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嫌ならやめろは正しいか

 嫌だったらやめれば良いと言うのは簡単だ。そして実際、やめるということはいとも簡単にできてしまえる。やめられないのは「やめない」からであって、どんな物事でも終わりを下すのはそれをやっている人なのだから、人生において、その人がやめられないことなどない。
 しかし、現実には事情は異なっている。やめたくともやめられない。そうできないでいる人はすごく多い。誰だって「やめる」に振り回されている。好きなものを好きな時に好きなだけやめられる人は恐らくどこにもいないだろう。

 なぜかといえば、単純だ。
 やめるには代償やコストがかかるからである。あるいはむしろ、やめたくないものまで連鎖的にやめてしまうことになり、やめたいものをやめられないからだ。
 いくら心情的にやめることが簡単だとしても、対外的にそれは難しい。どんなものごとでも壁になるのはコストである。それは「やめる」ことについて言えば、代償ということになる。

 そう考えると、嫌ならやめろ、ということを言うのであればコストのことを考慮せねばならない。特に、ある人がやめようかやめまいか悩んでいる時、他人から見れば簡単に「やめればいい」と言えるのは、コストが考慮できていないからだ。
 当然だ。その人の事情などすべて把握できるわけはないのだから。人は他人のコストに鈍感なのである。そのことが、「嫌ならやめろ」を助長する。

 だから、その限りにおいてそれは正しくない。嫌ならやめろはコ大抵の場合、スト度外視である。それを本当の意味で言えるのは、コストを支払える者のみなのに。そうできないから気楽に言える。心情だけで。実際、やめるのは簡単だから。コストさえ気にしなければ。
 でも実際、嫌ならやめろにコストはある。

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