運は偶然にあらず、人の為す思いであって
運が良いことを拒む人はいないが、しかし自分が運が良い人間だと思っている人も少ない。そして運とは人のコントロールできない何かであって、私たちはただの一度も、それを見たこともなければ、その声を聞いたこともない…そのように思ってしまう。
そうする内に、やがてこうも思う。運の良さなどなくて、つまり運などなくて、それは単なる出来事の偏りであると。たまたま、偶然、確率。運とはそういうもので構成されていて、いわばすごいものなどではないと。
これが負け惜しみだとわかっていても、私たちは宝くじで高額当選した人を睨みつけてこう言う。「どうせ仕込みだろ」「いきなり大金を手に入れたら、むしろトラブルに巻き込まれて人生がめちゃくちゃになる」。
運などない。そう思い込もうとして、必死になって運がもたらす幸運の埋め合わせを願って、それを否定した気になっている。
でも、そういうことなのである。運とは、運勢とは、そしてそれが善い悪いなどというのは、まず「思い込み」から始まるのだ。
私たちはこの世に存在する。そのことが事実なら、私たちが抱く思いもまた事実であり本物だ。だから運に対して念ずる強い思いは、まさにその運というものに大いに影響を与えているのである。
なぜなら運とは人の為すことを言っているから。その人の未来、行く末、結末、過程、そしてそれらの質や量。そういった「人間」つまり「思い」を運は指し示している。
偏りだろうが偶然だろうが、どんな名前をつけられたとしても、運は人間のことを、その所作のことを表しているので結局はそれをする私達自身と、それを動かす原動力たる思いによって、いくらでも「そのようになる」ものなのだ。
そう信じている限り。私たちを動かすのは私たちの思いだから。そういう意味で運はいつも、私たちに存在し続ける。
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