冬の自殺の肯定

「誰も何もできないからだよ」とその人は最後に言った。その日は雪が私達を凍りつかせるほど降っていて、昨日の見慣れた土色とは打って変わって真っ白になったグラウンドでは、放課後の雪合戦を楽しむ生徒達の声が聞こえてきていた。
 その溌剌とした若々しい声は、淡々と振り続ける雪と空気の冷たさに濾されて、私にはとても白々しく聞こえた。それがなんの根拠もない被害妄想だとは分かっていた。でも、ここまで階段を何十段も駆け上がってきていて喉が痛いし、寒さで耳も鼻も痛いし、目の前の友人は屋上から飛び降りようとしているし、少しくらい被害者ぶったっていいだろうと、私は半ば開き直るしかなかったのだ。
「でも、普通死のうとする?」
「するよ、もう決めちゃったから」
 凍てついた屋上で、私の友人は笑った。その笑顔は、降り積もってゆく雪の向こうで今にもこの灰色の空の向こうに消えていきそうだった。駆け寄って、その冷たい体を引き寄せようと思ったけれど、自分の足は凍り付いたように動かない。
「……だって、来月引っ越すって言ってたのに、親戚の家、準備も終わったんでしょ?」
「うん、そのつもりだった」
「なんで」
「──には、お弁当があるでしょ」
 苗字ではなく名前を呼ばれて、どきりとした。憶えていたんだ、と。出会ってまだ1年しか経っていない。仲良くしていたとはとても言えない。私達の関係は、多分誰も表向きは知らなくて。それでもこの人は、私の名前を今ここで呼んだのだと思うと、とてもびっくりして。
「お弁当?」
「そう、よく言ってたでしょ、お母さんがいっつも唐揚げじゃなくて焼き魚を入れてくるって」
「確かに言った、かもしれないけど」
「うん、他にもお弁当の人がたくさんいた。ウチの学校は食堂美味しくないからね」
 言いながら、その人は屋上の縁に立ったまま、グラウンドをのぞき込んだ。声をかけようがない。確かにこの学校の食堂は和食や家庭料理みたいなのばかりで人気がない。それに加えて、伝統だのなんだのを誇りにするばかりに色々と設備が古くて、時代錯誤で、なんにも私達のことを考えてくれていなかった。
 今時「立ち入り禁止の旧校舎」なんてものがグラウンドの隅にあるのも、近隣ではこの学校くらいのものだ。それはこの季節、真っ白な髭を生やしたように雪に埋もれて沈黙している。全部、古いせいだ。そして古いまま何もしない、何かするべき人たちのせいなのだと思った。
 だって、私達がこの場所でこんなことをしているのも、屋上への扉の鍵なんてあってないような古いもので、屋上の周囲も取ってつけたような柵しかないのだ。普通、こんなことは起こり得ないのだと叫びたかった。こんなことをする意味などないと。でも意味がなくとも、知らず知らずそちらの方へ追い詰められてしまったら、たとえ分かっていたとしても、この人はこの屋上の縁に足をかけるしかなかったのかもしれない。
「でも、お弁当なら叔母さんに作ってもらえるよ、新しい学校で」
「そうかもね……でも、お弁当だけでしょ」
 その人はしゃがんだまま、私の方を向く。とても不安定な体勢。落ちないのが不思議なくらいだった。体重が軽いから、もしかするとバランスを崩しにくいのかもしれないなどと、都合の良い考えが頭によぎった。
「お弁当が欲しいってはなしじゃないの?」
「そうだよ、でもどっちかじゃダメだから。お弁当があるだけじゃなくて、それを一緒に食べる人が必要だって思ったから」
「そ、それは……」
「お弁当は誰かに作ってもらったら嬉しいもの。でも一緒に食べる人は、自分が作らなきゃいけない」
 その人は立ち上がろうとして、少しふらついた。私は慌てて駆け寄ったけど、大丈夫と来ないでが混ざった視線を向けられて、やっぱり、思わず立ち止まってしまった。
「──みたいな人、新しい学校にいるのかなって思って、いないなら頑張らなきゃいけないのかって考えたら、イヤになっちゃって」
 あるいは、立ち止まったのはこの人の口が、私の名前を呼ぶ形になったことを察したからかもしれない。また、どきりとした。距離は近づいたけど、離れたような気がした。そしてもう少しで、どこまでも遠くへ行ってしまうのだという、血の気の引くような感覚に私は気づいていた。雪の降る屋外に十数分。もう、これ以上体温が下がることはないと思っていたけど、それでも私の背筋は、気温なんか全然無視して、はっきりと凍り付いていた。
「……で、でも頑張れるよ。実際に作れたじゃん、友達! だから」
「うん、自分もそうだと思う。だからせめて……死ぬことだけは自分でやりたい。最後に」
「どうして」
「誰も何もできないからだよ。できなかったからここに立ってるんだなって。そんな人達とは違うって、自分で納得したいから」
 そんなことを言って、その人は落ちて行った。目を伏せる暇もなかった。そして死ぬ寸前の人の表情というのは、映画やドラマで良くあるような清々しさも、後悔の念も、笑顔でも怒りでもなんでもなくて、まるでその瞬間から生き物としての存在を抹消されてしまったかのように、全くの無表情になるのだと知った。
 その人の言葉には確かにあらゆる覚悟があったように思えて、実際はただの向こう見ずな意地だったのかもしれない。
 悲鳴の上がるグラウンドを私は見下ろした。駆け寄る生徒もいたが、逃げ出したり、泣き出したりしている生徒もたくさんいた。白々しく遊んでいるからそうなるのだと思った。こんなことが起こってからうろたえる。
 起こりうる悲劇に対して、誰も、何もできない。私は雪の降る屋上に冷たいまま、へたりこんでいた。このままここにいれば、血相を変えた教師が駆けあがってきて、心臓も喉も鼻も耳も痛くなる様を、せめて見ることができるだろうと思った。

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