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死と食事と聞きそびれた長い話

「彼、話長いじゃない、やっぱり」
「仙遇がですか?」
 三井はナポリタンを口元に運びかけていた手を止め、まるで親しい者の死の報せを聞かされたかのような顔を見せた。テーブルの向かいで頷く坂野は、ちょうど最後の骨を、定食の焼き鯖から抜き取ったところだった。
「そうよ。彼と会うといっつも2時間くらい飲んじゃうもの」
「はあ……酒好きなだけでしょう、2人とも」
「そんな冷たい目しないでよ。本当なんだってば」
 板野が猫なで声を出す。色香を含んだ艶のある目線が、三井を捉えるが、彼はそれを無視してナポリタンの続きを頬張る。板野も、自分の十八番が通用しないことを気にせず、食事を再開した。あと1時間ほどで次の葬儀がある。それまでに、2人は腹ごしらえを済ませて準備に取り掛からねばならない。この店はお世辞にも繁盛しているとは言い難いちょっとした喫茶店だったが、『板野葬儀店』から徒歩2分にある唯一の飲食店のため、忙しい今のような時期には重宝していた。弁当やコンビニ飯では食事をした気になれないというのが、板野の言い分だった。一緒に働き始めた当初は、三井には何を言っているのかわからなかったが、3年勤めた今では、その言葉に反論する気は起きなかった。
「ーーケチャップ口につけてどうしたのよ、仕事辛くなった?」
 板野の言葉に、三井は慌てて、おしぼりを口元に当てた。
「……暖かいメシっていいなと思いまして」
「当然でしょ。普段から冷たい死体ばっか見てんのよ。食事くらい暖かいの食べなきゃ」
 冗談めかして三井は、魚の身を少しずつほぐして口に運ぶ。茶色に染めた髪がたれて食事の邪魔をするのを、板野は自然な仕草で耳にかけた。それもまた女性らしい、色香の感じられる女性らしい仕草だったが、三井はこの眼の前の人間がもともと男性だったことを知っている。
「あ、それでね、仙遇くんが言うには今度3人で飲みに行きたいらしいんだけど」
「今度って……向こう3ヶ月位、暇ありませんよ」
「いやわかってるんだけどね。だから暇になった時って話。結構、あなたの話聞きたがってたわよ、彼」
 仙遇という男は板野と昔から付き合いのある男で、三井よりは4歳ほど年下だ。花屋を営んでおり、贈答用の花束や花輪、イベント用の花の大量受注など、主に法人向けに仕事をしている。三井も仕事で何度か会ったことはあり、そのたびに地酒を土産にしてくるのと、板野がこうやって話題にするその内容から、相当の酒好きだというのは知っていた。けれど毎回、二言三言話すくらいだから、そんなに話が長い男だとは思ってはいなかった。
「いや?」
「いいですけど、あんま酒は飲まないですよ」
「やった! じゃあ連絡しとくから。なんなら向こうの都合に合わせて、ウチ休業にしちゃうのもありかも」
 そんなとんでもないことを言う板野をたしなめつつ、三井は、今度仙遇と会う時のために、もらった酒類の感想でも改めて考えておこうと思いつつ、皿の上に散らばったナポリタンをフォークでかき集めた。

 葬儀は厳かに進む。
 参列する黒い人々はにこりともぴくりともせず、低く唸るような念仏の声を、俯いたままの頭越しに聞いている。
 三井は、そんな葬儀の行われている大広間の隣、関係者室の椅子に座っていた。向かいには板野が、普段の溌剌とした雰囲気とは打って変わって、かろうじて椅子に寄りかかっていた。全身の骨を抜かれたように座るそのさまを、確かに三井は気の毒に思う。しかし、今回のようなことは、彼がここで働いてきた3年間の間にも何度もあって、歴の長い板野からすれば日常茶飯事であるはずだった。
「板野さん、飯の時間ですよ」
「……いい」
「いや、食べるって決まりでしょう」
「いらない。水飲む」
「……わかりました」
 三井はせめて、白湯を出すことにした。それから、ちょっとしたつまみ程度のものを、レンジで温める。この葬儀がいよいよとなった先週あたりから、板野はほとんど食べ物を口にしていない。腹は減っているはずだから、何か出せば食べるだろうと三井は思った。
 レンジの音が、関係者室に響く。三井はその音に、思わず隣の葬儀場の方を見た。流石にこれが隣に聞こえることはないが、粛々と行われる葬儀を尻目に電子レンジをつけるというのは、参加者ーー特に遺族に知れたら叱られるようで気後れした。
「あなた、よく平気だったわね」
 レンジに負けそうな声で、板野が言う。三井はその憔悴した表情を見つめた。嫌味……というよりは、本当に感心しているのかもしれない言い方だと感じた。
「……死体を見るのは慣れてたんで」
 今回の葬儀は、とある交通事故の被害者のものだった。三井はその第一発見者であり、通報者だった。彼はすぐ近くの横断歩道を渡っていて、大きな音に振り返ると、凄惨な事故現場がそこに広がっていた。
 その時、三井は何かを感じ取ったわけではなかったが、引き寄せられるようにその事故現場へ近づいた。大破した乗用車と、巻き込まれたらしいトラックや、ひしゃげたガードレールがあった。被害者は1人の男性のようで、機械部品や鉄くずが道路に散らばる中、点々と鮮やかな赤色が、とても印象深かった。
 その赤色をたどるように現場の中心部へ足を踏み入れると、生臭さと赤色が一層濃くなったその真ん中に被害者はいた。
「……仙遇……」
 見間違えとは、不思議と思わなかった。追突されたあと、何度か車道をはねたのだろう。その身体の原型は見るに耐えなかった。しかし、妙に顔だけがきれいに残っていて、その半開きの黒い目は、うつろに、周囲に散らばった様々な破片を写していた。
「……」
 不謹慎かもしれない。けれど、三井がその仙遇を見た時、最初に頭をよぎったのは、結局、彼の「長い話」とやらを聞くことができなかった、ということだった。ただただ、三井は地面に転がる彼の死体を見下ろしていた。誰かの死体を、葬儀以外で見るのはこれが2度目だ。最初は、首をくくり自殺した自分の母親だった。それも無残なものだった。小学生の頃、友達と夕方まで遊んだ帰り道は、様々な家の夕食の匂いで溢れていた。カレーや焼き魚や、ご飯の炊ける匂い。お腹が空く。
 しかし、自分の家の扉を開けた途端に鼻を突いたのは、夕食とは似ても似つかない、死と、汚物のにおいだった。

 三井は無言のまま、事故を通報した。耳に電話を当てながら、目の前の血みどろを見る。自分の記憶にある親の死に目と比べても、仙遇の死に際は驚きにも悲しみにも値しない、単なる無だったと思っていた。
 だらりと空いた仙遇の口から舌が伸びている。短い。まるで下唇に付着した紅生姜のようなそれを見るに、仙遇が話の長いタイプだとは到底思えなかった。それは、舌が短いと上手く喋れないということを聞いたことがあるからだった。舌の奥、口の中はもちろん何も見えずに、ただただ黒い穴が広がっている。じっと見ていると吸い込まれそうだった。
 周囲に野次馬が集まってくる音を三井は背中で聞きながら、やがて近づいてくるサイレンの音を耳にして、三井は顔を上げた。
 きっと板野は相当に悲しむだろうと、彼はこの時から思っていた。しかし、それは防ぐことはできない。仙遇は死んでしまったからだ。そうなってしまえば、その話に長いも短いもない。
 無となった知り合いの死体を目の前にして、彼は、これほどまでに濃い死に触れたあとは、さぞ暖かいものを食べなければ、この世に戻ってこられない気がしていた。

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