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費用対効果を求めることの勘違い

 パフォーマンス良く生きるために工夫をする。パフォーマンスとは効果のことであり、得られるものということであり、私達の満足ということだ。
 どうせ同じだけの満足感を得られるのなら、そのかけられる費用も時間も少ない方がいい。そんな当然の考えのもと、費用対効果や時間対効果というのはとても追求されている。「〜対効果」は高ければ高いほどいいので、それを求める場合はできるだけ費用をかけず、あるいは時間をかけずにというのが当たり前なのだ。

 けれどもパフォーマンスを追求するのならば、まず考えるのはそのパフォーマンスそのものを高めていく方法のはずである。つまり「〜対効果」をどうにかしようというのは回りくどい。あるいは安直である。もし豊かに生きていきたいのならば、そのために直接的に工夫するのが筋というものである。
 なぜ、費用や時間を縮小しようとするのか? もちろん、その方が簡単だと思うからである。あるいはわかりやすいからだ。費用も時間も数字で表されるものであり、目に見えて「削減」がはっきりしている。
 美味しいご飯をクーポンで50%引きで食べられたら、すごく得した気分になるだろう。でも、同じ値段で50%美味しいものを食べられると聞いても、いまいちピンとこない。

 だから、私達は費用や時間を「節約」するのである。質を上げるのではなく。なぜならそんな方法は簡単には見つかりそうもないし、多分、簡単には上がらないし、上がったとしてもピンとこないからだ。
 そうやって費用や時間ばかりを削減して手に入れられるものは、もちろんそれ相応である。そもそも、そうやって「〜対効果」を上げようとするために、費用や時間をかけてしまっているのだ。ちょっと良い効果を手に入れたくらいでは、その負債は回収できない。

「〜対効果」は、そういう意味ではまやかしなのかもしれない。少なくともそれが効率化とはとても言えない。また、それが豊かな生活に本当に繋がるとは、けして思えないようなものである。

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