セルフレビュー「「よい」と「悪い」のリヴァイアサン」

毬丸ハツカ

 反省会と補足というか論の背景というか蛇足というか。本当に用語がごちゃごちゃなものを作ってしまったなあという感じである。

2022/10/15

「事前/事後」

 自らの言葉の中に看過できない矛盾のように見えるところを見つけてしまった。

1
 例えば、ある2つ以上の主体や行為者が相互に影響を与える範囲内の空間で存在するとき、それぞれが各々の利益を求めて行動し、その「取りうる選択肢から一つの手を取る」という自由を行使した場合、その利害が衝突しうるだろう。これはそれぞれの徳、それぞれの正義、それぞれの善悪が衝突するということになる。その衝突は生物であれば、自然淘汰による調整で均衡するかもしれないし、人間であれば衝突が起こる前に話し合いで各々の自由を制限して解決するかもしれない。
 そうなれば、その影響範囲の系は一つの限られた状況での、他と区別される望ましい状態へ変化し、安定性や、共同性を生むことになるだろう。〜略〜その時、その系が望ましい状態になるための基準や「選好性」、「選択の偏り」、「善/悪」が生まれるだろう。

https://note.com/kasamaru_hatsuka/n/nb0df756d5225

 ここでは「善/悪」はある系に自然に生まれるものとみなされている。しかし、最後にこう述べている。

2
 最後に一つの問題、規則を共有しない他者や目的を共有しない他者に対して正義や善はないのだろうか、ということについて述べたい。当たり前だが、それは「作りあげられ、誰もが守らない」限り「存在しない」だろう。

https://note.com/kasamaru_hatsuka/n/nb0df756d5225

 この論考では基本的に「善/悪」と「正義」はほとんど区別していないのに、1では自然に生まれる、2では自然に生まれないと言っている。これはひどい矛盾にみえる。何やってんだか。しかし、私にはどちらの言葉も何かそれなりの説得力を持っているように思う。
 この矛盾に見える問題を解決するには何が必要だろうか。それは「事前/事後」の区別だろう。それは下記のような視点だ。

 社会は現実にあるそれを分析するときにはこの世界の歴史の中での人と人や組織の関係、行使される自由の相互作用の総体であり、構築するものとしてそれを見るとき、その共同性で得られる行為の自由を質的に決定し、現在と未来に向かって配分していく機構という側面がより顕になるだろう。

https://note.com/kasamaru_hatsuka/n/nb0df756d5225

 ここで社会について、「現実にあるそれ」については「すでに成立してしまっている」という「事後」の視座からみており、「構築するもの」については「これから作り上げる」という「事前」の視座から見られている。

 つまり、1はそれがどんなものであれ「成立してしまう」事後的な目線で見られた「善/悪」で、2はそれを事前から構築しようとするための「正義」であるという区別だ。それは各主体が意識的に共同で守る「正義」と各主体がバラバラに持つ「正義」が均衡している状況に対する「善/悪」の区別だ。この区別をつけないままに話を進めると色々と厄介なことになる。そういうことを忘れていた。現在は協力関係がないところがあるから、事前の「正義」が定まらず、そこから調和のとれた事後の「正義」が生まれない状況だと言いたかったようだ。

 ここ数日のロシアに関する国連総会の反応を見ていると少し希望が湧いたと同時に、追い詰めすぎて「国連脱退」などという可能性がもしかすると0ではないのか?と思ったが、考えてもどうしようもないからとりあえずは楽観的にいよう。

 それはともかく、自然淘汰による均衡、プレイヤーの間に協力関係のない行為者が存在する政治的な均衡などは、前者の事後的に成立するそれで、理念や目標を設定したりすることや、話し合いでルールを定めたりする法律は後者に入るだろう。道徳などは後者よりだが、前者に近い部分もあり、だいたいにおいてこれらはすっぱりと二分することはできないだろう。

 この区別もまた柄谷行人の著作から引っ張っていたりする。自分でも本当にパラノイアックで、ひょっとしたらはた迷惑だなと思うのだが、理由はわからないものの、柄谷行人や岩井克人やベイトソンの著作には強烈に頭に焼き込まれるモチーフがあって、私はずっとそれを巡って考えている。他にも色々な本を読んで感動した記憶もあるのだが、何かそこには私の心底興味のある問題系が存在するようだ。

 未来に投射する目的として見るものと、目的があろうとなかろうと成立してしまうものという区別は人が意志を持つ限り、身体や器官の振る舞いに生きてきた生存環境の歴史が刻み付けられている限り、何かそれらにとって「望ましい状態」がある限り必要なものだろう。「事前/事後」の対立は言い換えれば「目的の内部/外部」という対立であり、その対立を保有することが人の意志を戒めて、正常なフィードバックループが成立することを助けるだろう。

 また、「星たちの光をめぐって」で述べたような「合理性」もこの「望ましい状態」に対して、幾多もの階層で読み取れると考えられる。「合理性」、「取り得る状態の集合」、「目的」と「望ましい状態」――実現される他と区別される選択肢――、「善/悪」、「選択」、これらを私は汎用的な尺度として使用しているということになるだろう。

 私はこれを論じる時、私自身で定めた概念自体は厳密に綿密に使用するように万全の注意を払っているが、専門的な見地から見ればかなり乱暴に抽象化しているということは決して否めないだろう。粗雑な抽象概念を頭でっかちに振り回して、悲劇を生むということは世に広くみられる現象で、私はそれが恐ろしい。

 議論自体はとてもシンプルだが、「ダブル・バインドセオリー」の例で見たように、実際に世界を見れば一つの組織性の単位をとってもそこには非常に複雑な比較尺度が入り混じっているはずだ。私は万物の尺度を目指して自身の哲学を構築しているが、決して単調に世界を理解できるようにするものではないという注意が必要だろうし、実践においては常にフィードバックを得て、様々な階層で自身の比較尺度を修正していかねばならないだろう。

 そして、これもまた「星たちの光をめぐって」で書いたが、やはりこの視点だけで生きていくなんて本当につまらない。例えるなら、味のない栄養素だけをひたすらとっているのと何ら変わらないような無味乾燥さだ(「星たちの光」で書くのを忘れていたとおもうのでとりとめもなくここに書くが、黒において生の意志として表現されていた「大食い」は、マズい飯を必死で食べて生きようとする京志郎に批判が入り混じるも愛すべき形で、引き継がれている。)。そして、実際のところ私の議論だけで全てを見通そうとしてしまうのは、「商品」の存在しない「貨幣」だけの世界に踏み込むのと変わらない危険性を有している。ある意味で常にそうだとは言えると思うのだが、特に私の議論はあくまでも「形」の話でしかないのだ。生に沿うためには、「商品」と「貨幣」はきちんと交換されなければならない。

 これは私の道だから、私はこの道を開いてはいくものの、もっと自由で曖昧な物の見方や、もっと複雑で難解なものがある見方もしたほうがきっと世界はおもしろいし、そうでないと生きていけない。世界市民思想については陰鬱な側面を強調したが、第一にその多様な自由を認めるための思想である。

 私自身も単一の比較尺度を持たず、この世の暴力を厭う私の憂鬱と陰鬱を捨てずに、それと同時に快活さを持っていくような、「ガラクーチカ」のような心を抱いて生きていきたい。

フェミニズム、ミシェル・フーコー…

 このような見地はその基準の呼び名がどうであれ、この世界に「善/悪」、「よい/悪い」が生物の命とその保有する器官と、それらが織りなす組織と共同性の数だけ顕在的もしくは潜在的に無数に存在すると想定することを可能にする。そして、それらが衝突しあったり、連携したりすることで、この世界が成立しているということを想定できるようになる。

https://note.com/kasamaru_hatsuka/n/nb0df756d5225

 正直このギスギスの世界を忌避する人は多いだろう。私自身も少しそうだから。

 変な話が自分の身体の中にもその衝突が発生しうるということで、それは例えば交感神経と副交感神経とか、過度の食欲と血糖値とか、そんなことでも当てはまると思っている。

 私の感覚としては、たとえば日常生活では「潜在的対立は無数にある」というメタ情報だけを保有して、必要な情報に触れて学びは続けつつ、実際に誰かが嫌そうな顔をしたり、困ったりしていたら、あるいは自分に何か不当な不快感があれば、そこに衝突があるか考え、さらに、その周囲の関係性、上位の構造(人間関係、会社などの組織、社会…)を掘り出して解消を試みるというくらいでいいのではないかと思う。情報は多ければいいというわけでもなく、神経過敏になるのもメンタルヘルスによくない。「その場の誰も気づかない」ということもあるから難しいことではある。

 そして、「善/悪」だけにフォーカスしたから陰鬱になっているが、その個々の関係が様々な形で「楽しみ」や「喜び」や「悲しみ」や「幸福」などで彩られているのも忘れてはならない。あそこで述べた「世界市民思想」は人間を含むが、「人間だけのための思想」ではないがゆえに色々なものがそぎ落とされているだけだ。

 そしてあるいは、このギスギスした視点から「ハランスメント」が氾濫する現代を生きるにあたっての一つの対処法を考えることができるだろう。つまりはまず「一般的善」を捨てて、常に「他ならぬ私は、すべての他ならぬ他者と固有の関係」を持っていると考え、それは「現代社会」の法の配分する「自由」の中において許される限りの、その固有の関係に応じた倫理をその都度その都度、構築して更新していくという姿勢がありうるということだ。その固有の関係にも、二人のとき三人のとき…と様々な階梯があるだろう。最近読んだディオゲネスの本の言葉で言えば「ノミスマをパラハラッテインせよ」ということになるかもしれないし、単純にとても当たり前のことを言っているだけのことのように思う。無論、何か全体がおかしいと思ったなら「現代社会」の方を問うてもよいだろう。

 そのためにも、この「潜在的対立」のメタ情報は保有しておくべきだと思う。私がこういう世界の見方を考えたのはフェミニズム(とくに上野千鶴子)の文献とミシェル・フーコーの生-権力論や真理論などのミクロな政治というものを考えてのことでもある。

 家父長制は有名だが、家の中など身近な場所にも、思いもよらない権力はいろんなところに潜んでいて、誰かを搾取しているかもしれないし、生-権力論は権力自体は生きるためには不可欠な性質をもつものだとさえ示していたと思う。そういったことも踏まえても、このような衝突を前提として理論を組み立てたほうがより実態に即した世界を認識できるだろうと判断した。

ガキ大将

 そして、以上の「すべての生命体の自由」を目指すという判断などは、論理的にはこの思想、理念を支持しない外部の他者からは正当化できない同語反復となるだろう。何か別の理念を捨ててこの理念を取るとき、そこには論理を切り替える自由の行使が必要になる。このことから私はこの世界市民思想を知の探究である「哲学」と区別して、未来への理想、「思想」と呼び、一つの理念、一つのイデオロギーとして考える。

https://note.com/kasamaru_hatsuka/n/nb0df756d5225

 これを逆に言えば、「イデオロギー」一般がそうであるのだから、種々のナショナリズムもノンポリも共産主義も社会主義もすべてはその外部の他者からは正当化できないものだと私自身は考えているということだ。別に必ずしも常に積極的に意識的にイデオロギーに加担するべきだとも思わないが、「関係」というものが存在するから巻き込まれる時は否応なく巻き込まれてしまうだろう。

 そんなわけで私は例えば「自国民ファースト」は自己中心的なガキ大将のケチな戯言と変わらない部分があると考えているし、「国民のため」とか言ってもそれを控えめに言っているだけのように見える。

 このようなものを避けた上で環境問題をふまえて、ベイトソンを経由しながらエコロジーへの配慮を組み込んだ「世界市民思想」によって、何かマシなものを作りたいと思って構想している。うまくできるかどうかなどわからん。そう考えると、古典的な思想をエコロジーの文脈で読んでいるので、斉藤幸平のマルクス読解と同じ時代の流れにのったのかもしれない。

 私はあまり知識がないから他にもいるのかもしれないが、今私の知るかぎり日本で、国家を超えていく想像力、信念、そしてある種シビアな知性を持っているよう思うのはただ二人、国家の主権の国連への移譲を考察していたりする柄谷行人や、とても優しい憂鬱にみちた作品と、その憂いを乗り越えるとんでもない思想を秘めた作品を作った岡村天斎監督だけで、それもパラノイアックな感じになっているひとつの原因である。

 変な話、彼らはどんなロック歌手よりもロックに私の目に映る。なんというか、現代の坂本竜馬とも喩えられそうで、心底魅せられた。たぶん坂本竜馬が現代に生きていたら、日本なんてケチな単位でものごとを考えずに動くのではないだろうかと思うので。

現象学と科学

 その関係性はあらゆる認識――誤りのあるそれも正しいそれも含む――と関係に共通しており、認識についてはそれが情報を処理する機構である限り、世界がどのような様相をしていようと不変であると考えている。

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 私の問題意識として、現代思想とその源流である現象学と科学の対立は一体何なのだろうか、その溝を埋めることはできないのかということが頭にあった。科学は実際に社会の中に組み込まれた力を持っているし、現代思想もそれをすべて誤りと切って捨てるにはいかない何かを有しているよう思えた。

 その中で、ベイトソンは思想家の流れの中にありながら、常に科学と論理階梯理論を見据えていて、その架け橋となり得る何かを有しているように思えた。彼を手がかりにして自分なりに考えを進めていった結果が「ミッシングリンク」である。選択肢、選択肢の選択肢……と駆け上がっていく彼の学習段階理論やコンテクストに関する議論をこの世に存在する「集合」の数だけ設定できると仮定し、それを更にまた彼の情報と比較のキーワードと、そしてシャノンの情報量の定義に結びつければ、必然的に私の議論が浮かび上がってくるかもしれないと、あとから思った。これによって自分なりには科学と現象学のその手前に遡ったつもりではある。

 そして、「世界市民思想」によって、これからも彼を手がかりに、エコロジーとヒトの政治経済社会を結び合わせることが出来ないかと考えていきたい。

とても不思議なこの世界

 「ミッシングリンク」もそうだが、私の長々と論じている議論が原理的に何に負っているかをたどれば、それは「集合」、「差異と同一性を同時に設定するもの」に負っている。そこに至るまでいろんな紆余曲折はあったのだが、結局、ひたすらそれだけについてあまり知的な複雑さもなく単調に述べているといっても過言ではない。「ミッシングリンク」から少し考えているが、私の言葉の使い方での「比較尺度」と「集合」の区別は、それを日常的にどのような場面でそう呼ぶか、何との関係においてそう呼ぶかの区別しかつかない、全く同じものを指しているかもしれない。

 私は哲学を考えるのに可能な限り文化的価値を削ぎ落としていこうと心掛けているが、考えているときに似たような感覚、何か「全く同じものを何かとの関係でみるときそう呼んでいる」という感覚に度々出くわしている。

 物と現象の区別の前に立ち返ろうとしている私の視点からは、その対象が現実世界であれ、精神の世界のものであれ、「ミッシングリンク」で少し違う形で述べていたような、知の探究はそもそもが常に何かと何かの「関係」の探究であるということではないかという単調な仮説を、いつも新鮮さをもって実感しているかもしれない。これは「「地図」と「土地」の貨幣論」で述べたような、中心化されれば「関係」は「理論」や本来の意味での「比較尺度」などになるし、そこから離れることで何かが発見されることもあるといったことにも関連するだろう。

 考えを進めるうちになぜ自然界に「比較尺度」、「集合」があり得るのかということについて疑問に思ったことがある。それがあり得る限り私の理論は不変であるはずだが、そもそも何故そんなものが世界に存在するのだろうか。

 自然において認識するそれは人の側だけにも、自然の側だけにも存在するのではなく、その間にあり、何かの循環を成しているはずであるが、しかしながらその循環も究極的にはこの世界がこの形で存在していることに起因するとしか述べることが出来なくなるのではないだろうか。

 それはこの世界の物理法則がなぜこの世界の物理法則であるのか?という問いに似たような、何か答えのない、比較尺度の内部での真実しか求められない人間には届き得ない、摩訶不思議がそこにはあるのではないかと思っている。果たして私は正しいのだろうか。

2022/10/25

「個人主義/全体主義」について

 社会は現実にあるそれを分析するときにはこの世界の歴史の中での人と人や組織の関係、行使される自由の相互作用の総体であり、構築するものとしてそれを見るとき、その共同性で得られる行為の自由を質的に決定し、現在と未来に向かって配分していく機構という側面がより顕になるだろう。
…略…
 ただ、私は全体を考慮しない各主体や行為者に対する善悪と自由もまた認識されてしかるべきであり、そして全体によって実現される自由についてはその全体の総体との関連で見られなければならないと考える。その認識がより各主体や各行為者の望む自由と、そして総体としての全体に、より調和の取れた自由をもたらすだろうから。

https://note.com/kasamaru_hatsuka/n/nb0df756d5225

 書かなくてもわかるのか?どうかがわからないので一応補足しておく。上記のような社会観を私が考えたのはいかに「個人主義的な社会」であれ、「個人の自由」は「社会に依存し与えられるもの」として扱う同時に、いかに「全体主義的な社会」であれ、個人には「生身の自由が残されている」ということを理論的な前提として組み込んであるつもりだ。そして、これは自由の階梯すべてに言えることであろう。

 全体主義の社会については完全に身体を拘束されたケースは除くが、いくらなんでも常時社会に暮らすべての人間の生身の自由がない、というとほとんどマトリックスの映画の世界になってしまうので、一応上記の前提を生かしていいと思う。これはどうなんだろうな。

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毬丸ハツカ

筆者はしがないリーマンです。 ここに書かれた文章に何か面白みや興味を感じたのであれば、 以下に投げ銭をしてもらうとモチベーションになります。 https://bit.ly/3HtUXSb よろしくお願いします。