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短編小説

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#創作

我々はすぐに消えてしまえるので

 消失、というのはごく簡単なことなのだと思った。友達からのメッセージを読み終わって、<いいよ>と返して、私は寝転がっていたソファから身を起こした。部屋はありえないくらいに散らかっている。瓶や缶は机どころか床中に散乱していて、ゴミ箱が置いてあったあたりには大量の丸めたティッシュが山になっている。一応、袋には分類して色々、スプレー缶とか、包装紙とか、使わない食器とか捨ててみたけど、それを家の外のゴミ捨て場に持っていかないと、捨てたことにはならないことに今朝気づいた。 「……明日は

アリ、そして母のお菓子作り

 ゼリーに溺れてアリが死ぬということを、私は知ったのは小学生くらいのことだった。アリは溺れる。昆虫だから顔が埋もれても大丈夫なようだけれど、もがくうちに全身が埋まってしまうともうダメだ。他のアリが異変に気がついて、助けようとするのか溺れるアリに群がる。私はそれをただ見ている。ゼリーは、アリ達にとって、降ってわいた恵みだ。普段はそのようなもの、自然の中にはない。ただひたすらに甘く温かいその糖分の波に、アリ達は誘惑されて、犠牲を出していく。  誕生日に、親にねだって買ってもらっ

宇宙の内外および理想と実情への想い

 私は宇宙的空間とやらに理想的な思いを巡らせたことなどただの一度もないが、人々が空に憧れ、上を目指し、あのどこまでも続く星々の空間の中へ飛び込んでいきたいという欲求は、充分に理解しているつもりだった。それは人々の「内側」に、それら自身の宇宙空間があり、そしてそこに住まう宇宙人がいて、生態系があって、出来事があるのだ。その限りにおいて、宇宙はまだ人々と幸せな関係を築いている。  しかし、人間の「宇宙飛行士」という職業は、昔ほどは手の届かない存在ではなくなり、それどころか金さえあ

ガチャガチャに落ち込んで、運命と。

 高野に、何も上手くいかない気がすると正直に話したところ、連れて行かれたのは家電量販店だった。その広い1階フロアは、よく他の店でも見るようにたくさんの携帯電話やアクセサリーが売られていて、店員が呼び込みに目を光らせている。その投げかけられる声掛けをことごとく無視して、高野は俺をフロアの奥へと誘っていった。  正直、携帯電話を買い換える予定もないし、ケースも、保護シールも買い替えたばかりだ。何も言わずについてこいと言われたその背中は、俺と同い年とは思えないほど小柄で、だからこそ

濡れている身を隠した木々と、リスの温もり

 そんなつもりはなかった。  ただ、彼は押しただけだった。そのバタバタともがく後ろ足を見て、手を伸ばしたら届きそうで、人差し指で触れてみると暖かくて。  生き物は温いのだと思いだしたのはその瞬間だった。彼はその時は全身ずぶ濡れで、雨でもないのに身体を震わせながら、そろそろ走るのも限界だったから。慌てて飛び込んだ公園の低木に身を潜めて、バタバタとすぐ横を駆けていく怒声に身を縮めた。  しばらくの時間が経って、彼は低木から顔を覗かせる。ずぶ濡れだった衣服は彼自身の体温でぬるくな

やる気の出ない仕事と、嫌いな人と、好きなもの

 星の形をした風船と、水玉模様の傘と、甘くないカフェラテが嫌いなのだと、彼はガラス張りの如何にもおしゃれな会議室で力説していた。片側の壁には大きなスクリーンがあって、そこには今日の議題の資料が映っている。反対側に皆が座っており、私はそんな彼らをスクリーンの横から見ている。  つまりプレゼンターは私だ。だからそのような雑談はやめて、さっさと進行させてほしい。でも彼の話を誰も止められない。それはいかにも仕事の話に結びつきそうで、あるいは人生の教訓的な何かに繋がりそうで、しかしその

変わりゆく「人」と、自分との関係と

 自分が友人を失って手に入れたものは、すぐにいっぱいになる郵便受けと、電子メールボックスを圧迫する勧誘メールと、電話やSNSのメッセージと、それらを無視しても数分おきに携帯に現れる通知だった。友人を失ったのは現実のことだったが、代わりに現れたそれらの殆どは自分の目の前に現れるわけでもなく──画面上や音声としてはあるが、空間を共有していないという意味で──ただただ、自分の時間と精神を蝕んでいった。  周囲の人からは「無視が1番」とか、「そのうちいなくなる」とか、「気にしなければ

死と食事と聞きそびれた長い話

「彼、話長いじゃない、やっぱり」 「仙遇がですか?」  三井はナポリタンを口元に運びかけていた手を止め、まるで親しい者の死の報せを聞かされたかのような顔を見せた。テーブルの向かいで頷く坂野は、ちょうど最後の骨を、定食の焼き鯖から抜き取ったところだった。 「そうよ。彼と会うといっつも2時間くらい飲んじゃうもの」 「はあ……酒好きなだけでしょう、2人とも」 「そんな冷たい目しないでよ。本当なんだってば」  板野が猫なで声を出す。色香を含んだ艶のある目線が、三井を捉えるが、彼はそれ

誰かと離れるという、いっそ簡単な手続き

 何かを信じないのなら、いっそ疑うほうがいい。何かを信じないままでは、それは何もしないのと同じだからだ。何もしないよりは、する方がいい。だから、何かを疑うのだ。そのほうが生きていくにはずっとマシだ。  「これで終わりね」とありきたりなセリフを奈美が呟いたのは午前8時。初夏の頃、家から市役所までの10分の道のりに少し汗ばむようになってきた、そんな時だった。大木雄大は、向かいに座るその女性の言葉に無言で頷いた。そのまま、机の上の薄っぺらい紙に目を落とす。それを貰ってきたときは、

寒空の下の散歩。傍らの愛犬の存在

 人は共同体を作る。それは本能だ。人がいつ生まれ、そしていつ滅ぶのかはわからないが、ただ1つはっきりしていることは、私たちの生と死の間には必ず他人とのかかわりがあるということである。  弟の水樹が失踪したことを深刻に受け止めているのは、家族の中では俺と、犬のワンド――大型で真っ白の、温和なオスだ――だけのようだった。呆然と玄関先で立ち尽くす俺の隣に、ワンドが寄り添うように座っている。  土曜日の朝はいい天気で、冬も近く肌寒いものの、紛れもなく洗濯日和、そんな日だった。日差し

新しく買った茶葉と、仕方がないと諦める心

 無気力などと言われるのは心外だ。それも大人から。若者よりよっぽど無気力なのは? まずは自分の心に聞いてみてほしい。ゲームも音楽も小説も、人生だって途中で放り出しかねないのはどっちなのだろう。辛うじて残っているのは仕事だけ。それすら危うくなっているのに。  でも、そんなことを言って大人と対立するのは面倒くさい。ちょっとだって得にならない。なら、口答えするのはやめておこう。  とにかく、心外だけど。 「ちょっと、お皿洗っといてって言ったじゃん」  朝のクミの声は低い。多分、太

世界では布団が禁止になっていた。

 朝は眠い。  まどろみの中から何者かに引っ張り上げられる感覚がする。私は夢の中で赤子になっていた。今は亡き母の子守歌を聞きながら、暖かい布団の中で、ただひたすらに安眠を貪るのである。  それは至福だった。  昔ながらの家屋の中で母と2人、なんの憂いもなく柔らかな居心地に抱かれることが、ではない。  布団だ。  赤子の私の矮小な手でも握りしめることができ、そしてそれは暖かな弾力を返し、まるでこの手の中に収まっていることが母の腹にいたときから決まっていたかのように、収まりが良い

災害は遠くにある

 ”災害”は、自分の今いる場所や時間から遠いものだった。それは地域と世代を壁にして、あくまでも、自分の向こう側の存在だった。  そのことは、今でも当然だと思っている。そう思わなければいけないと感じている。災害で何もかもを失くし、自分というものが丸裸になったあの時から。 「だから憶えてないって言ってるじゃん」  娘のくるみがスマホの画面から目を離さずに言った。知らない曲が、彼女の手の中からくぐもった音を立て、流れる。その曲は流行らしい。くるみがスマホを取り出すたび、その曲がB

ステラの事件簿①《電子証明書、偽りと成る・壱》

 大人の方が子供より偉い。けれどそれは、大人が大人である時だけだ。世の中には沢山の種類の人間がいて、大人がいて、子供がいる。だからその中には、「大人でない大人」なんていうのがいることも、全く珍しくない。  欧林功学園に通う男子学生の体操着が盗まれた事件――その犯人は未だ捕まらず、学園はセキュリティを強化するという形で、関係者からの非難に応えざるを得なかった。学園に通う1人学生、星にとってみても、わざわざセキュリティカードなどを持たされたり、警備員に挨拶せねばならなくなったり