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世界では布団が禁止になっていた。

 朝は眠い。
 まどろみの中から何者かに引っ張り上げられる感覚がする。私は夢の中で赤子になっていた。今は亡き母の子守歌を聞きながら、暖かい布団の中で、ただひたすらに安眠を貪るのである。
 それは至福だった。
 昔ながらの家屋の中で母と2人、なんの憂いもなく柔らかな居心地に抱かれることが、ではない。
 布団だ。
 赤子の私の矮小な手でも握りしめることができ、そしてそれは暖かな弾力を返し、まるでこの手の中に収まっていることが母の腹にいたときから決まっていたかのように、収まりが良い。
 そうだ、”布団”は何よりも大切だったのだ。人類にとって、私にとって、それは人生になくてはならないものだった。その確信とともに、母の子守歌は消えた。私は成人しており、独り、部屋にいる。ぼんやりと視界がひらけてきて、見慣れた空間が広がっていた。目が覚めたことに気づくのに、少し時間がかかった。
「今、何時だ……?」
 時計を見る。仕事の時間まではまだまだあった。辺りが薄暗く、朝方だと思われた。目覚めの悪い私に珍しく、今日はやたら早起きだと思った。15分おきにセットしておいたアラームを全てリセットし、ベッドから起き上がる。そして、枕カバーとベッドシーツをひきはがし、眠たい目をこすりながら洗面所へと持っていった。洗濯機に放り込む。布ものは毎日洗わないと気がすまないのだ。いつもはもう少し遅い時間(といっても朝、出勤する前だが)に洗濯機のスイッチを入れるのだが、今日はもう洗ってしまうことにした。
「洗濯開始」
「基本コースでよろしいですか?」
「それで」
「はい、スタートします」
 私は自動水栓から出てくる温水で顔を洗いながら、洗濯機に指示を飛ばす。便利な世の中になったものと思う。何もかもが自動だ。扉の開閉も、水道が流れるのも、ガスが点くのも、電気の点灯も、各種の家電を操作するのも。とはいえ、私の家の洗濯機はやや旧式だ。音声認識はついているものの、最近流行りの数百種に及ぶ洗濯コースはなく、せいぜい数十種だ。顔も自分の手で洗わねばならず、この頃取り沙汰されている「朝の身支度が立っているだけでできる洗面台」なるものではない。風呂場やキッチンも、それなりに自分で動いたり指示したりせねばならず、そういう意味では、まだまだ手動の名残を残す、今の時代からは少し遅れた昔の家、というところだった。
「住み替えるにも金がないしな……」
 IT機器の営業――そんな、平均的な賃金労働者である私にとって、今の生活を維持するだけでも、そう余裕があるとは言えなかった。老後のことや、万が一の医療費のことも考えなければならないこの国では、おいそれと高い買い物をすることなどできない。この賃貸も、知り合いのつてで少し安価に借りられており、そうでもなければ旧式の家電ばかりとはいえ、このような現代的な生活を送れたりはしていないだろう。
 加えて、私には長年、買おうと決めている非常に高価な代物があった。そのためにはまだまだお金が足りない。余計なものを買っている場合ではなかった。
 私は身だしなみを整えて、少し、外に出ることにした。時刻を確認する。大丈夫そうだ。ちょうど、警察が見回りをしている時間は終わり、市民が出歩いても良い時間帯になっていた。こんなことで、マイナンバーポイントを減算されるのはごめんだ。

 街に、人の姿は殆どなかった。当然だろう。厚い雲に覆われた空は太陽光をわずかばかり地上に降らし、無機質な白い塔ばかりの街並みは、まるで歩く人をわざと迷わせるかのように変わり映えがしない。私は稼働時間外の動く歩道をのんびり歩いていた。霧の立ち込めたような白い景色の中にコンビニの灯りが見えたので、あてはないが物見遊山のつもりで立ち寄ることにした。
「すみません」
 だが、後ろから声をかけられた。私以外にも、今の時間の街を歩く人間がいるのかと驚く。振り返れば、スーツの初老男性がほっとしたような顔で立っている。スーツは何年も着続けたようによれており、そもそも、サイズが大きめでまるで肩に羽織るかのようにして身につけている。
「なんでしょう」
「その……このあたりの人ですか?」
「まあ、そうですが」
 私はこの街に住み始めて数年といったところだが、多分、この男性は道案内を求めているのだろうから、その役割を果たすのには充分だと思い、頷いた。
「良かった、じゃあこのお店を探しておりまして――」
 男性は胸ポケットからタブレットを取り出して示そうとする。
「開いてないと思いますよ、今はまだ時間早いですし」
 私は割り込むように言った。どうやら男性は、この街の制度をわかっていないようだった。毎朝、10時から22時までが営業時間。それ以外は営業禁止であり、1度でも破れば罰金とともに営業停止処分を受ける。特別な許可を得た一部の店、例えばコンビニのようなところしか、この時間に営業していることはまずない。
「ええ、でも場所だけは知っておきたくて」
改めて、男性が示した地図を見る。シンプルな、点と線だけで描かれた図形がそこにはあった。意識せず見れば、それが地図とはわからないくらい、余計な情報のない地図だった。それはここからほど近くの、やや入り組んだところにある店を示していた。
「ちょっと口で説明しにくいので、案内しますよ」
「いいんですか?」
「ちょうど、帰り道ですし」
「ありがとうございます」
 私はコンビニを冷やかす予定を変更して、この男性の案内を引き受けることにした。実際、口で説明することも、道案内データをタブレットに転送することも可能だったが、あえてそれをしなかった。
 あまりにもシンプルすぎる地図を見て、この男性が訪れたい店がどのようなものなのか、ということが気になったのである。そういうのは、直接目で見て確かめるのが1番だと思った。なんでも自動化できる時代に、直接見聞きすることの重要性は高まっている。もしその店が、私の住む家のようにさらなるIT化の余地があるのなら、営業成績の足しにもなるかもしれない。

 私と男性は住宅街を抜けて、商店街の方へ出た。もちろん、ひとけは殆どなかった。前を通り過ぎた自動販売機が喋る。そのたび、男性は警戒したような視線を、そちらへ向ける。
「お仕事は在宅で?」
 私は何気なく聞いた。男性は頷き、とあるメーカーの開発部だと答えた。日用品を作っているために、家でのテストが業務の殆どなのだと言う。
「何を作っているんでしょう」
「それは……」
 男性は言いあぐねた。在宅ワークの基本となった現代では、家庭で使う家具家電、機器などの会社はライバルも多い。あまり言いそれと話せることではないのかもと思い、私は謝った。
「いえ、こちらこそすみません。あまり好かれるような仕事ではないもので」
 男性は恥ずかしそうに頬をかいた。そしてちょうど、目の前にある建物を見上げて、「ここですか」と聞いてくる。
「あ、そうみたいです。よくわかりましたね……」
「いえその……ありがとうございます。わざわざお付き合いいただいて」
 歯切れ悪く、男性は礼を言った。私は頭を下げ返すと、目の前の店を見た。
「寝具店……?」
「申し訳ありません、黙っていて……この店は今、認可を進めている新しい店舗でして」
 そう言いながら、男性は名刺を差し出した。寝具メーカーの本部長と書かれている。
「寝具……布団を売るんですか? ここで?」
「はい、1ヶ月後には行政の許認可も降りる予定です。この街の方々にも、我社の布団を使っていただきたくて」
 男性は笑顔で答えた。
 私は力が抜けそうになるのをこらえた。その途端、嬉しさがこみ上げてくるのを感じた。
「値段は……いくらなんですか? 布団禁止法が制定されて以来、布団の価格はどんどん上がって、宝石よりも、家よりも高価になってしまいました」
 15年前、人間の堕落が進むとして”布団”が危険視されるようになった。IT化の進展とともに経済発展が人権よりも重視される時代に突入していた中で、「布団禁止論」はどんどん過激化し、それは禁止法にまで発展した。
 そうして、世界から布団は消えた。それは一部の資産家や、裏ルートに繋がりのあるもの、あるいは非常に高価な「国制品」が存在するのみとなった。
「私どもは長年、国の以来を受けて、布団を作り続けてきました。その信頼とノウハウを使い、国制の布団を安価でおろすことを許可いただいたのです」
 男性の言葉を、私はゲームにかじりつく子供のように聞いていた。布団だ。あんなに求めていた布団を私は手にできる。その事実に叫びだしそうだった。布団を悪とするこのおかしな時代がようやく終わるのだ。だれでも布団を変える。それが当たり前になる。
「絶対、絶対買います……! 頑張ってください!」
「はい、そのときはどうぞよろしくお願いいたします」

 男性は開店予定の店舗に入っていった。私はその背中を見送ると、ウキウキした気持ちのまま、朝の歩道を家に向かって歩き始めた。1ヶ月後、私は洗濯機に枕カバーとシーツだけでなく、掛け布団を放り込むことができるようになる。そのことを考えると、朝の乾燥した冷たい空気も甘く気持ちの良い花の香りのように思われた。
 私は布団のために貯めてきた貯金の使いみちを考える。取り急ぎ、コンビニに寄って何か美味いものでも買おうかと、足の進む方向を変えた。

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