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寒空の下の散歩。傍らの愛犬の存在

 人は共同体を作る。それは本能だ。人がいつ生まれ、そしていつ滅ぶのかはわからないが、ただ1つはっきりしていることは、私たちの生と死の間には必ず他人とのかかわりがあるということである。

 弟の水樹が失踪したことを深刻に受け止めているのは、家族の中では俺と、犬のワンド――大型で真っ白の、温和なオスだ――だけのようだった。呆然と玄関先で立ち尽くす俺の隣に、ワンドが寄り添うように座っている。
 土曜日の朝はいい天気で、冬も近く肌寒いものの、紛れもなく洗濯日和、そんな日だった。日差しと、大型犬であるワンドの体温のおかげでいくらか体感はマシだったものの、何かを失ったあとの心を通り抜ける隙間風は、俺には何よりこたえる気がした。

 昨日は遅くまで残業をしていたせいで、朝、起きるのが遅くなった。窓から差し込む、ここ最近で一番強い朝日の攻撃にたえるため、ベッドの中でうずくまる俺を起こしたのは妻で、側にはワンドも一緒だった。
「ねえ、洗濯物が変なんだけど……」
「なに?」
「洗濯物。水樹くんのがないみたいなの」
「水樹の……?」
 起き上がると、ワンドが一声吠えて、俺に覆いかぶさろうとしてくる。慌てて押しのけるが、尻尾が季節外れの扇風機のように回っていた。大方、散歩がまだなのだろう。休日は娘たちの役割のはずだが、忘れているのか、やる気がないのか……。
「水樹は部屋か?」
「わからない。呼んでも返事しないのよ。朝ごはんは食べてたみたいだけど」
「今日、バイトの日だったかな」
 俺は寝間着を着替えながら、このままでは洗濯ができないと嘆く妻をなぐさめる。ワンドがまた、一声吠えた。その頭をなでてやると、嬉しそうに舐めて返してくる。手を洗うついでに洗面所へ向かうと、ぽっかりと口を開けたままの洗濯機が俺を出迎えた。
「うーん……せっかく天気もいいし、さっさと洗っちまおうか」
「いいの?」
「そんな顔色うかがうことないよ。些細なことで怒るやつでもないし」
「そうね、わかった」
 妻はほっとしたような表情で、洗濯機を操作し始める。昔から妻は心配性で、こうした日常生活だけでなく、旅行や子供や、仕事の相談などをしてくるときも俺としては「どうしてそんなことで」ということを気にしていることが多い。
 人間とはそうやって、どうしても感じ方の違いがあるものだ。それは大抵の場合埋まることのない溝となって俺たちの間に横たわっている。けれど俺と妻は、家族だった。洗濯物を始めることができた妻は、ついでに水回りの掃除を始めようとしている。俺にとって、まだきれいでそんな必要はないと思うものの、妻にとっては違うようだ。そんな彼女の姿を眺めながら、こうして様々なことが違うことこそ、人々が一緒になっている理由なのではないかと思う。
 妻の邪魔にならないようリビングの方へ行くと、ワンドがついてきて、俺の方を窺うように見上げている。
「……お前も家族だよ、もちろん」
 その言葉がわかったかのようにワンドが鳴く。いや、単に早く散歩に連れて行ってほしいだけなのかもしれない。鳴き声に気づいた長女が、ソファに座ったまま振り返った。「忘れていた」という顔をしている。俺は首を振って、自分が散歩に連れていくつもりだがどうする、と聞いた。
「今日は、ちょっと……期末テストの勉強会があるから」
「わかった。ただ、来週は頼むな。父さん、休日出勤だから」
「それは平気。ドッグラン予約してるし」
「あー、そうだっけ」
「ネミちゃんにも会えるんだよ」
 ワンドが鼻を鳴らした。「ネミ」というのは、仲良しのメスの小型犬だ。品種は詳しくないのでわからないが、大型犬のワンドとはおよそ釣り合わないような気もする。けれど、ワンドはその名を聞いただけで恋しさを募らせたようだ。
「なるほどな。じゃあ今日は行ってくる」
「お願いします」
 準備のために部屋に戻るついでに、妻にも散歩に行ってくることを伝え、さりげなく弟の部屋の様子も見てみる。確かにそこはからっぽで、人の気配はなく、生活感もほとんど消えていた。家具などは机や椅子、ベッドのフレームくらいは残してあるものの、他のものはなくなっていた。きっと、弟が自身で買ったものは持って出て行ったのだろう。クローゼットの中にも洋服はほとんどなく、残っているのは、俺が着れなくなったものをお下がりにしたものばかり。
 それらは恐らく、着られることがないままだったのだろう。肩身の狭い標本のように、クローゼットの隅の方に引っ掛かっているだけだった。
 弟はかなり几帳面で、この家でも極力どこかを汚したりとか、誰かの邪魔をしたりとかいうことはなく、存在感が薄い。長女よりは年上だがまだ学生で、バイトを掛け持ちしていることもあって、家にあまりいないのも、そのことに拍車をかけていた。
「洗濯物か……あいつ、とうとう一緒に洗濯されるのもイヤになったか?」
 部屋を見まわしていると、1枚の紙が窓際に置かれているのを見つけた。折りたたまれていて、俺に宛てた手紙のようだった。読んでみるとそれは水樹からで、突然出ていくことになって申し訳ないという謝罪と、いつかまとまった時間に話がしたいと連絡先が書かれているくらいだった。
 その手紙を読み終えたのと同時くらいに、長女が入り口から顔をのぞかせたので、俺は手紙をポケットにしまった。
「あ、水樹さんいないよ、多分、昨日の夜から」
「……どこ行ったかわかるか?」
「ん-、知らない。家から出てくのかな」
「そうかもな。あいつ、金は結構溜まったって言ってたし」
「そっか……」
 長女はなんとも言えない表情を浮かべ、ワンドをひとなでしてから部屋へと戻って行った。恐らく、そろそろ勉強会とやらへ行くつもりなのだろう。弟がこの家にいる間、そんなに仲良くしている様子はなかったが(そもそも、弟があまり家族と会話したがらなかった)、そうだとしても、いなくなる人間に対して少しばかり淡白な反応だと思った。
 俺はインナーを何枚か着こんだフリースに着替えてワンドの赤いリードを首輪に繋げ、スニーカーを履いて玄関の扉を開けた。

 家の外で立ち尽くしながら……そうだ、俺は水樹が家からいなくなることを、深刻にとらえていたのだと思った。相談はなかったが、それはいつものことだ。この家にしばらく泊めてほしいと言ったときも、1年経って、もう1年住まわせてほしいと言ったときも、事前に相談はなかった。けれど、弟の中では出ていくまでの計画はきちんと立っていたのだと思う。そういうやつだ。俺達家族とあまり会話したがらないのも、洗濯物を一緒に洗うことを説得するだけで半年かかったのも、それは結局、出ていくことを見据えた行動だったのだ。
 ワンドが不思議そうに俺を見た。多分、後日、電話か何かで新居の連絡くらいはよこすだろう。手紙は自分の部屋の、机の引き出しにしまっておいた。自分でも良くわからない意地で、多分、こちらから連絡することはないと思う。そう思っても、俺にはまたいつか、相談もなしに、弟が「泊めてほしい」と言ってくるときがくるような気がしていた。けして望んでいるわけではないが、それでも、幼少期に母と父を失い、2人だけで人生を歩んできた唯一の弟なのだ。勝手に、俺は弟の手綱を握っている気がしていたが、それは間違いだったのだと、こうも突然突き付けられては、心の整理ができないのも当然だろう。
「――行くか」
 ワン、と元気の良い鳴き声に突き動かされるように、俺は寒空の下、犬の散歩を始めることにした。歩く間、ワンドは片時も俺の側を離れない。その温かく大きな存在感が、今の俺にはとてもありがたいと思った。

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