見出し画像

エンタメは憧れて。遠くの賑わいを眺めて

 エンタメは身近でないべきだ。なぜなら身近なものは陳腐に感じるようになってしまうからである。わが身に近しく常に一緒にいるものに対して、人は飽きてしまう。
 だから、エンタメは遠い憧れであるべきなのだ。手が届かない、ステージ上で繰り広げられる楽しさ。あるいは触れることのできないガラス越しに展開される世界。舞台や水槽、そしてここではないどこか違う場所。

 もし、そういった区切られても遠くでもないところでエンタメがなされるのなら、人々はそれを日常の消費物の1つとしてしか扱わない。そしてそうなっている。ある時代のエンタメは誰しもに手に取ってもらおうとして、近く近くあろうとしてしまった。そのせいで現代に溢れかえったエンタメは、毎日の呼吸に等しい注意を払わざる存在にまでなり下がった。
 特別であれというのではない。
 けれど、特殊でなければエンタメはその場限りの楽しさを捧げる供物でしかない。消費者を神として、その気に入る何かを提供するだけの儀式。形式的な毎日の繰り返し行動。その1つに組み込まれたエンタメは、面白くない。

 楽しませるという本分に立ち返るのなら、エンタメは非日常であるべきだ。それは「隔たり」であり、「どこか遠くで」である。けして「いつもの」でも「身近な」でもない。
 そうなることを目指すエンタメは、エンタメを志向していない。最初から、何か別のもの(地位や名誉やお金)と交換すべき娯楽として作られている。
 それは必ず「つまらないもの」になる。一時的な熱狂・熱中・熱望を通ったら。もし、それだけが目的でないエンタメならば、それはまず、遠く遠くあらねばならない。
 憧れと隔絶を。

※このテーマに関する、ご意見・ご感想はなんなりとどうぞ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?