手の中につくった精一杯のお花見【徒然日記】
私は春が好きなのに、春がこわいのです。
哀しいことが起きたのは、大体が春先でした。初めての恋が散ったのも、生まれて初めて髪を染めたのも春でした。初恋の君を忘れるために、目一杯、垢抜けたのに、「可愛いね」と君はもう言ってはくれない。
そんな我儘で、哀しい想いをしたのも春でした。
1. 春は希望と幻想の塊ようだ
長く暗い冬がやっと終わる。そんな希望を抱いて迎えた春は、期待していたよりも、哀しい結果に終わることが多かったです。
春というものに抱くイメージが、鮮やかで、幸福に満ちすぎているのかもしれません。なぜか毎年、桜は心の中の思い出よりも、妙に白っぽく見えるのは私だけでしょうか。もっと、薄桃色の、幸せに溢れた景色だった気がするのに。
どうもこの季節との距離感を、今も測りかねています。
*
先日、夫と日帰り小旅行に行ってきました。「とにかくPC画面以外が見たい!!!」という突発的な動機です。眼精疲労にはやはり緑であろう、と。
引きこもってばかりでしたので、久々の外出はとても新鮮でした。
渓谷をゆっくりと散歩する。新緑を透かしてきらめく湧き水、耳に優しいせせらぎ。
あぁ癒される~、マイナスイオン~、とふらふら歩いていると、どこから飛んできたのか、桜の花びらが私達と一緒に川下りをしていました。見ると、樫の木たちに隠れて、小さな桜の木がひっそりと咲いていました。もう葉桜になっていて、お花見をする人はいない。そのことに少し安堵した自分がいました。
2. 桜がこわい
春の象徴のような花の開花宣言が一大ニュースになるこの日本という国で、私は桜がこわいのです。
桜は愛され過ぎていて、春は歓迎されるべきものであるという空気が満ちていて、春が来ることがあまり嬉しくない私は、居心地が悪いなぁと毎年思います。
そして、愛されすぎて、愛されることが当たり前のものを愛せていない私には、なんだか申し訳なくて、桜に上手に近づけない。
上を向いて桜を見るより、下を向いて道端に落ちている桜の花びらを眺めることが、好きです。
落ちた花びらの集団から、きれいなものを1つずつ拾って、手の中に小さな春をつくることが、私のできる精一杯のお花見。
片手いっぱいになったところで、空に向かって投げ、ちらちらと舞う姿を愛でるのが好きです。
散ってしまった花びらは、なんだか咲き誇る桜よりも、気さくに思いませんか。桜が、私なんぞが触れていい距離まで、降りて来てくれたような気がして安心します。
だから私は春になると、上を向いて桜を眺めるのではなく、下を向いて花びらをひとつひとつ、拾い上げながら、過ごしています。
3. 顔を上げたらきっと春はいないだろう
そんな春の過ごし方は、少々後ろ向きで、ちゃんとしないといけない気がして、私は思わず「春は好きなんだけれど得意じゃないんだ」と夫に言い訳をしていました。
夫は景色を楽しみながら、そうだね、と相槌を打ってくれました。
あぁそうだ、この人は花粉症だった。
春を桃源郷と思わない人は、実は結構いるんだろうと、渓谷に流されていく桜の花びらを眺めながら、思いました。
そんな風に考えを巡らせているうちに、きっと、気が付いたら葉桜になり、夏になるのでしょう。春は一瞬のうちにやってきて、一瞬のうちにいなくなる。
それまでは、ちょっと気まずいクラスメイトくらいの距離感で、春とともに過ごそうと思います。
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