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誰かと離れるという、いっそ簡単な手続き

 何かを信じないのなら、いっそ疑うほうがいい。何かを信じないままでは、それは何もしないのと同じだからだ。何もしないよりは、する方がいい。だから、何かを疑うのだ。そのほうが生きていくにはずっとマシだ。

 「これで終わりね」とありきたりなセリフを奈美が呟いたのは午前8時。初夏の頃、家から市役所までの10分の道のりに少し汗ばむようになってきた、そんな時だった。大木雄大は、向かいに座るその女性の言葉に無言で頷いた。そのまま、机の上の薄っぺらい紙に目を落とす。それを貰ってきたときは、そうだと思っていた。単なる白い紙。だらだらと文言が印刷されているだけの、形式的な書類。 
 窓から青みがかった陽光が書面を色づけている。窓ガラスの色ではない。レースカーテンだ。青は、雄大の好きな色だった。けれどお店で探したときに気に入る色がなく、仕方なく一番近くて、奈美も好きなラベンダー色にすることで妥協したのだった。今では色あせ、最初からそうであったように薄青く部屋に色を投げかけている。
 雄大は俯いたままの角度でもう一度頷いた。まるで、こんな状況だと言うのに平穏な鼓動を刻む自身の胸に問いかけるように。それは奈美からすれば泣くのをこらえているようにも見えた。だが、そのはずはないと彼女は知っていた。ともあれ、この2人は離婚する。いや、したのだ、たった今。
 ――なんか実感わかないわよねえ。
 ――そうそう、あんなの出して終わりなんて。
 ――する前の準備の方がよっぽど大変よ。
 奈美の周囲の、経験ある女性たちはみな、そんなことを言っていた。誰かと一緒になるのは勢いで、深くは考えない。しかしそうでなくなるのはあれこれ考えた後だ。少なくとも、一緒になる理由よりも、離れる理由を探して、集めて、整えて、結論を出す方がよほど大変だったと。そしてそんな大変な仕事を終えたことに対するご褒美か何かのように、最後の届けを出すのは本当に簡単だった。これまでの苦労に比べたら、最早ないようなものなのだ。
「出しといてくれる?」
 だから、彼女は目の前にいるかつての夫に、そう頼んだ。そんなこと、何かのついでにするまでもないくらい、本当に軽いものごとだと思ったからだ。ここからわずか10分ほど歩いたところの役所まで出向き、少しだけ待ち、書類を提出すればよい。場合によってはその待ち時間もない。全く簡単なことだ。
「……は?」
 しかし、顔を上げた目の前の男は彼女の予想だにしない反応を見せた。まるで、自分には全く知見のない仕事を命じられた新入社員のような。
「書類、私はこれから仕事だから」
「いやでも……」
 雄大は困ったような顔のまま、奈美を見上げる。何か言いたげだ。言うなら言えと表情だけで彼女が促すも、彼は口ごもる。しかし、目線だけはそらさない。手をきっちりと太ももの上に揃えて、叱られるのを耐えている子供のように、しかし、生意気にもその不服従の意志はしっかりと持って、そのままでいれば自分のいいようになると考えて、彼はそうしている。
「はあ……」
 奈美は立ち上がった。かつてなら、彼女は付き合ったかもしれない。けれど今は違った。そういうことに付き合えなくなったから、この薄っぺらい紙に必要事項を記入することにしたのだ。彼女は背を向け、最後の1つになった旅行鞄――沈んだ青色のキャリーバッグで、雄大との新婚旅行の際に一緒に選んで買ったものだ――奈美はちらりと後ろを確認した。雄大は無言で、机の上の書類を睨みつけている。もう、こちらには目もくれていないようだ。多分、自分のことでいっぱいいっぱいになっているのだろう。
「…………」
 奈美はキャリーバッグを、音を立てて持ち上げた。この家の玄関には少しばかり段差があって、もう何年も前に買ったこれを壊さないようにしなければならないからだ。その音に関しても、雄大は知らんふりだった。わざと音を立てているということを察しているということはあり得ない。この家に置いてあった数多くの荷物と、それを持ち運ぶための鞄類の中から、このキャリーバッグが最後に選ばれたのだということにすら、気づいていないようなのだから。
 奈美は小さく、そして浅くため息をついて、本当に終わりにした。白く塗装された鉄扉は触れると冷たかった。それを開けると、築年の古いマンションらしく、さび付いた甲高い音が鳴る。その音にようやく、奈美が本当に出て行ってしまうことに気づいたかのように、雄大の近づいてくる気配が感じられた。
「聞きたいこと、あったんだ」
 彼が早口で言う。
「なに?」
 奈美はできるだけ平坦な声色になるように返事をした。ドアの取っ手からは手を離さなかった。初夏の朝8時過ぎの、ぬるい風が無邪気に部屋の中へと入っていく。目の前にある細い隙間からは、コンクリートでできた、外の渡り廊下が見えた。錆びた配管が、わずかな風にカタカタ揺れている。奈美は、自分達の会話が外に聞こえようがどうでもいいと思っていた。もうここには、どうせ帰ってこないのだから。
「その……今更、こんなこと言うのもなんだけど」
「うん」
「これ、手数料とかとられないよな?」
 奈美は思わず振り返った。音を立てて扉が閉まる。背中にひんやりとした感触を覚えながら、彼女は黙って彼の顔を眺めた。冗談を言っているわけではないようだった。また、今までのように、わざと彼女を困らせるために突拍子もないことを言いに来たわけでもなさそうだ。沈黙の中、雄大はまだ寝癖の残る頭をバツの悪そうにかいた。まずいことを聞いた、という顔ではない。これは金を無心する際にいつもする、遠慮げだが借りるのは当然だという自分勝手な態度によるものだった。

 桜が散ってしばらく、人通りのない住宅地の道路には、今は緑の匂いがあった。ざわざわと木々が揺れるたび、色濃く表された影がはしゃぐように揺れている。これから、季節は人間よりも他の植物や動物に対して優しくなっていく。恩恵を素直に受け取るそれらはいっそうすくすくと育ち、新たな命をう生み、そして大きくなっていく。
 奈美は市役所の方へと足を向け、時刻を確認した。フレックスを使えば書類を出している時間はあるだろう。その分、変えるのが遅くなり実家に預けている子供が心配だが。
 初夏の恩恵は、奈美にとって、すぐには関係がないようだった。結婚をして、少なくとも数年はそれを信じられただけでも良かったのだろうか。歩き出すと、路肩には意外なほどに緑が見えてくる。ふと思い出して見上げれば、自分が今出てきた部屋の窓は、わずかに青い気がした。部屋の中はまだ、あの色あせたラベンダー色が支配しているのだろう。最後の荷物と、書類は救出してきた。奈美もすぐにーー具体的には明日までには、その支配から逃れることができているだろう。

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