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この社会に「大人」も「子供」もいないこと。

「大人」と「子供」というのは言葉、私たちに貼り付けられたレッテルでしかない。にもかかわらず私たちは、この言葉をありがたがって信用し、あたかも本物であるかのように取り扱う。
 つまり大人と呼ばれる人たちは大人なのであり、子供と呼ばれる人たちは子供なのだと。その、言葉と状態の繋がりを絶対視してしまう。けれど実際、誰もそんなことはないということをわかっているはずだ。大人は言うほど大人ではなく、子供は言うほど子供ではない。大人ほど子供で、子供ほど大人であると。

 むしろ、偏見にとらわれずになんの区別もなく人間存在を眺めた時、大人に潜む子供と、子供に宿る大人を見つけられるはずである。
 大切なことは「扱い」だ。大人が大人なのは、大人扱いをされているからこそで、子供が子供なのは子供扱いされているからである。

 顔も見えない相手とコミュニケーションができるようになってから、私たちはどうしてもこのレッテルから逃れることは難しくなった。なぜなら、そのレッテルの本当を確かめる前に、もうその相手と深く繋がってしまうからだ。あるいは確かめるということが、もう私達の頭にはない。顔が見えないこと、レッテルが貼られていることは当たり前で、そんなもの、今更考慮することでもないと感じるからだ。
 つまり単なる「慣れ」の問題で、私たちは私たち1人1人の個性を、決めつけて生きている。これは血液型占いとか、星座占いとかのみならず、性別や年齢――それこそ、大人か子供かということに勝手な想像をふくらませる。

 本当は、大人らしい大人などおらず、子供らしい子供もいない。しかしそう振る舞えという社会の要請により、私達は少なからず、年相応を演じてしまう。それがより、事態をややこしくするのに。
 究極的には、大人らしさや子供らしさというのは個性の中にあるものであって、年齢についてくるものではない(同じように、性別らしさとか、血液型らしさとか)。当然のことながら、私たちの「らしさ」は、私たちの人生しか影響しない。その歩んできた道以上に、この社会に存在する、私達に刻印されている偏見や決めつけなどが、意味を持つはずがない。

 大人は、大人ではない。そいて子供も、子供ではない。個々人を見つめ直す必要がある。その人が、そして自分が、人々が本当に「大人なのか?」「子供なのか?」ということに、興味があるのならば。

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