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今、本当に思想信条は自由か?

 地球上の多くの国では、個人の思想や信条についてとがめられることはない。なぜなら内心の自由は、それだけでは他者に害をなさないとされているからだ。ある人がどれだけ恐ろしいことを考えていたとしても、それを思うだけでは、なんの悪事にも違法にもならないのである。
 だから、私達は何を思ってもいい。何を考えてもいいし、それを表明することも自由だ。他者に害が及ぼされなければ。

 それゆえに、この「害」が問題なのである。それは何か?どうして生じるのか?それが及ぼされることで、なぜ良くないのか?
 害というものへの価値観は人ぞれぞれで、ある人にとってはたいしたことがなくとも、ある人にとっても重大である。そのため、誰かが思想や信条を抱いた時に、絶対に誰も害を及ぼされないとは限らない、ということになる。もし、少しでも他人に害を及ぼす可能性があるのなら、その思想信条は抱いていいものなのか?

 問題は根深い。このような疑念が生じる時点で、その思想信条は抱かれることを遠慮される。その瞬間、思想信条の自由は侵されることとなる。どのようなことでも(害を及ぼさないなら)思うだけはセーフだという前提があって、思想や信条の自由は守られているのである。それはある意味、私達の暗黙の了解によって支えられている、脆い自由だ。
 そしてそれは、一度でも制限されると、どんどんとなし崩し的に自由が少なくなっていく性質のものでもある。なぜなら思想や信条の「良し悪し」というのは、この通り境目が曖昧で、決まりといえば人々の快不快くらいなものだからである。

 今、人類はこの快不快に敏感である。何かがこの世に出てくると、それはすぐさま判断される。個々人の価値観によって、それは飲み下される。思想や信条も同じである。まったく、外に出さずに心に持っていたとしても、その人の態度や発言から間接的ににじむ思想は分析される。
 それすら、害かどうか判断されるのである。だから私達は、この相互監視の状態で縛られている。そこに、思想や信条の自由は大きくない。
 思想は今や息苦しい。それは本当に自由なのだろうか。

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