分が真面目で純粋なものだから、他人も真面目で純粋だと思ってしまいます。
他人の嘘が見抜けなくて簡単に騙されてしまいます。

トラウマのある人の周りにはその純粋さを利用しようとするズルい人が集まってきます。
身体の感覚が麻痺しているから気がつかず、自分の身を守ることができません。

理想主義に生きようとするから現実の醜さがあってはならないと忌避してしまいます。
清濁合わせ飲む、ということができないのです。

世の中はそんなに真面目で清らかなところですか?
違いますよね。

なんで戦争は無くならんの?
ギリシャ神話の神さまは悪の限りを尽くしてるけど、あんなもの読んで、何が面白いん?
花村萬月や馳星周をなんで読むん?
東野圭吾や宮部みゆき、私は読まんけど、みんななんで好きなん?
臓器密売を書いたロマンノワール、タイトルは何やっけなあ、そんな悪いことをする人を書いた人になんで直木賞をあげるん?
悪い人が出てくる話やバイオレンス小説を、なんで読むん?
善男善女が、なんでこんなん読むん?


清らかに生きようとすると影=悪を切り捨てることになって、その影=悪をなんらかの形で補完することになるし、健全な人は文学や芸術のなかに、それを見出してカタルシスを得るんじゃないんでしょうか?


閑話休題。

私は山田詠美さんの初期の頃からの読者です。
彼女は人間の善と悪に敏感な作家なのかもしれません。
20代のデビュー作「ベッドタイムアイズ」や「ソウル・ミュージック・ラバーズ・オンリー」を出した頃、彼女は人間性善説の武者小路実篤がすきだと話していました。
えっ、山田詠美と武者小路実篤、なんで?と思いましたが、たしかに彼女の小説には悪い人はひとりも登場しません。
そこがまた好きだったのかもしれません。
私は気持ちよく泣ける後味の良いストーリーに夢中になりました。

ところが、50代で発表した「ジェントルマン」「賢者の愛」はまったく趣きがちがいました。サイコパスか、というほど腹黒で卑劣な人がふつうのいい人を苦しめる話です。ショックでした。
山田詠美がこんな小説を書くようになったとは。

心境の変化か、それとも編集者の勧めなのか知りませんが、性善説から性悪説に大きく舵をきったのでした。

去年、60代で書いた「血も涙もある」は性善説と性悪説が絶妙にミックスされていました。

一部、抜粋します。

「太郎の自由なたたずまいだって、その背後にある不自由が開花させたものだと思う。光あるところには影がある。逆もまた真なり。明るければ明るいほど、その影は濃くなる。私は、男でも女でも、そういうのを感じさせる人が好き」

「二人共、適度に人が良く、そして適度にずるかった。心優しいけれども、意地悪な根性も持ち合わせていた。贅沢でありながら、始末屋の一面も垣間見せた。楽天家なのに小心者だった。不真面目なのに道徳家だった。そして、世の倫理から外れながらも、自分の倫理は譲らなかった」

善と悪が、みごとに統合されていました。
ほっとしました。


真面目ないい人をやっている人は、みんな気づいていると思うけど、他人から軽んじられるところがあります。
いい人はどうでもいい人、毒にも薬にもならない、と言われますよね。
自分で自分を認めることができなくて、他人の承認にすがっているから。

いい人をやめたいですよね。


あなたは、ただ、あなたとして生きればいいのに。あなたはジャッジされるのを怖がっている。
いい、悪い。正解、不正解。あなたの中の裁判官によって。
あなたは分かっていないのだ。愛は、決して、人を裁かないということを。

あなたはただ、あなたとして生きればいい。
それが自分に厳しい真面目なあなたが、自分と和解するということ。
自分に厳しすぎて、自分は自分でいいんだと思えないから、支配者のマインドコントロールに簡単に引っかかってしまう。
カルト、ブラック企業、モラハラ男に自分から支配されに行っている。

トラウマがある人は、真面目に生きている人。だが、生物としては生きていない。
生物として生きていない、とはどういうことかというと、思考のみで生きて、感情や感覚で生きていない、ということ。
感情と感覚こそが真実の自分で、それこそが自分の身を守る。

真面目な人が悪を否定して無きものにしようとすると、悪は他人に投影されて、他人から攻撃されることになる。
あるいは、自分の周りに許すべからざる不道徳な人や悪い人が現れて悩まされることになる。
悪を無くそうとすればするほど無くならない。

「こうあらねば」「こうすべき」と真面目に生きようとすればするほど、あなたは本来のあなたから遠ざかり、生き物としてのあなたは疲弊していく。
人生の振り幅も狭くなって、人生の果実を味わうゆとりもなく、楽しみや喜びが失われていく。

真面目はやめようよ!


締めは、20世紀最大の心理療法家、ヴァージニア・サティアの言葉で終わりにします。

「人生に理想(こうあるべき)を求めてはいけない。現状(ただある)があるだけである。重要なのはどう対処するかである」

(ヴァージニア・サティアは日本では著書が翻訳されていなくて知られていないが、フリッツ・パールズ、ミルトン・エリクソンと共に20世紀最大の心理療法家と言われている)

この言葉をはじめて見たとき、仏教的だと思いましたが、みなさんはどう思いますか?

悩めるすべての人への処方箋だと思いませんか?

リピートしますね。

「人生に理想(こうあるべき)を求めてはいけない。現状(ただある)があるだけである。重要なのはどう対処するかである」

こうあるべき、っていうのは病んでいる人の世界観だと思う。
真面目に生きようとするから苦しくなる。
苦を選ぶより、楽を選びたい。


「べき」「ねば」の思考ベースで生きていると、感情と感覚を切り離してしまう。
この感情と感覚があってこそ、人生のいちばん美味しいところを味わえる。 
思考の中には人生の滋味はないんだと思うよ。
感情と感覚を軽視しすぎている。
人生をぞんぶんに生きるために、思考を手放したい。

感情と感覚を全開にしているときが、生物としての自分100%を生きているとき。
そこには他者がつけ入る隙はない。
切り離した影の要素(攻撃性)を自分のなかに統合したら、もとの全体のあなたに戻るから、他人からエネルギーを奪われることは無くなる。

悪人が目に入らなくなるか、気にならなくなると思うよ。



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