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その人は何が好きかって知ってる?

 個性ってのは何なのだろうね。
 先月、義母を見送るための一連の打ち合わせや儀式をしながら、義母を知らないと改めて思った。
 どんなこと言われたとか、あんなことされて困ったとか、そんなことが多く思い出され、どんな人だったのかがわからない。何かの拍子に急に義母との風景を思い出して感傷的になる。でもそこから義母の人柄へはなかなかたどりつけない。
 夫はどう感じているのだろう。胸にせまるような思い出が押しよせてこないのか、押しよせてこないようにしているのか、義母に似たのかドライ。そして夫のそういうところが私は嫌いじゃあない。

 幼少期はもっと自分だけの表現をしなさいと、幼稚園や学校で何度も促された。ニュージャージーで暮らしていた頃は、人とちがう表現をできる子が先生にほめられて、何かを真似するとクラスメイトにバカにされた。
 帰国して日本の小学校に入学すると、真逆の世界。その頃から自分を表現してはいけないという意識を強く持った。
 さらに別の小学校に入学すると、イジメにも遭い、できるだけ目立ちたくなくなってそれまでの自分をとにかく否定して押し殺すように暮らした。
 中学生から受験で合格した私立に通い、だいぶ伸び伸びできるようになったけど、自分の意見の出し方がよくわからなくなってしまっていた。良い塩梅が難しい。
 母方の祖父母と一緒に暮らすようになると、思春期に入っていた私は、両親がそれまでの父や母と少し違うと感じるようになった。私は家でも自分の個性を殺して暮らすようにした。
 大学の卒業論文では、家族の中の個人の存在と個性について書いた。でも先生からの鋭い質問に答えられず、「アナタはまだ個人と個性の言葉が自分の中で混ぜこぜになっていて整理できていない」と言われた。
 ああそうかもしれない。と考え続けて約30年。最近、ようやく少しわかってきたように感じている。
 ずいぶん年月かかったけど、さて個性とは何ですかと聞かれるととても漠然としたものしか思い浮かばない。

 その人らしさって?
 「らしさ」があると、それに縛られてしまうから、本人は「自分らしい」を決めつけて守る必要はないよね。「らしい」は、周りが勝手に思う枠なのかもしれない。

 人それぞれ生まれもった気質があるのは、自分や周りの子供を見てわかる。生まれて育つ過程で大人がどんな葛藤をしても、本人が努力しても変えられない部分。自分にも思い当たる。隠す技術は少し身に付けても、ストレスに感じる部分は変わらないのよね。
 環境によって形成される性格もあるけど、それだけを見て「その人の個性」とは言いにくい。

 気質的なもの。育った環境。今その人を取り巻く環境。それらから形成されてきた考え方。変わっていくもの。変わらないクセ。体質。頭の中に在ることの中から何を選んでどう表現するか。発する言葉。表情。態度。その人の持つ全体的な雰囲気。全部を含めて個性と呼ぶのだろう。

 「〇〇さんはどんな方でしたか?」
 お坊さんが、義母の戒名を考えるために、義母について聞いてくる。

 皆で考えこんでしまった。
 長く一緒に暮らした義弟でさえ腕組みしてうなっている。
 あまりに出てこないから、その重苦しい空気を打開しようと「優しかった」と無難なことを夫が言おうとするも、義弟が「優しいなんて印象はない」「負けず嫌いで頑固だった」と笑う。

 えええ……。
 皆で話しながら笑い合った。

 私も一生懸命会話を思い起こす。
 珍しく会話が盛り上がったーと言って良いのか、私は聞き役だったけど、楽しかったのは、焼き物やお茶についての話をした時だった。でもその後も、それについて話したことがない。義母はそれらについての知識があっただけで、それを長く楽しんでいる感じではなかった。
 義母にとってどんな時間が楽しかったのだろう。
 会話をしたり互いを知ったりを楽しんでいるようにも見えなかった。
 たとえばいつもの電話。どんな様子かと聞いてはくるけど、聞いたそばから「大丈夫ですね」「元気にしてますね」と言い、聴いてくれている感覚はなかった。言葉尻をとらえては怒ったり、気に入らないという態度を取ったり。もう何をどう話したら良いのかわからなくてただ聴くだけ。

 でも義母は自由に暮らしていた。周りの人の暮らし方にも無頓着だったから、振り回されて大変だった時もあるけど口出しされなかった分、私はラクだったのかもな。人柄が冷たいわけでもなかったし。

 その人の気質や性格は、相対している側それぞれの性格や受け取り方、その人との関係性にも左右されるのだろう。
 「皆が皆、その人についてこう思う」と共通する部分はあるだろうけれど。その人自身はそんなつもりなかったりして、周りの人から見た性格って周りからの印象そのもの。

 そんな風に思いめぐらしていると、その人の好きな物事も、個性を語る上で大切なんじゃないかって。好きな物事となると、人によって印象が変わるものではないだろうし。

 では義母の好きな物って何だったのだろう。義母自身が子供たちや孫たちの好きな物、好きなことを全然知ろうとしなかった。
 義母から何かにじみ出るものはなかったか。

 再び考えこむ。
 絵が好きだったのは夫が言っていて、美術館にもよく出かけていたと言う。そう言えば何通か絵手紙くれたことがあった。でも私の中ではその程度の印象で、それについて話してくれたことは一度だけ。上手くなくて恥ずかしいと言っていた。

 他に何かなかっただろうか。インテリアなど持っている物で共通している部分などなかったか記憶をたぐりよせる。
 でもどうしてもわからない。合理的な人だったので、何を持っていても、本当に好んでそれを選んでいたかどうか。持ち物への共通項もつかめない。思い浮かべた時に帽子の印象はある。ただ特別オシャレなものとか好みの傾向があるわけじゃなかった。
 食べ物もよくわからない。料理自体も好きそうには見えなかった。ただ作るとなると、隠し味とかタレのブランドとかにこだわりがあった。
 「みかんがすごく好き」だけは皆の共通する認識。義弟にしても息子にしても、ちょっとびっくりするほどみかんを食べるので、そこは似たのかもねなんて話す。
 話の途中で、札幌有名店のお菓子を何となく見ていて、「あっ。このお菓子の名前、よく言っていた!」と思い出した。皆でそのお菓子にすがるように「これにしようこれにしよう」とお供えすることにした。

 で、もう出てこない。
 誰も出てこない。

 さびしいって強く思った。

 知ってどうってわけじゃないけどさ。何となく知っておきたかった。私も聞かれなかった。多分義母はそうやって互いを知り合おうとする人ではなかったのだろう。
 聞ける関係じゃなかったけど、私は知りたかったな。

 誰かを知るために、その人の好きについて聞きたい。
 そして自分についても、ちゃんと話しておこうと今回のことで思った。
 話してどうってわけじゃないけどさ。「あの人って、〇〇が好きだよね」って認識されるのってもしかしたら幸せかもしれない。その後も記憶に残るってことが。

 好きなこと、物について話すのってその人を知る手段の一つ。お互いに楽しいってだけじゃあない。「何が好き」って大事な個性の一部なんだ。だからおおいに話そう。みんなも気楽にどんどん伝えたら良いって思う。



読んでいただいて、ありがとうございます! 心に残る記事をまた書きたいです。