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新しく買った茶葉と、仕方がないと諦める心

 無気力などと言われるのは心外だ。それも大人から。若者よりよっぽど無気力なのは? まずは自分の心に聞いてみてほしい。ゲームも音楽も小説も、人生だって途中で放り出しかねないのはどっちなのだろう。辛うじて残っているのは仕事だけ。それすら危うくなっているのに。
 でも、そんなことを言って大人と対立するのは面倒くさい。ちょっとだって得にならない。なら、口答えするのはやめておこう。
 とにかく、心外だけど。

「ちょっと、お皿洗っといてって言ったじゃん」
 朝のクミの声は低い。多分、太陽と連動しているからだろう。けして俺が昨日の夜に、言われたことをなんにもやらないままだったことがバレたからではない。俺はいつの間にか、1人分のぬくもりがなくなっていたベッドから顔を出し、まだくっつきたがっている瞼を無理やり開けた。
「んあー、ごめん……」
 あくびをかみ殺す。時間は7時半だった。窓が開いていて、少し冷たくて、でも新鮮な空気が入ってくる。クミの化粧品のにおいがした。俺はベッドから出ると窓を閉めた。玄関で、出かける最後の支度をしているクミのところへ行く。スーツ姿のクミが、俺の気配に気づいてヒールを足にはめながら言う。
「私もう出るから、出かけるなら掃除とかもしておいてよ」
「わかったー、今日は俺用事ないから、家中ピカピカにしておく」
「はいはい……またティーポットとか衝動買いしないでよ。洗い物増えるんだから」
「あはは、ごめん」
「じゃ、行ってきます」
「行ってら――あ、ちょっと待って」
 少しだけこちらに顔を向けたクミの頭に手を伸ばす。寝癖が直っていなかった。髪をさっとなでると、艶のあるクミの髪の毛は、ひんやりとした感触を俺の手に残した。
「あ……ついてた? ありがと」
「ううん、お仕事頑張ってね」
「うん、いってきます」
「いってらっしゃい……!」
 クミは俺にあんまり弱みを見せたがらない。だから聞けてない。俺は帰って来たクミに紅茶を淹れてあげて、ぽつぽつと言い出すのを待つのだけれど。いつもより早く会社に行く理由も、昨日、泣きそうな顔で遅く帰って来た理由も、ベッドの中で抱き着いてきたまま、鼻をすんすんすすっていた理由も、紅茶が冷めてしまっても聞くことはできていなかった。

 扉が閉まると、俺は鍵をかけて、また寝室に戻った。掃除は午後からやればいい。まだベッドにはぬくもりが残っているはずだった。それをもう少し堪能してからでも遅くはない。俺は掛布団をめくって、そこに潜り込もうとして、ふわりと窓から、緩やかな風が吹いてくるのを感じた。
 閉め切れなかった隙間から、まるで外の陽気を紹介するかのように空気が流れてくる。ベランダの向こうは住宅街が広がって、クミのように、通勤や通学のために都市部へ向かう人々が大勢いた。
「みんな、元気だなあ……」
 部屋の中からそんな景色を眺めてみても、羨ましさなんかこれっぽっちもわかない。みんな、外に何を求めに行くのだろう。それとも、そんな目的もないのだろうか。当たり前だからそうしてるだけ。食器洗いすら面倒に思う自分にとって、そんな理由で動き出せるのは、それだけで奇跡に近いくらいすごいことのように思えた。
「……喉乾いた……」
 窓越しにでも日光を浴びたからか、目も覚めてきていた。太陽は恐いと思った。みんな、そんなふうにして本当は出たくもない外に出かけさせられているのだろう。俺はベッドをそのままの形で保存することにして、アイスティーでも飲もうと台所へ向かう。

 シンクには水につけたままの食器があった。昨日は俺もクミもコンビニのお弁当で済ませたから、これは一昨日のだ。指だったらしわしわになっている。可哀そうに思って、洗うことにした。まず、給湯器のスイッチを入れて、お湯を出す。こうしないと汚れが落ちないのだと、クミが言っていた。シンク横のフックに、食器洗い用のゴム手袋がある。俺はいつもそれを無視して、素手のまま食器を洗う。クミは手荒れを気にして、必ず手袋をしていた。使っていいと言われているけど、俺が一緒の手袋を使う回数分、クミが使う回数が減る気がして触りたくなかった。それに、自分専用のものを出して使うほどには、俺は手荒れは気にしていなかった。温かいお湯が泡を洗い流していく。
 目には見えないけれど、多分、一緒に汚れも菌も流されていっているのだろう。ずっと洗えないままだった食器を全て洗い終えてしまうと、少し、すっきりした。お湯のおかげで、熱いお茶を飲んだ後みたいに、手がすごく暖かくなっていた。

 お昼ごろまでゲームをして過ごしていた俺は、結局、2度寝もせずに散歩に出かけることにした。太陽は高い。暑くはないけれど、ずっと日光に当たっていたいかと言われればそうでもなかった。俺は何か忘れているような気がして近くの川を眺めたり、駅前を通り過ぎたり、とにかくぶらぶらとしていた。ベンチに座って景色を見ていると、散歩中のボーダーコリーが通りがかった。俺と同じようにあちこちを歩いてきた後なのか、舌を出して荒い呼吸を繰り返し、多分、今日の天気はコリーにとっては暑いのだということがうかがえた。それでもまだまだ歩き足りないようで、クミと同じくらいの年齢の女の子をぐいぐい引っ張って、住宅街の方へと消えていった。
「……そうだ、喉乾いてたんだった」
 俺は起きてから今まで、結局何も口にしていないことに気づいた。食器洗いやゲームや散歩中にクミに飲ませてあげたい紅茶を物色に行ったり、単純に景色を見ることに夢中になって。それに気づくと、じわじわと吸い取られていくように、喉の水分が減っていくのを感じた。
 コリーの歩いていった方向に自動販売機が見えた。それはこういうところにある自動販売機にしては珍しく真新しかった。お茶か水がいいと思って手を伸ばしかけたが、甘いものが欲しくなった。甘くて、すっきりするものがいいとアイスティーを探す。よくある有名メーカーのやつだ。けれど、三段ある飲み物のラインナップを端から端まで眺めて、そこにアイスティーはなく、ジュースとアイスコーヒー、それからコーンスープとエナジードリンクしかないことを知った。
 太陽は容赦なく俺の背中に熱を押し付けてくる。立ち尽くしていても、自動販売機が気を使ってアイスティーを出してくれるわけではないのはわかっていた。コーヒーばかりが目立つ自販機は、じっとして俺がコンビニに向かうのを待っているようだった。アイス4種類にホットが3種類。季節の変わり目の今は、色んな味があったほうがいいのだろう。クミが言っていたことを思い出す。ペットボトルのアイスティーはジュースだと。だからコーヒーとは違って、ジュースの枠に数えられてしまう。そしてお茶と言えば緑茶か麦茶だから、そこにもアイスティーの入る隙間はない。そういう意味で、アイスティーはお茶でもジュースでもなく、中途半端だ。

 夜になってもお腹が空かないまま、俺はクミの家でゲームをしたり、言った通り掃除をしたり、動画を見たりしていた。毎日のように色々な動画がアップロードされる。みんな楽しそうだ。技術がなくとも、熱意とセンスがそこにあるような気がした。ネットに太陽はないのに、どうしてみんなそんなにアクティブになれるのだろう。番組を作りたくて就職したテレビ局を1年もたたずに辞めた自分には、動画投稿者のモチベーションは、わかるはずもなかった。
「……遅いなあ、クミ」
 俺はスマホの光から顔を上げて、クミを迎えに行くことにした。別に寂しくなったわけでも、ちゃんと掃除をしたことを自慢げに報告しに行くつもりもなかった。ただ、辛そうなクミが何も言わないまま、俺を家に置いていてくれることに、お礼がしたくなった。俺は散歩中に買った紅茶を持って、別に外で飲めるわけもないのに、靴を履き替えて、クミの職場へと向かった。

 夜の街は昼間とは違う明るさを持っていて、かえって、今の俺には眩しく思えた。仕事帰りのビジネスマンが電話片手に早足なのと、カップルらしき大人たちが、黒い道をそれぞれの場所に向かって歩いている。遠くには街明かりの海が見え、そこから暗闇にのってやってくる大人たちも、そこへと吸い込まれていく大人たちも、皆、仕事終わりだと言うのに楽しげだった。家に帰ってくるクミとは大違いだ。
「あ……クミ」
 俺がクミの会社の前に着いたのと、クミが会社から出てきたのは同時だった。空に突き刺さるようなビルの明かりはほとんど消えていて、まるで黒い1本の木のようだ。その根元、ガラス張りのエントランスから2人の人影が、闇夜に吸い寄せられるかのように出てくる。1人はクミと、もう1人は知らない男だった。
 俺は、声をかけようとして挙げた手をとっさに下ろした。手近な植木の陰に隠れる。クミとその男性は談笑していて、ここ最近、俺はそんなクミの表情を見たことがなかった。
 正直、そういうこともあるだろうとは思っていた。けれど、今日ではないと思っていた。俺はまだ、話しかけるかどうか迷っていた。クミたちは街明かりの海を背にして、手近な地下鉄の駅の方へ向かうようだった。俺の隠れているすぐ横を2人が通り過ぎる。
 夜の街のにおいにまじって、クミの匂いが鼻先をかすめた。買ってきた紅茶のにおいは、もうわからなくなっていた。

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