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火を灯すなら、光が見えて影も出る

ここのところ、あんまりまとまった暇が無かったからか、どこか垂れ流しのような感じで、ざーーーっと過ぎていく日々に、怖さと、ありがたさも同時に感じているのですが、それもこれも、灯火が見えていたからなんとか出来ていることですね。

あんまりピンとこない感じかもなので、例えてみると・・・・

ここからどこか遠くへと向かおうとした時に、明かりがなかったら、乗り越えられるか不安になると思うんです。ましては、夜も更けて真っ暗になった時なんて。でも、旅の途中で焚き火をしているようなところがあったら、ホッとする。それは「火」ってのは、人間にしか扱えないからかもしれないけど、なにか途中にあると、遠くまで向かおうと思っていた距離が、遠いんだけど、一気に行かなくてもいいだと、ここで停泊していいんだ、と思える。

別にモーテルでもいいのかもしれないけど、そう感じられるには、誰かがいないと成り立たないもので、逆に日常生活でずっと誰かがいる状態が続いてしまっていたら、一人になる時間が、同じように安心する、これで大丈夫だと思える為には必要となると思うです。だから、"ひろし"とか、多く人も、そうやって「焚き火」の時間を過ごしているんじゃないかなーと。

自分の中の灯みたいなもんを感じたのなら、そこには光があって同時に影もついてきます。だから、何かやろうとしている時には、同時になんだか良く分からない後ろめたさも気づいたら一緒についてきている。

それがずっとあって、うーんという感じなのですが、進むことと、それはそういうセットで起こるものなんだなと思うと、けっこう自分の中ですんなり来ました。そりゃー、日向に当たっていても影のない自分なんて、その方が怖いですよね。

自分だけが持っている、光と影だけじゃ何か足りず、人は火を起こしたんでしょうね。それは拠り所なのか、欲望なのかは、ちょっとわかりませんが、光を増やすということは、影を増やすということだというのを、ちょっと忘れていたことに、今気づきました。




ランドリー・・・

どこか懐かしさを感じる、帰る場所としての「 写真 」「 道具たち 」を扱っております。


 [ ものがたり ] 盆暮れ正月となれば、何かをするためというわけでもなく、とりあえず帰ろうとする。でも「 帰ってきた 」と、心から深くそう感じられる場所へ、ふと帰りたいと思って振り返った時には、いつの間にか、もうその場所はどこにも無いと気づくこともある。そんな時に、何気なく撮っていた一枚の写真がその役割を果たす時があるように、家のどこかでなにか見覚えのあるような道具たちも、心の帰れる場所があるのでは?と思ったのでした。みなさんにとっての「ただいま」を、感じてもらえる体験となれたらと思います。




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