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災害は遠くにある

 ”災害”は、自分の今いる場所や時間から遠いものだった。それは地域と世代を壁にして、あくまでも、自分の向こう側の存在だった。
 そのことは、今でも当然だと思っている。そう思わなければいけないと感じている。災害で何もかもを失くし、自分というものが丸裸になったあの時から。

「だから憶えてないって言ってるじゃん」
 娘のくるみがスマホの画面から目を離さずに言った。知らない曲が、彼女の手の中からくぐもった音を立て、流れる。その曲は流行らしい。くるみがスマホを取り出すたび、その曲がBGMのように、かすかに流れて耳に残る。
「本当か? だって中学生くらいのときだぞ? ほら母さんと、車で。婆ちゃん達迎えに行ったじゃないか」
「知らないそんなの。もうその話しないで」
 背を向けてしまったくるみは、それでも、この部屋から出ていこうという気はないようだった。テーブルに並べられた晩ごはんは、くるみの好物ばかりだ。その半分も手を付けないうち、俺が不用意に昔話をしたのが悪かったのかもしれない。口を滑らせたというのが正しかった。
 実際、めでたい日に、娘にとって良いとは言えない日々を思い起こさせるような話題はするべきではなかった。けれど自分は、それを避け続けるような人生も辛いと思ってしまった。なにより自分自身がそうだから。
 俺は薄暗いリビングの窓際を見た。そこには家族の写真がある。自分と、幼い頃の娘が笑顔で写っている。その隣りにいる人間の姿は、ここからでは暗く影になって隠されていた。

 失敗した。大切な記念日が台無しだ、と心に黒く重いものがのしかかってくるのを感じた。今日は仕事を切り上げて、娘よりも早く帰って支度をしていたというのに。年頃の娘の気持ちは、やはり、男親の自分ではわからないということなのか。これまで何度も、それを乗り越えようとして、少なからず学習はしていたはずなのに。

 これ以上くるみを刺激しないよう、もそもそと、まるで味気のない、無色透明な飯を口に運ぶ。ふと、自分のポケットが震えたのを感じ、もしかして仕事の連絡かと顔をしかめた。娘が気配に気づきちらりとこちらを向いたが、またすぐ、別の流行りの曲に意識を向けたようだった。
『くるみちゃん喜んでくれた?』
 新城要からだった。1年ほど前から娘のことを相談するようになった同僚。気さくな女性で、職場では多くの人間に慕われ、他人を引っ張る力と魅力のある人だ。彼女と親しい間柄になったのは、新規プロジェクトの責任者を、2人で任されたことがきっかけだった。それまでなんとなく話に聞いていた「優秀でいい人」が身近な存在となったのだ。
 ただ、実際のところ、たしかに男手1つで困っていたからと言って、おいそれと家庭のことを話すような間柄ではなかった。それを前に進ませたのは、新城要が俺や娘と同郷で、しかも同じ時間をそこで過ごしていたことがわかったからだった。良い瞬間も、とんでもなく悪い瞬間も。

 俺は要にことの次第を報告した。要からは即座に、ショックを受けるウサギのスタンプが送られてきた。ついで、娘が部屋に戻ってしまったかを聞いてきたので、まだ目の前にいると返信した。
『じゃあ、その内喋ってくれると思うよ。ネットのニュースとか』
 自分が想像するよりも簡単な返事に、俺は拍子抜けする。それと同時に、本当にそんな気楽なことでいいのだろうか、と疑う心もあった。これまで、くるみが露骨に期限の悪い日があるときや、無断外泊を叱ったとき、自室にテレビを持ち込みたいと言ってきたときなど、要の助言が役に立たないことはなかったし、言ってみれば、彼女の分析が外れたことはなかった。だが、今回の失敗は、これまでの比ではないのではないかという囁きも、自分の中にこだましていた。そのことを要に聞いてみたが、今まで早さが嘘のように、彼女からの返信は途絶えてしまった。

 くるみの様子をうかがえば、スマホを食卓に置いて、動画か何かを見ながら夕飯を食べている。ひとまず、食事を残して自室に戻ってしまうということはないようだった。
 以前、洗面所の化粧品類を勝手に動かしたときは、本当にしばらく一緒に食事をすることはなくなってしまったくらいなのに。それと比べると、娘は歳を重ねるごとに成長してくれているのかもしれない。あるいは慣れて、俺のような中年の男のことなど、気にする必要はないと思い始めているか。
 しばし無言の食事が続く中、娘のスマホからニュースの音らしきものが耳に届く。
<あの痛ましい日から5年が経過したということで、被災地では時間に合わせ、住民が黙祷を――>
 俺は娘の顔を見た。それはいつもと変わらない様子に見えた。好物のポテトサラダを口に運ぶ手はよどみなく、しかし、俺はこの眼の前の光景を、5年前のあの日に娘だけが成長した、まるで合成写真のようなものに見え、不思議な感覚を覚えていた。そこにいる娘はいつも見てきた変わりない姿だし、この空間、家も、かつて妻と息子と、自分たちと、いつまでも変わらない日常を信じていた場所となんら変わりないように思えた。まるで今にも、玄関からガチャリと音がして、あの日失った日常が帰ってくるかのように。
「……したほうがいいのかな」
 娘の声で我に返る。
「なに?」
「黙祷」
「黙祷……あー、いや……くるみはしたいのか?」
「まあ、節目だし……?」
「節目か……」
 それはどういう意味だろうと思った。くるみにとって、それは5年という意味なのか、誕生日という意味なのか。両方なのか。別の意味なのか。
 俺は曖昧な気持ちのまま、黙祷という言葉に反応して、頷いた。それは反射という無意識的なものではなく、ちゃんと意味を理解し、そうしたほうがいいという自分の意志に従って頷いたのだ。だが、根拠はなかった。黙祷をすべきかどうかと言われればすべきだが、どうしてそうなのかは用意できないまま、こちらを見つめる娘の視線に、俺は耐えた。
「じゃあ――」
 くるみが口を開いた瞬間、俺のポケットがまた震えた。無言のママ、娘は確認していいよ、と促してくれた。ニュース番組の音はいつの間にか止まっていた。俺はなぜか恐る恐る、要から来た連絡を見た。
『今日お邪魔してもいい?』
 その文字列を、2度、そして3度と読んで、ようやく飲み込めた俺は、少し考えて理由を尋ねることにした。
『節目だから。それに、くるみちゃんの誕生日もお祝いしたいし』
 要は両方の意味で、ここに来て、直接俺達と話がしたいと思っているようだった。そのことをくるみに伝える。要との関係はもちろん話してあったが、家に上げていいかを尋ねるのは今回が初めてだった。
「別にいいよ、てかなんで聞くの。普通逆じゃない?」
「逆?」
「お父さんが娘に聞くのって変じゃない?」
「そこ引っかかるとこか?」
「うん、変だし」
 くるみは意地悪そうに口角を上げた。その表情に、俺はいつもの空気を感じた。朝起きて、一緒に歯磨きをしているときとか、土曜日にふたりでちょっと豪勢なものを食べに行こうとしているときとか、流行りのゲームで対戦しているときとか。
 別に本気で気にしているというわけではない娘の空気、そういうものを、俺はこのとき初めてわかった気がした。くるみは立ち上がり、要の分もご飯を用意したほうがいいかを聞けと、俺に催促してくる。

 要は、もう10分ほどで家に来るらしい。夕食のことを聞くと、先程まで仕事で食べていないらしい。今日のごちそうのことを告げると、滝のように涙を流すウサギのスタンプが返ってきた。
「食べたいそうだ。あと10分で来る」
「わかった。残り温めとくね」
 くるみがガスコンロの火をつけた音がする。なんだか妙にバタバタしていて、くるみは張り切っているように感じた。
 俺は部屋を見渡し、せめて少しでも整えようと、出しっぱなしにしているものなどを片付けることにした。
 窓際にある写真、妻と息子と目が合う。
 俺はそれを手にとった。先程は見えなかった家族の表情が、灯りの下だとよくわかった。笑顔だ。確かに。記憶にあるのと全く変わらない。俺はこの写真を、もっと目立つ場所に置こうと、改めて、部屋の中を見回した。

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