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身体、医療、世界の複数性を読む|キム・テウ『二つ以上の世界を生きている身体――韓医院の人類学』【訳者あとがき】

病院の医師の視線が患者よりモニターに向かう理由とは? 
韓医学の病名が西洋医学より曖昧になるのはなぜ? 
同じ「打つ」でも鍼と注射では何が違う? 

医療が一つでなければ、身体をめぐる真実も一つではない。
当たり前だと思っていた景色が一変する学術アカデミックノンフィクション!

装丁は中北隆介。装画は脈診の場面を描いたもの(原書より)。「患者の脈が打てば、脈をとっている医師の指も振動する」。脈診については3章02節を参照。

本稿では2024年8月22日に配本となったキム・テウ『二つ以上の世界を生きている身体からだ——韓医院の人類学』(酒井瞳=訳)の「訳者あとがき」を特別に公開します。

全国の書店にて発売中です。ぜひご一読ください。


訳者あとがき

 本書の読みどころについて、日本でも分かち合いたいと思った背景や、私が訳すことになった経緯を交えながらお話ししたいと思います。

 本書が韓国で出版されたのは二〇二一年二月、私が日本で原書を手にしたのが一か月後の三月末でした。新型コロナウイルスの流行により生活が一変し、感染することへの不安、さまざまな規制に対するストレスを抱えながら情報を検索した日々が思い出されます。未知のウイルスということで、専門家も「正解」を模索するなか、専門家以外の立場からすればいっそう、何を「正解」として信じたらいいのかわからず苦しい毎日を過ごしていた方も多いのではないでしょうか。情報の海に溺れるような不安のなか、自らが信じる「正しさ」とは異なる意見に対し、過度に否定的・攻撃的になる人々を目にすることも少なくありませんでした。著者のキム・テウ氏から、出版の知らせとともに著書が届いたのは、そんな折でした。

 自らの当たり前とは異なる物事を、別の視線で眺める想像力から生まれる可能性。その「当たり前」が成り立つ背景、仕組みを分解していく過程の面白さ。本書を読んで抱いたこれらの感覚を、日本でも分かち合うことは意味があると思い、ぜひ翻訳させてほしいとキム・テウ氏に申し出たのが始まりです。当時は修士課程修了後に就職した漢方薬局に在職しており、出産を経て育児休暇を取得している最中でした。人類学はもちろん、東アジア医学に関する知識や経験の未熟さは言わずもがなでした。しかしその二つを掛け合わせ、韓国語を日本語に訳すという役割であれば、必ず私がやり遂げたい。そんな向こう見ずな決意を頼りに、まだ0歳だった息子が眠っている合間を縫いながら翻訳を始めました。

 ここで、韓国の「韓医学」に関する簡単な説明と、著者との出会いについてお話しさせてください。韓医学とは、韓国における伝統医学を指します。日本の漢方医学と同じく中国の伝統医学に起源をもち、朝鮮半島に伝わったのち、土地や気候、人々の体質に合わせ独自の発展を経て現在にいたります。本書の副題(原書では主題)にある韓医院とは、韓医師によって運営される韓方専門の医院のことです。そこではしんと呼ばれる韓医学の診断法やしんきゅうが行われ、韓薬がつくられています。一方で、日本と同じく(近現代の)西洋医学にもとづく医療体制も存在します。このように韓国では、西洋医学と韓医学という二つの医学が併存しているのです。よって体調を崩したときの人々の行動や考え方に、日本でのそれらとは違うものが見られます。私は学部生のときに韓国に留学し、初めてそれらを目にしました。自分にとっての当たり前であった医療や身体観とは異なるものを目撃したときの衝撃は、今でも鮮明に覚えています。

 卒業後は、漢方とほぼ関係のない人材サービスを展開する会社に入社しました。そこで派遣部門の営業として勤務するうち、漢方に再会することになりました。派遣スタッフ向けの講座運営に携わる機会があり、漢方講座の企画担当になったのです。企画、運営するなかで、漢方に興味を持ったり服用していたり、学びたいと考えている人が想像以上にいることを知りました。不定しゅうと漢方の相性の良さなど、その特性に答えがある気がして、漢方と人々の関係について根本的なところから学び、考えたくなりました。その思いが強くなり、再び論文を書くための場所に戻りました。

 著者であるキム・テウ氏とは、この修士課程在籍中に出会いました。人類学で漢方を扱うと決めて進学し、人類学の視点から日本の漢方を扱った研究を集めていたところ、韓国の人類学者が研究しているのを見つけたのです。比較対象として韓医学を設定していたため、韓医学に関する人類学的研究も探していました。漢方と韓医学、両方とも研究対象としていたのが、キム・テウ氏でした。

 本書は、東アジアの伝統医学を対象に長年人類学的研究を行ってきたキム・テウ氏のフィールドワークがベースとなっています。韓国では見慣れた風景である病院と韓医院での出来事を、人類学者の視線で新しく眺め、分析していく様子が描かれています。どちらか一方の医学の正当性を主張する議論は韓国でなされて久しいですが、こうした議論に終始することに著者は警鐘を鳴らしています。一方しか存在しないのではなく、身体を取り巻く世界は複数あることを、人類学の手法と哲学や芸術の視点も取り入れながら丁寧に読み解いていきます。西洋医学の枠組みから韓医学を見るのではなく、韓医学が身体を見る枠組みを読者に提供することで、身体を、そして身体を取り巻く世界を眺める視線が一つではないことを体感させてくれるのです。一方に優劣をつけることは本書の目的ではありません。相互理解の先にひらかれる、医療の可能性が語られています。世界を眺める視線の複数性を体感すること。これは、韓国とは異なる医療体制下の日本においても、意味のある体験だと私は考えています。

 「異なる存在に対する拒否感、嫌悪感」、「当たり前が通用しないことへの恐れや不安」。こうした感情は、医療に限定されるものではありません。科学的だとされる医療の現場でも、医療者のあいだで意見が割れ、互いの科学的根拠を盾に争っている問題はいくつもあります。「科学的」に説明しきれないままになされている行為や信じられている情報・知識もまた、存在します。こうした状況は医療の領域に限らず、私たちを取り巻く多くの分野や日常において当てはまることです。

 そういった場面に遭遇したとき、もし、それまでとは異なる視線で物事を眺めることができたなら? 異なる視線で眺める、「異なる世界」が存在するということを、感じることができたなら? 世界を眺める視線の複数性を知ることは、固く絡まってしまった結び目を、やわらかくほどいて新たに紡ぐ準備をするような、希望のある体験になるのではないでしょうか。これまでとは異なる視線で世界を眺めることは、必ずしも心地よいものではないかもしれません。疑問や居心地の悪さを感じるかもしれません。しかし違和感を覚えるということは、異なる世界に触れた自分の中の当たり前が、それによって揺さぶられたということです。韓国の医療現場を調査してきた人類学者の目で、「異なる存在」そして自らの当たり前のあり方を読み解く旅を、読者の皆さんにお楽しみいただけましたら幸いです。

 最後に、固く絡まりがちな私の日本語を、どうすれば読み心地のいい日本語になるか根気強くほぐす手助けをしてくださった編集者の天野潤平さんに、この場を借りて心からのお礼を申し上げます。

二〇二四年五月
酒井 瞳 

目次

はじめに 身体、医療、世界

1章 身体に関する真実は一つではない

01 人類学者、病院と韓医院に行く
病院、指示の国/人類学、ある旅の記録/韓医院への旅が始まるとき
02 東アジアの身体、西洋の身体
医学書の二つの絵から/ホモ・メディクスと医療に関する人類学/多次元の身体、一つでない医療

2章 診断、身体を知る
01 初対面、診療室
なぜ診断をテーマに扱うのか/診療室の風景
02 対象の固定と、流れを読むこと
西洋医学の確実な対象たち/流れを読む東アジア医学/「気とは何か」
03 再び、診療室にて
「血糖値が上がりました」/「今日はどうされましたか?」/気の流れを読むということ

3章 医学用語、身体を述べる
01 病の名前
言葉に内在する観点/高脂血症と気鬱のあいだ
02 幾何学的な想像力と脈象の想像力
空間化と幾何学的な想像力/脈象の想像力と差異の様相/受動的な主体とその言葉
03 医学と美術、表現の問題
ゴッホと東アジア医学/幾何学と遠近法なしに見ること
04 先行する枠組みと後行する定規
先行する枠組みをもって話すこと/枠組みなく述べること――または後行する定規/客観について

4章 鍼、身体の可能性を手伝う
01 「治療」ではない「治」
「治」という漢字/身体の内外の治
02 自ら運行する身体
流れを助ける経穴/脈絡と経絡/身体はつながっている
03 濃密なアナロジーのネットワーク
ナチュラリズムとアナロジズム/陰陽と四時/姿をもった重層的な流れ
04 ネットワークを揺らす鍼
鍼治療の論理/七情と心の病の治

5章 薬、身体の外にある存在と共に治を行う
01 二人の患者、二つの処方
二人の不眠患者/なぜ人ごとに処方が異なるのか
02 製薬と処方
薬をどうつくるのか/加減の処方/流動する世界、一つではない自然
03 成分と薬性
薬に対する知識/本草と薬性/高麗人参を知るということ
04 人間的なるものを超えた存在と世界
非シンボルを受け取ること/再認と認定

おわりに 「先」の想像力のために
正答と定答/メルロ=ポンティと「知覚され、知覚する者」/ドゥルーズと「出会い」/哲学、芸術、医療(人類学)の接点から/存在論的転回とポストコロナ時代

付言 用語解説、または用語解明
言葉について述べること/身体/健康/生命/医学/生涯と老年/対象/気/身体-言葉-知-世界のつながりの上で

日本語版に寄せて
訳者あとがき
参考文献

著者略歴

キム・テウ〈김태우〉
延世大学化学科を卒業後、米国ニューヨーク州立大にて文化人類学博士号を取得。現在は慶熙大学韓医科大学教授。伝統医療に関する医療人類学者として、社会文化と医療の相互関係、医療に内在する存在論および認識論を研究している。主要な論文に「韓医学の病名の現象学――人類学的、現象学的接近」「比較不可能な文化研究の人類学――生医学と韓医学、認識と実践の分岐を読む」「インタビューのない現地調査――東アジアの医療知識に対する人類学的接近」「Cultivating Medical Intentionality: The Phenomenology of Diagnostic Virtuosity in East Asian Medicine」「治癒としての人間-植物の関係――存在論的人類学で再読する東アジア医学の本草論」など。

訳者略歴

酒井瞳〈さかい・ひとみ〉
愛知県出身。東京外国語大学外国語学部朝鮮語学科を卒業後、大手総合人材サービス会社にて勤務。人材派遣部門の営業職として勤務する中で、働く女性の体調不良と漢方薬の相性に関心を持ち、大学院へ進学。東京外国語大学大学院にて修士号(学術)取得。修士論文のテーマは、「日本と韓国の伝統医療に関する医療人類学的研究――鍼治療における近代性との関係構築を中心に」。大学院修了後、漢方薬局にて漢方相談員として勤務。結婚出産を経て現在は韓国語翻訳やWEBライティングに従事。

備考:本書は김태우『한의원의 인류학: 몸-마음-자연을 연결하는 사유 와 치유』の日本語訳です。

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