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セルフレビュー「「よい」と「悪い」のリヴァイアサン」

 反省会と補足というか論の背景というか蛇足というか。本当に用語がごちゃごちゃなものを作ってしまったなあという感じである。


2022/10/15

「事前/事後」

 自らの言葉の中に看過できない矛盾のように見えるところを見つけてしまった。

1
 例えば、ある2つ以上の主体や行為者が相互に影響を与える範囲内の空間で存在するとき、それぞれが各々の利益を求めて行動し、その「取りうる選択肢から一つの手を取る」という自由を行使した場合、その利害が衝突しうるだろう。これはそれぞれの徳、それぞれの正義、それぞれの善悪が衝突するということになる。その衝突は生物であれば、自然淘汰による調整で均衡するかもしれないし、人間であれば衝突が起こる前に話し合いで各々の自由を制限して解決するかもしれない。
 そうなれば、その影響範囲の系は一つの限られた状況での、他と区別される望ましい状態へ変化し、安定性や、共同性を生むことになるだろう。〜略〜その時、その系が望ましい状態になるための基準や「選好性」、「選択の偏り」、「善/悪」が生まれるだろう。

https://note.com/kasamaru_hatsuka/n/nb0df756d5225

 ここでは「善/悪」はある系に自然に生まれるものとみなされている。しかし、最後にこう述べている。

2
 最後に一つの問題、規則を共有しない他者や目的を共有しない他者に対して正義や善はないのだろうか、ということについて述べたい。当たり前だが、それは「作りあげられ、誰もが守らない」限り「存在しない」だろう。

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 この論考では基本的に「善/悪」と「正義」はほとんど区別していないのに、1では自然に生まれる、2では自然に生まれないと言っている。これはひどい矛盾にみえる。何やってんだか。しかし、私にはどちらの言葉も何かそれなりの説得力を持っているように思う。
 この矛盾に見える問題を解決するには何が必要だろうか。それは「事前/事後」の区別だろう。それは下記のような視点だ。

 社会は現実にあるそれを分析するときにはこの世界の歴史の中での人と人や組織の関係、行使される自由の相互作用の総体であり、構築するものとしてそれを見るとき、その共同性で得られる行為の自由を質的に決定し、現在と未来に向かって配分していく機構という側面がより顕になるだろう。

https://note.com/kasamaru_hatsuka/n/nb0df756d5225

 ここで社会について、「現実にあるそれ」については「すでに成立してしまっている」という「事後」の視座からみており、「構築するもの」については「これから作り上げる」という「事前」の視座から見られている。

 つまり、1はそれがどんなものであれ「成立してしまう」事後的な目線で見られた「善/悪」で、2はそれを事前から構築しようとするための「正義」であるという区別だ。それは各主体が意識的に共同で守る「正義」と各主体がバラバラに持つ「正義」が均衡している状況に対する「善/悪」の区別だ。この区別をつけないままに話を進めると色々と厄介なことになる。そういうことを忘れていた。現在は協力関係がないところがあるから、事前の「正義」が定まらず、そこから調和のとれた事後の「正義」が生まれない状況だと言いたかったようだ。

 ここ数日のロシアに関する国連総会の反応を見ていると少し希望が湧いたと同時に、追い詰めすぎて「国連脱退」などという可能性がもしかすると0ではないのか?と思ったが、考えてもどうしようもないからとりあえずは楽観的にいよう。

 それはともかく、自然淘汰による均衡、プレイヤーの間に協力関係のない行為者が存在する政治的な均衡などは、前者の事後的に成立するそれで、理念や目標を設定したりすることや、話し合いでルールを定めたりする法律は後者に入るだろう。道徳などは後者よりだが、前者に近い部分もあり、だいたいにおいてこれらはすっぱりと二分することはできないだろう。

 この区別もまた柄谷行人の著作から引っ張っていたりする。自分でも本当にパラノイアックで、ひょっとしたらはた迷惑だなと思うのだが、理由はわからないものの、柄谷行人や岩井克人やベイトソンの著作には強烈に頭に焼き込まれるモチーフがあって、私はずっとそれを巡って考えている。他にも色々な本を読んで感動した記憶もあるのだが、何かそこには私の心底興味のある問題系が存在するようだ。

 未来に投射する目的として見るものと、目的があろうとなかろうと成立してしまうものという区別は人が意志を持つ限り、身体や器官の振る舞いに生きてきた生存環境の歴史が刻み付けられている限り、何かそれらにとって「望ましい状態」がある限り必要なものだろう。「事前/事後」の対立は言い換えれば「目的の内部/外部」という対立であり、その対立を保有することが人の意志を戒めて、正常なフィードバックループが成立することを助けるだろう。

 また、「星たちの光をめぐって」で述べたような「合理性」もこの「望ましい状態」に対して、幾多もの階層で読み取れると考えられる。「合理性」、「取り得る状態の集合」、「目的」と「望ましい状態」――実現される他と区別される選択肢――、「善/悪」、「選択」、これらを私は汎用的な尺度として使用しているということになるだろう。

 私はこれを論じる時、私自身で定めた概念自体は厳密に綿密に使用するように万全の注意を払っているが、専門的な見地から見ればかなり乱暴に抽象化しているということは決して否めないだろう。粗雑な抽象概念を頭でっかちに振り回して、悲劇を生むということは世に広くみられる現象で、私はそれが恐ろしい。

 議論自体はとてもシンプルだが、「ダブル・バインドセオリー」の例で見たように、実際に世界を見れば一つの組織性の単位をとってもそこには非常に複雑な比較尺度が入り混じっているはずだ。私は万物の尺度を目指して自身の哲学を構築しているが、決して単調に世界を理解できるようにするものではないという注意が必要だろうし、実践においては常にフィードバックを得て、様々な階層で自身の比較尺度を修正していかねばならないだろう。

 そして、これもまた「星たちの光をめぐって」で書いたが、やはりこの視点だけで生きていくなんて本当につまらない。例えるなら、味のない栄養素だけをひたすらとっているのと何ら変わらないような無味乾燥さだ(「星たちの光」で書くのを忘れていたとおもうのでとりとめもなくここに書くが、黒において生の意志として表現されていた「大食い」は、マズい飯を必死で食べて生きようとする京志郎に批判が入り混じるも愛すべき形で、引き継がれている。)。そして、実際のところ私の議論だけで全てを見通そうとしてしまうのは、「商品」の存在しない「貨幣」だけの世界に踏み込むのと変わらない危険性を有している。ある意味で常にそうだとは言えると思うのだが、特に私の議論はあくまでも「形」の話でしかないのだ。生に沿うためには、「商品」と「貨幣」はきちんと交換されなければならない。

 これは私の道だから、私はこの道を開いてはいくものの、もっと自由で曖昧な物の見方や、もっと複雑で難解なものがある見方もしたほうがきっと世界はおもしろいし、そうでないと生きていけない。世界市民思想については陰鬱な側面を強調したが、第一にその多様な自由を認めるための思想である。

 私自身も単一の比較尺度を持たず、この世の暴力を厭う私の憂鬱と陰鬱を捨てずに、それと同時に快活さを持っていくような、「ガラクーチカ」のような心を抱いて生きていきたい。

フェミニズム、ミシェル・フーコー…

 このような見地はその基準の呼び名がどうであれ、この世界に「善/悪」、「よい/悪い」が生物の命とその保有する器官と、それらが織りなす組織と共同性の数だけ顕在的もしくは潜在的に無数に存在すると想定することを可能にする。そして、それらが衝突しあったり、連携したりすることで、この世界が成立しているということを想定できるようになる。

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 正直このギスギスの世界を忌避する人は多いだろう。私自身も少しそうだから。

 変な話が自分の身体の中にもその衝突が発生しうるということで、それは例えば交感神経と副交感神経とか、過度の食欲と血糖値とか、そんなことでも当てはまると思っている。

 私の感覚としては、たとえば日常生活では「潜在的対立は無数にある」というメタ情報だけを保有して、必要な情報に触れて学びは続けつつ、実際に誰かが嫌そうな顔をしたり、困ったりしていたら、あるいは自分に何か不当な不快感があれば、そこに衝突があるか考え、さらに、その周囲の関係性、上位の構造(人間関係、会社などの組織、社会…)を掘り出して解消を試みるというくらいでいいのではないかと思う。情報は多ければいいというわけでもなく、神経過敏になるのもメンタルヘルスによくない。「その場の誰も気づかない」ということもあるから難しいことではある。

 そして、「善/悪」だけにフォーカスしたから陰鬱になっているが、その個々の関係が様々な形で「楽しみ」や「喜び」や「悲しみ」や「幸福」などで彩られているのも忘れてはならない。あそこで述べた「世界市民思想」は人間を含むが、「人間だけのための思想」ではないがゆえに色々なものがそぎ落とされているだけだ。

 そしてあるいは、このギスギスした視点から「ハランスメント」が氾濫する現代を生きるにあたっての一つの対処法を考えることができるだろう。つまりはまず「一般的善」を捨てて、常に「他ならぬ私は、すべての他ならぬ他者と固有の関係」を持っていると考え、それは「現代社会」の法の配分する「自由」の中において許される限りの、その固有の関係に応じた倫理をその都度その都度、構築して更新していくという姿勢がありうるということだ。その固有の関係にも、二人のとき三人のとき…と様々な階梯があるだろう。最近読んだディオゲネスの本の言葉で言えば「ノミスマをパラハラッテインせよ」ということになるかもしれないし、単純にとても当たり前のことを言っているだけのことのように思う。無論、何か全体がおかしいと思ったなら「現代社会」の方を問うてもよいだろう。

 そのためにも、この「潜在的対立」のメタ情報は保有しておくべきだと思う。私がこういう世界の見方を考えたのはフェミニズム(とくに上野千鶴子)の文献とミシェル・フーコーの生-権力論や真理論などのミクロな政治というものを考えてのことでもある。

 家父長制は有名だが、家の中など身近な場所にも、思いもよらない権力はいろんなところに潜んでいて、誰かを搾取しているかもしれないし、生-権力論は権力自体は生きるためには不可欠な性質をもつものだとさえ示していたと思う。そういったことも踏まえても、このような衝突を前提として理論を組み立てたほうがより実態に即した世界を認識できるだろうと判断した。

ガキ大将

 そして、以上の「すべての生命体の自由」を目指すという判断などは、論理的にはこの思想、理念を支持しない外部の他者からは正当化できない同語反復となるだろう。何か別の理念を捨ててこの理念を取るとき、そこには論理を切り替える自由の行使が必要になる。このことから私はこの世界市民思想を知の探究である「哲学」と区別して、未来への理想、「思想」と呼び、一つの理念、一つのイデオロギーとして考える。

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 これを逆に言えば、「イデオロギー」一般がそうであるのだから、種々のナショナリズムもノンポリも共産主義も社会主義もすべてはその外部の他者からは正当化できないものだと私自身は考えているということだ。別に必ずしも常に積極的に意識的にイデオロギーに加担するべきだとも思わないが、「関係」というものが存在するから巻き込まれる時は否応なく巻き込まれてしまうだろう。

 そんなわけで私は例えば「自国民ファースト」は自己中心的なガキ大将のケチな戯言と変わらない部分があると考えているし、「国民のため」とか言ってもそれを控えめに言っているだけのように見える。

 このようなものを避けた上で環境問題をふまえて、ベイトソンを経由しながらエコロジーへの配慮を組み込んだ「世界市民思想」によって、何かマシなものを作りたいと思って構想している。うまくできるかどうかなどわからん。そう考えると、古典的な思想をエコロジーの文脈で読んでいるので、斉藤幸平のマルクス読解と同じ時代の流れにのったのかもしれない。

 私はあまり知識がないから他にもいるのかもしれないが、今私の知るかぎり日本で、国家を超えていく想像力、信念、そしてある種シビアな知性を持っているよう思うのはただ二人、国家の主権の国連への移譲を考察していたりする柄谷行人や、とても優しい憂鬱にみちた作品と、その憂いを乗り越えるとんでもない思想を秘めた作品を作った岡村天斎監督だけで、それもパラノイアックな感じになっているひとつの原因である。

 変な話、彼らはどんなロック歌手よりもロックに私の目に映る。なんというか、現代の坂本竜馬とも喩えられそうで、心底魅せられた。たぶん坂本竜馬が現代に生きていたら、日本なんてケチな単位でものごとを考えずに動くのではないだろうかと思うので。

現象学と科学

 その関係性はあらゆる認識――誤りのあるそれも正しいそれも含む――と関係に共通しており、認識についてはそれが情報を処理する機構である限り、世界がどのような様相をしていようと不変であると考えている。

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 私の問題意識として、現代思想とその源流である現象学と科学の対立は一体何なのだろうか、その溝を埋めることはできないのかということが頭にあった。科学は実際に社会の中に組み込まれた力を持っているし、現代思想もそれをすべて誤りと切って捨てるにはいかない何かを有しているよう思えた。

 その中で、ベイトソンは思想家の流れの中にありながら、常に科学と論理階梯理論を見据えていて、その架け橋となり得る何かを有しているように思えた。彼を手がかりにして自分なりに考えを進めていった結果が「ミッシングリンク」である。選択肢、選択肢の選択肢……と駆け上がっていく彼の学習段階理論やコンテクストに関する議論をこの世に存在する「集合」の数だけ設定できると仮定し、それを更にまた彼の情報と比較のキーワードと、そしてシャノンの情報量の定義に結びつければ、必然的に私の議論が浮かび上がってくるかもしれないと、あとから思った。これによって自分なりには科学と現象学のその手前に遡ったつもりではある。

 そして、「世界市民思想」によって、これからも彼を手がかりに、エコロジーとヒトの政治経済社会を結び合わせることが出来ないかと考えていきたい。

とても不思議なこの世界

 「ミッシングリンク」もそうだが、私の長々と論じている議論が原理的に何に負っているかをたどれば、それは「集合」、「差異と同一性を同時に設定するもの」に負っている。そこに至るまでいろんな紆余曲折はあったのだが、結局、ひたすらそれだけについてあまり知的な複雑さもなく単調に述べているといっても過言ではない。「ミッシングリンク」から少し考えているが、私の言葉の使い方での「比較尺度」と「集合」の区別は、それを日常的にどのような場面でそう呼ぶか、何との関係においてそう呼ぶかの区別しかつかない、全く同じものを指しているかもしれない。

 私は哲学を考えるのに可能な限り文化的価値を削ぎ落としていこうと心掛けているが、考えているときに似たような感覚、何か「全く同じものを何かとの関係でみるときそう呼んでいる」という感覚に度々出くわしている。

 物と現象の区別の前に立ち返ろうとしている私の視点からは、その対象が現実世界であれ、精神の世界のものであれ、「ミッシングリンク」で少し違う形で述べていたような、知の探究はそもそもが常に何かと何かの「関係」の探究であるということではないかという単調な仮説を、いつも新鮮さをもって実感しているかもしれない。これは「「地図」と「土地」の貨幣論」で述べたような、中心化されれば「関係」は「理論」や本来の意味での「比較尺度」などになるし、そこから離れることで何かが発見されることもあるといったことにも関連するだろう。

 考えを進めるうちになぜ自然界に「比較尺度」、「集合」があり得るのかということについて疑問に思ったことがある。それがあり得る限り私の理論は不変であるはずだが、そもそも何故そんなものが世界に存在するのだろうか。

 自然において認識するそれは人の側だけにも、自然の側だけにも存在するのではなく、その間にあり、何かの循環を成しているはずであるが、しかしながらその循環も究極的にはこの世界がこの形で存在していることに起因するとしか述べることが出来なくなるのではないだろうか。

 それはこの世界の物理法則がなぜこの世界の物理法則であるのか?という問いに似たような、何か答えのない、比較尺度の内部での真実しか求められない人間には届き得ない、摩訶不思議がそこにはあるのではないかと思っている。果たして私は正しいのだろうか。

2022/10/25

「個人主義/全体主義」について

 社会は現実にあるそれを分析するときにはこの世界の歴史の中での人と人や組織の関係、行使される自由の相互作用の総体であり、構築するものとしてそれを見るとき、その共同性で得られる行為の自由を質的に決定し、現在と未来に向かって配分していく機構という側面がより顕になるだろう。
…略…
 ただ、私は全体を考慮しない各主体や行為者に対する善悪と自由もまた認識されてしかるべきであり、そして全体によって実現される自由についてはその全体の総体との関連で見られなければならないと考える。その認識がより各主体や各行為者の望む自由と、そして総体としての全体に、より調和の取れた自由をもたらすだろうから。

https://note.com/kasamaru_hatsuka/n/nb0df756d5225

 書かなくてもわかるのか?どうかがわからないので一応補足しておく。上記のような社会観を私が考えたのはいかに「個人主義的な社会」であれ、「個人の自由」は「社会に依存し与えられるもの」として扱う同時に、いかに「全体主義的な社会」であれ、個人には「生身の自由が残されている」ということを理論的な前提として組み込んであるつもりだ。そして、これは自由の階梯すべてに言えることであろう。

 全体主義の社会については完全に身体を拘束されたケースは除くが、いくらなんでも常時社会に暮らすべての人間の生身の自由がない、というとほとんどマトリックスの映画の世界になってしまうので、一応上記の前提を生かしていいと思う。これはどうなんだろうな。

2023/3/15

世界という風船の箱、勢力均衡、バンコール

 例えば、ある2つ以上の主体や行為者が相互に影響を与える範囲内の空間で存在するとき、それぞれが各々の利益を求めて行動し、その「取りうる選択肢から一つの手を取る」という自由を行使した場合、その利害が衝突しうるだろう。これはそれぞれの徳、それぞれの正義、それぞれの善悪が衝突するということになる。その衝突は生物であれば、自然淘汰による調整で均衡するかもしれないし、人間であれば衝突が起こる前に話し合いで各々の自由を制限して解決するかもしれない。

 そうなれば、その影響範囲の系は一つの限られた状況での、他と区別される望ましい状態へ変化し、安定性や、共同性を生むことになるだろう。気をつけたいのは、このときこの”望ましい状態"とは各主体や行為者個別にとってではなく、それらの項間の関係の総体、その影響範囲の系に対して存在するということだ。

 その時、その系が望ましい状態になるための基準や「選好性」、「選択の偏り」、「善/悪」が生まれるだろう。それは話し合いで決められたのであれば、規則や法と呼ばれるだろう。例えばもしもこの状態をより強固にするものが現れればそれはその系にとっての「善」となるし、それを破壊するものは「悪」となるだろう。

 無論それは、その系の中の各主体や各行為者の「善/悪」と必ずしも一致するとは限らない。このように見れば、種々の主体や行為者、そしてある系が下部に含む系、その階層の「善/悪」が顕在的に、潜在的に入り乱れている結果として、種々の「善/悪」の階梯が生まれることが理解できるだろう。

https://note.com/kasamaru_hatsuka/n/nb0df756d5225

 それが話し合いで生まれたものか、あるいは力の均衡で生まれたものかは差し置いて、ある種の主体間の関係が安定している状態について話しているところであるが、それに関連することで、細谷雄一の『国際秩序』(中公新書 2012年)で登場する「均衡の体系」というものについて読んでいて思ったこと。

 ビスマルクが維持していたような「均衡の体系」は丸山圭三郎がソシュールの言語の価値体系について説明したときに引き合いに出した「風船の敷き詰められた箱」にかなりの精度で喩えられるのではなかろうか。丸山圭三郎はこう言っている。

 言語は、海辺の砂地の上にひろげられた網のようなものにもたとえられます。その網目が密であれば、砂地には細かく区切られた影が落ちるでしょうし、疎であれば、まばらに区切られた影が映ることでしょう。そして、網を取り去ってしまえば、砂地はもとのままの一面の連続体にかえってしまいます。言語の網次第で、砂地にはさまざまな模様が描かれるのです。

 第Ⅱ章の第4節「言葉の構造」のところでもちょっと触れましたが、ソシュールの言う《体系》の概念は、それまで使われていた体系と根本的に異なります。従来の体系というのは、既成の事物がどう配置されどう関係づけられているかという表なのですが、ソシュールの場合には、もともと単位 unité という客観的実体は存在しないというまことに不思議な体系を考えています。その体系のなかでは、個々の単位の大きさとか価値 valeur はネガティヴにしか定義されない、と言うことができるでしょう。

たとえとして、箱のなかにびっしりつめこまれた饅頭と、同じ大きさの箱のなかに押しこめられている風船を想像してください。

 その風船は、ただの風船ではなくて、圧搾空気が入っているものと仮定します。さて、饅頭の場合は、そのなかから一つ取出して箱の外においても、当然そのあとに空隙ができるだけで、箱のなかの他の饅頭どうしの関係は変りません。また、箱の外に取り出した饅頭の方も、それ自体がもっている一定の大きさ、一定の実体に変化はありません。

 ところが、技術的に可能かどうかという問題はさておき、圧搾空気をつめた風船の場合は、箱のなかでしか風船の大きさがない事実に注目してください。もしそのなかの風船を一つ外に取り出すと、当然ながらパンクして存在しなくなってしまいます。また、それが箱のなかで占めていた場所も、空隙となってそのままぽっかり穴を残すことはあり得ず、ひしめきあっているあとの風船すべてがふくれ上がってそのすき間をあっというまに埋めてしまうことでしょう。

 これがソシュールの言いたかった価値の体系で、個々の項の大きさというものはもともとなかったということです。存在するものは隣接する他の諸項と、全体との、二つの関係だけから生れる大きさでしかありません。ネガティヴというのは「……ではない」という定義しかできない対象、「……である」ということが言える対象ではないという意味なのです。この事実は、言語ばかりでなく、文化一般の価値についても見出されます。これが、自然のなかにもともとから存在していて、いわば炙り出しによって浮かび上がる構造とは根本的に違う、文化の構造の本質であり、関係そのものが《意味》をつくっている世界だと言うことができるでしょう。

丸山 圭三郎 10 言葉の意味と価値 Ⅱ 言葉とは何か 『言葉とは何か』 ちくま学芸文庫 2008年 p133-134
2023/6/3 参照ページにミス 144→134に修正

 ソシュール-丸山圭三郎は言語のある項が実体的にではなく、ネガティブに定義されることのたとえとしてこれを用いているので、そっくりそのままとはいかないでも、現在の世界は国家という風船が敷き詰められた箱なのではないかということだ。あるいは「国家は他の国家に対して国家である」ということも考えれば、あながちこのメタファーは馬鹿にできないところがあるかもしれない。

 一つの国家がしぼみ力の空白が生まれればそこに他の国家が付け込み、ある国家が膨らめば、関係する周囲の国家が圧迫され、さらにその周囲の国家に影響を及ぼす。風船のイメージほどギチギチにつまっているとは限らないが、どのようなテンションがかかっているかは、個別事例、風船の社会経済的な状態とそれを指揮する主体の性向や認識、それと他の風船との関係性を考えなければならない。

 そして、国家と国家が協力することがあるので、風船は常にきっちり一つの国家のサイズと合致しているとは限らないし、国家自体も自国内部の風船の集まりであるから、内部崩壊ないし、他の風船への圧力のかかり方が一変することがありうる。

 また、近世や近代と比べればかなりの改善があるだろうが、国家の場合すべての風船を俯瞰的に見ることもできず、一つの風船の内部から他の風船の内部を見ることは諜報や情報収集が行き届いているという特殊なケースを除いてできない。自国内のすべてを知ることさえ完全には誰にも出来ないだろう。だからこそ政策を誤るということがありうる。しかも、その自国の情報は他国の情報と比べてこそ意味があるものも多いだろう。

 このような均衡の体系における風船の集まりは、事前にそれがどのようなものか完全に理解できるものではない。歴史を振り返ったとき、事後的に理解されるものである。あるいは歴史学に論争があることを考えれば、それすらも完全には理解することはできないだろう。情報取得と現状把握の困難に加え、風船を調整する主体も相互に影響を及ぼし合う一つの風船であるから、勢力均衡の維持には難しい調整が必要になるだろう。

 各国家の風船がどのような動きにどのように反応するか、したかを知るには少なくともその各々の保有する多様な階層の風船、情報(国際情勢への認識)、思想、価値観の階層、文明、文化、情動的階層、政治経済的利益の階層、軍事力の階層、社会的経済的な物理的な交流と交換の階層など、すべての各々の階層の風船どもの相互作用がいかに影響しあうか、しあったかを把握しなければならない(階層と仮にいうものの、それは明確な上下関係があるものでもない)。

 その点、ケインズの提案したバンコールは経済の階層において国家という風船群を調整する画期的なシステムであったのではないだろうか。どんな主義主張、イデオロギーであるかに関係なく自動的に国家間で経済の風船の均衡を調整することが可能なのかもしれない。

 この風船の敷き詰められた箱というイメージは「よい」と「悪い」のリヴァイアサンで描写される世界の均衡の側面を別の角度から描いたものであると思う。「よい」と「悪い」はある階層の風船の内外に対して自己自身の形を任意の状態へと実現しようとする抵抗であり、ガバナーであろう。それは外部の他の風船の動きと調和するとき、秩序が維持され、不一致となるとき、テンションを高める要因となり、最悪の場合、破壊をもたらすだろう。つまりは、それが一時的であれどうであれ、他の項との関係性を考慮しない倫理は不和をもたらすのである。

 だから、私自身は、何が望ましいかはさておき、「よい/悪い」を風船の外部に持ち出すことには慎重さを伴うべきだと思う。部分を変えることで全体が揺れ動き破損する可能性もあるのだ。とはいえ、スピードが必要である種の混乱が避け得ない状況があることを否定はしない。荒っぽい手が必要な時もあるだろう。単純に私が慎重さというものを捨てたくないのは私自身の望む「よい/悪い」が――まだ形が何もできていないものの――現在の地球上全ての国家のあり方を何か別のあり方へ変えるべきだという可能性を否定しない急進さを持っているからでもあり、あるいは何かの間違いで私自身の持った考えが本当に実現されれば逆に社会が破壊されるのではないかと恐れている臆病さを持っていることが大きい。

 それはともかく、なぜこの例えが広範な適用可能性を持つかといえば、「同一の有限の資源や場を奪い合う興亡する主体や項の集まり」が存在すれば敷き詰められた風船のイメージと同一性を持つようになるからだろう。無論、新たな領域が発見されれば、場は広がったり変わったりするものの。

 そのような状況は国家の均衡の体系のみならず、ダーウィンが解き明かしたような生物のあり方、マーケットのシェア、ソシュールの解き明かした言語の価値や意味、ひいては概念、文化的価値の体系、未解決の状態の問題に対する学説群、ある社会で普及している思想、イデオロギー、生活様式など幾多の分野での状態の変遷として広く見られるだろう。概念の分野で言えば『中動態の世界』における國分功一郎の仕事にはこの考え方が実に見事に実践的に取り入れられていると思う。そして、この状況に名を付けることができるとすれば「有限場の占有状態」、その変化の過程は「有限場の占有変遷」と名付けることができないだろうか。このような関係性は改めて指摘するまでもないごくありふれたものであると思うかもしれない。

 確かにそうであるが、これについて最も重要なのは今誰がどれだけの場を占めているのかということよりもむしろ、すでに成立している個々の風船を見るとそれは「それ自体として在る」ように見えるが、しかし、その実そのような視点は現在と過去の他の項との関係性を見落としているということだ(『中動態の世界』はそれを知る格好の事例であろう)。他の項の影響により風船は形を変え、あるいはある風船は「それ自体」として変わらずとも、他の項が変わればその箱の中での機能が変わる。このようなことは「有限場の占有」が発生していることが明確に分かりやすいマーケットにおいてもそうだろう。自身の商品がどのような関係の中で需要されているのかを誤認したとき、企業の敗北が始まるのだろうから。個々の風船は常に関係の中でそう在ってきたのであり、また未来に向かって変遷していくだろう。

 おそらくこの変遷はある特定のタイプの「集合的合理性」が誕生する際に通る道ではないかと思う。「中心化」とは要素の処理方法という「有限な場」を一つの特権的な項が占めることであるからだ。しかし同時に、それはおそらくは「中心」以外の他の要素、多様な主体がそれを占める「新しい場」が異なる階層として生まれるということでもあるだろう。こんなことはもう誰かが言っていることなのであろうか。

2023/4/9

ダブル・バインドについて

 例えば、判定者の使用する異なる種類の2つの情報の受信機=比較尺度に対して、同一のメッセージ発信者から発せられた2つの情報が、ある価値基準上で互いに矛盾し、そこから逃げ出せないという状況はグレゴリー・ベイトソンによってダブル・バインド状況と呼ばれているだろう。ベイトソン父娘はその濫用を憂いたが、ダブル・バインド状況は数多の比較尺度が入り乱れるこの世界の至るところに見出すことができるのではないだろうか。

https://note.com/kasamaru_hatsuka/n/nb0df756d5225

 ダブル・バインドというものを考えるとき、それもまた一つの安らぎへの道ではないかと思うことがある。

 というのも、例えばどう答えても戒めをうける禅問答は「答えろ/答えれば戒める」というダブル・バインドコミュニケーションの一つの例であるが、それは問答を行うものに自身の不完全さを自覚させて、安らぎをもたらすものだ。ダブル・バインドは至るところに見いだせる。

 例えば「完全な善が存在する」と考えても、「完全な善はもはやそれ以上のものが生まれ得ないという点でそれ自体として良くない」という考え方はある程度の共感を得られるのではないだろうか。そして、そのような考え方はドストエフスキーの「地下室人」の中に実際に見出せるだろう。そして、この認識により自身は完全なものには至らず、至ったとてそれに満たされることのない矮小さを自覚することがあるかもしれない。

 あるいは、利益の最大化を是とする資本主義経済をとってみてもそうだ。あり得ない想定の話だから、あまり考えても仕方ないと思っていたのだが、たとえ話として書き連ねておく。ある一者が資本主義経済において最高で究極的な利益の最大化、すべての貨幣の収集に成功したとする。その時「資本主義経済」は崩壊している。貨幣が流通しなくなっているからである。利益の究極的な最大化は利益にならないことのちょっとしたたとえ話でしかないが。

 一応、これらもそれ自体「善」であるものがそうでないものを同時にもたらすダブル・バインドだろう。

 ただ、ダブル・バインドは情報が伝達されない場合、発生しない。例えば、皮肉に気づかず褒められたと思う人がいる。

 逆に、あらゆる価値が交錯すると考えれば、「リヴァイアサン」の世界が描写するようにダブル・バインドは至るところに現れる。ベイトソンはそれに「学び」と進化の可能性を見出しているし、相矛盾するメッセージを送るのは、メタ・メッセージによる統御も必要な場合もあるが、急激な変化を起こさないように事態をコントロールする手段でさえあるかもしれない。私は、ダブル・バインドは世界そのものの構造に由来するものではないかとさえ思うし、ダブル・バインドから逃れられると考えるのは傲慢か、愚かかのどちらかだと思う。

 そして、愚かであることは必ずしも悪しきことであるわけではない。その突き詰めた先にはあらゆる愚弄を愚弄として受け取らない「聖愚者」に至るだろうから。

 ベイトソンは時間がある種の論理の矛盾を解消するとどこかで書いていた。自分が自分の矛盾を許容できるのは、自分の不甲斐なさと無力を感じているというのが大きいが、急激な変化によらない遠い未来におけるその解消を願っているから。

2023/5/9

最大の「煩悩」のための、最大の「悟り」

 ではこのような前提から世界市民思想を構築する場合、それはどのような形態になるだろうか。
 私は世界市民思想は「種々ありうる自由のうち、世界に存在するすべての生命体が時間を超えて望む自由を得ることを目指す」思想となるのではないかと思う。自身の自由と同時に現在と未来のすべての他者の自由を尊重しなければならないということだ。

https://note.com/kasamaru_hatsuka/n/nb0df756d5225

 自分自身で考えた「世界市民思想」が「悟り」やガンディーの言うような「真理」と真逆の方向にあることに気がついた。 

 ガンディーの「真理」は「スピノザの神」を肯定することと似た境地にあるのではないかと思った。欲望の第一の条件は欲しているものがそこに「ない」ということ、「ありうるがない」という眼差しを向けること、決して世界に存在しない「存在しないもの」を見出すことだろう。これに対して、世界そのものである「スピノザの神」はそのような「欠如」の認識、「他に取りうる可能性」の認識を拒絶し「満たされた世界」を提示する。
 翻って、ガンディーのように厳しい禁欲を実践すれば、それはおのずと「欠如」そのものの否定となり、その認識と身体は「満たされた世界」に近づいていく。故に、ガンディーの「真理」は「スピノザの神」を肯定することに近い。そして、そのように「他にとりうる可能性」を放棄していくことは「研ぎ澄まされた今ここ」に集中するように「それ自体としてある」こと、「関係の外部」に近づていこうとする試みでなのである。

スピノザの神、ガンディーの真理、「形」なき超人 2023/4/22
セルフレビュー「世界は「問い/答え」でできている 」
https://note.com/kasamaru_hatsuka/n/ne9ba03afb5f8

 これをどのように説明するかというよりも、自らが惹かれているものの、この矛盾は一体何なのか考えたい。私は私に矛盾があることを否定しない。私は自分もその周囲も、一番近くにあるものさえも変えることのできない、凡庸で矮小な、どうしようもない人間だ。

 このエッセイに書かれている自虐は半分は怒りの矛先がないから自分に向かっているのもあるが、言葉の綾ではない純然な事実であるところも多い。自分が薄っぺらい人間だとか、知識がないところとかは本当にそうである。虚空にむかって語るおじさんはレトリックで、流石にまだおじさんではないと言いたいところであるが。多面的な意味があったり、たまに新しく見つけたりするので、語り切ることができない。読んでいる人がいるのかわからないけれど、ややこしいことばかりで申し訳がない。

 それはともかく、この矛盾する望みについては、手がかりは自分で考えていたかもしれない。

 そして、このように「万人による闘争」と「コスモポリタニズム」を対比的に考えたとき、その対立が仏教の「苦の世界」とその上での「悟り」「平穏」と対応関係を持ち始めるとは考えられないだろうか。実際にカントが「永遠平和」というものを考えたとき、人間の暴力性が現実的に念頭に置かれていたはずだ。
 あるいは、「コスモポリタニズム」が「関係の外部」と関連があることを、世俗の価値体系を反転させつづけ、家を持たないことで世界を住処としたディオゲネスの振る舞いが示唆しないだろうか。
 「コスモポリタニズム」の実現は仏教の言葉で言えば――ガンディーの言葉なら暴力の可能性に満ちた世界における「非暴力」となるだろう――「悟り」の高次元での実現であるのかもしれない。

未来という「関係の外部」、反転する闘争、コスモポリタニズムと悟り 2023/4/14
セルフレビュー「星たちの光をめぐって」
https://note.com/kasamaru_hatsuka/n/n938c9a26575a

 至極逆説的な話ではあるのだが、ある一者の煩悩であるところの「自由」、それも、最も巨大なそれ、「種々ありうる自由のうち、世界に存在するすべての生命体が時間を超えて望む自由を得ることを目指す」には、おそらく、最も大きな階梯――現在の世界であれば国家――における「悟り」、「永遠平和」を実現する他ありえない。

 なぜなら戦争は人為的に人間の「自由」を奪う最も直接的で強力かつ悲惨な手段を行使することに他ならないからだ。「永遠平和」は私の望みのその最低条件ですらあるだろう。

 万人による個の「悟り」はそれに近しいものに近づいていくのはいいかもしれない。しかし、それが必ず必要だとか、必ず目指すべきものなのかと言われるとそうではなく、その強制は悲惨な結果になるように思う。ただ、けれども、すべての国家について私はそれらが「永遠平和」を目指し続けることを望む。

2023/7/6

「正しい価値」の不在

 ほかに書くところがなく、ここが一番トピックがあっているのでここに書く。

 商人資本の価値体系を超える交換が詐欺でないのは、そもそも「正しい価値体系(正しい価値)」というものが、どこにも存在しないからであると思う。究極的には「絶対的な正しさ」がないがゆえに「詐欺」も起こらない。

 「価値(体系)」は概ね、ある一者の存在する社会的、物質的な立場と選好性によって構築されるものであり、どの立場からも普遍的に共通する「価値」は存在しない。価値は種々の交換の条件によって生まれる。それがありうるには「作られる」ほかない。それは「「よい」と「悪い」のリヴァイアサン」の帰結でもある。

 価値の低いものを高く売ろうとする「詐欺」が常態化しないのは、それが常態化してしまう場合、単純に人がそのものを買わなくなるため、それが人の生活に根付いているから、他の物の値段も合わせて上がるからではないかと思う。そうして、市場においてはそのように事後的に「正しさ」が作られる。

 それは価値において、根源的には人が自由であるということの裏側ではないだろうか。

 あるいは、過去の共産主義国家や計画経済の試みとは、視点を変えれば「正しい価値体系」を現出させようとしたとも言えるのかもしれない。

2023/7/8

批判(吟味)から理解が生まれるということ、他

 ソシュール-丸山圭三郎は言語のある項が実体的にではなく、ネガティブに定義されることのたとえとしてこれを用いているので、そっくりそのままとはいかないでも、現在の世界は国家という風船が敷き詰められた箱なのではないかということだ。あるいは「国家は他の国家に対して国家である」ということも考えれば、あながちこのメタファーは馬鹿にできないところがあるかもしれない。

世界という風船の箱、勢力均衡、バンコール 2023/3/15

 宗教的原理主義や世襲的な政治、絶対王政、ポピュリズムのような統治体制が今なお現れ存続していることは、柄谷行人の分析を現在に当てはめることが可能なことを如実に示していると思う。重要なのは、それを「時代錯誤」と批判(非難)するだけではなく、それが生まれつき存続する諸条件が過去現在にあったことを認め、それを批判(吟味)することだろう。

 それは他者を理解するということである。他者の理解とは、その言葉の響きとは異なり、批判(吟味)の結果生まれる。

 絶対王政とともに形作られた主権と国民国家というものを揚棄できれば一番だけれども、そんな方法がありうるのかはよくわからない素人。

 交換様式Dの成立が人間の力によってはなされない、「向こうからくる」というのは、それが世界に存在する共同体と人間の関係性によって成立するものであるから、という仮説が成り立つかもしれない。現在の世界も、あるいは国家も、その意味で共同体と人間の関係性によって生まれたもので、ただ純粋な人間の意志によって生まれたものではないと言えるだろうし。

2023/7/15

他者を認めるということ

 宗教的原理主義や世襲的な政治、絶対王政、ポピュリズムのような統治体制が今なお現れ存続していることは、柄谷行人の分析を現在に当てはめることが可能なことを如実に示していると思う。重要なのは、それを「時代錯誤」と批判(非難)するだけではなく、それが生まれつき存続する諸条件が過去現在にあったことを認め、それを批判(吟味)することだろう。
 それは他者を理解するということである。他者の理解とは、その言葉の響きとは異なり、批判(吟味)の結果生まれる。

批判(吟味)から理解が生まれるということ、他 2023/7/8

 交換様式論においても、柄谷行人のテーマは規則を共有しない他者とのコミュケーションという点で一貫していると言える。彼が問題とするのは、交換様式ABCの統合体であるが、それはそれ自体として問題となっているわけではない。それらが割拠して対立し合う現状が問題となる。

 言わずもがなA、ネーションは想像の共同体であるし、B、国家もまた共同体であるし、C、貨幣経済は共同体と共同体の間に始まるものだ。交換様式という概念設定の中には規則を共有しない他者の間でのコミュニケーションの問題が通底にある。ここから、Dの実現の暁には規則を共有する者同士の自己対話ではなく、規則を共有しない他者との対話が伴うこと、規則を共有しない他者の調和が予見される、ないしその実現こそがDの実現でもある可能性さえあると私は思う。

 他者は他者としてそれ自体として存在するわけではない。他者が存在するとき、それが共同体であれ、規則であれ、その周囲との関係性においてそのものとしてある。「規則を共有しない他者」とは他者にそのような「関係」が存在すること、他者が「関係のうち」に存在することを含意している。規則とは関係の仕方の束であるから。

 交換様式Dの探究はその意味、そのレベルで、規則を共有しない他者を認めるその仕方を探っているのだと、私は思う。

2023/7/23

コミュニケーションの貨幣

 交換様式Dの探究はその意味、そのレベルで、規則を共有しない他者を認めるその仕方を探っているのだと、私は思う。

他者を認めるということ 2023/7/15

 規則を共有しない他者とどうコミュニケーションを取るのか、それは互いの自由を認め合うということによってだろう。自由は規則を共有せずとも、相手がそれを保有していることがわかる、あるいは相手の存在を認めるということは、自由を認めるということに他ならないから。自由とは、規則を超える基礎、間共同体コミュニケーションの貨幣なのだと思う。

2023/7/30

「道徳」と「正義」の実体の解体

 とどのつまり、「ミッシングリンク」で提示した比較と選択の見地から「正義、善、悪、徳、より良い、価値が高い…」といった概念を読み解くならば、それらは特殊的で、相対的でその判断を下す基準と判断者にまつわる状況に固有な"比較行為"であると見れる。そして、それはまたある主体や行為者が何らかの判断基準をもとになにかを選択する行為、その「選択の偏り」であり、それが繰り返されるときは「選好性」であると見れる。

https://note.com/kasamaru_hatsuka/n/nb0df756d5225

 「「よい」と「悪い」のリヴァイアサン」はニーチェの『道徳の系譜学』を洗練させようとしたようなもので、「正義」や「善/悪」や「徳」の実体を解体するための議論であり、それらの遡行的モデル生成の議論なのかもしれない。

 私としてはこれは「徳」を破壊する議論というよりは、「正義」や「徳」そのものの性質を明らかにするためのもので、どのようにして様々な「正義」や「徳」を調和させるのかということを考えるための、一つの手がかりにしようとしているけれど、どんなふうに見えるかは知らない。

共同体を形作るもの

 この風船の敷き詰められた箱というイメージは「よい」と「悪い」のリヴァイアサンで描写される世界の均衡の側面を別の角度から描いたものであると思う。「よい」と「悪い」はある階層の風船の内外に対して自己自身の形を任意の状態へと実現しようとする抵抗であり、ガバナーであろう。それは外部の他の風船の動きと調和するとき、秩序が維持され、不一致となるとき、テンションを高める要因となり、最悪の場合、破壊をもたらすだろう。つまりは、それが一時的であれどうであれ、他の項との関係性を考慮しない倫理は不和をもたらすのである。

 だから、私自身は、何が望ましいかはさておき、「よい/悪い」を風船の外部に持ち出すことには慎重さを伴うべきだと思う。部分を変えることで全体が揺れ動き破損する可能性もあるのだ。

世界という風船の箱、勢力均衡、バンコール 2023/3/15

 「よい/悪い」とは共同体のアイデンティティそのものであり、その価値や徳の遂行そのものが、その共同体を形づくる、と考えて差し支えない、と私は思う。「よい/悪い」は共同体を組織するところのものであるから、それを根本から変えるのは何らかの大きなショックを伴うだろう。

 LGBTQの受け入れを拒むような反応はその典型例だろう(一応私はLGBTQの受容に反対しているわけではないと明示はしておく。)。

 「自立した個人」という観念が浸透していないところでは、共同体の徳の変化は「対象」の「変化」として見られることがないだろう。実際に変化が起こると、それはおそらくは「世界観」そのものの崩壊に近い体感ではないかと思う。例えば日本の敗戦後の教育の変更はそういうものだっただろう。

 何が「よい/悪い」かはさておき、そういったものだと考えておくべきだろうと思う。

2023/8/6

コスモポリタニズムの射程

 ただ、例えば「細菌」が生命として認められたならばその自由を考慮すべきなのか?などと考えたとき「考慮すべきだ」と考える。
 それは例えば人類が細菌を殺すとき、利害を共有しない種以外に対しては善として正当化することはできないということであり、不必要に根絶すべきではないということだ。殺菌は菌にとっては悪にほかならないだろうから、「善/悪」に相対性を持ち込むということは、そういったことでなければならない。

https://note.com/kasamaru_hatsuka/n/nb0df756d5225

 コスモポリタニズムが人類以外の生物を含まなければならないのは、それが世界市民を対象としなければならないことから、必然的に導かれる。それは地球外生命体の中で優れた知性を持つ生物がいたと仮定するとわかりやすい。その種はおそらく人類ではないし、どのような形をしているかはわからない。しかし、世界市民思想がその種を排除するはずもなく、むしろその種と共同で構築できるものでなければならない。

 そして、仮にその種と交流を持たなければならないとしたら、人類だけを対象とした思想はその他星人との関係性において、ナショナリズムと変わらない代物に変化するだろう。だから、コスモポリタニズムは論理的に考えて、人類以外の種も考慮に入れなければならない。

優れた批判、お待ちしています

 また、ここで現在と未来の世界市民に焦点を絞るのは、この世を去った過去の世界市民にはもはや自由が残されていないからだ。無論、現在の世界市民が過去との関係を重視するなら、現在と未来に存在する他の世界市民との関係を考慮した上でそれは尊重されなければならない。

https://note.com/kasamaru_hatsuka/n/nb0df756d5225

 コスモポリタニズムが過去との関係を擁護可能なことを示そうとしたのだが、過去を擁護することの意義について、これを書いたときに頭になかったことを、宮台真司が論じていたので、それを貼り付けておく。

…前置き的なコメントをすると、キーワードは保守主義だと思います。エドマンド・バークがフランス革命の同時代に提唱した考え方です。これは伝統主義とはまったく関係がなくて、「我々の理性のキャパシティが限られているので、長く続いてきた社会のゲームがなぜ続いているのかを我々は理解できない。だから、社会を一挙に変えるのではなく、少しずつ変えるべきだ」という思考です。
これはインクレメンタリズムとも言われますけれども、何かを変えるにしても、だんだんと行うことが必要なんだということですね。これは、もちろん分析を放棄していいということではなく、その逆で、我々が知的な限界を抱えているからゲームが長く続く理由が簡単には理解できないと言っているんであって、むしろ知的な分析をし続けることを推奨しているんです。

宮台真司氏が指摘する、歴史的に長く続いているものの価値
持続したものは、一挙にではなく徐々に変えたほうが良いワケ
https://logmi.jp/business/articles/327421

 保守主義について全く頭になかったことなので、この記事を読んだときに目を見開かされるように思えた。自分とは全く関係のない記事なのだが、そういう体験をさせてもらえるということはとてもありがたい。

 私のエッセイはnoteのアクセスカウント上、ほとんど自分以外には誰も読んでいないのだけれども、もしも万が一読んでいる方いれば、わかりきったことではない、何か私の気づいていないことを知らせてもらえるような、優れた批判はいつでもお待ちしています。

2023/8/15

問いと行為、比較の経済性、間を貫く「関係」

 このようなケースを考慮するとこの場合でも、潜在的に比較尺度、可能性の集合はさし当てられているのがわかるだろう。実際我々は「答える」とき何らかの「情報」――思い浮かべるかどうかは別として、それは事実「全ての情報の集合」から選択される他ない――を選んで提示する。
 前者、言語による「問い」は可能性の列挙を省略可能な場合のある「問い」の形式で、後者、自然の中の「問い」はそれを省略することのできない「問い」の形式であると言える。これはこのセルフレビューの最初にある「比較器」と「比較尺度」の概念の差異の曖昧さを解消するものだ。前者は本質的な「問いの条件」しか備えていないが、後者は「技術的に準備するもの」を備えているのである。

問い、指し示すところ
2023/5/6
セルフレビュー「世界は「問い/答え」でできている 」
https://note.com/kasamaru_hatsuka/n/ne9ba03afb5f8

 そして、ここではある主体や行為者が前の時間から引き継がれている現在の状況から自身の創造できる選択肢を「自由」と呼び、「自由の行使」をそのなかから一つの行為を選択し、未来を生む行為と考える。このように自由を考えると、比較と情報と関係の形式、そしてゲーム理論におけるプレイヤーの取る手の考え方と形式的に同一性を持つようになり、おそらくあらゆる主体や行為者の行為を形式化することができるだろう。

https://note.com/kasamaru_hatsuka/n/nb0df756d5225

 このような「問い」の経済性、選択肢の検討にかかわる議論はそれが能動受動の対称関係にあるがゆえに、翻って、自由の行使、行動の選択にも適応可能となる。

 つまりは、例えば「阿吽の呼吸」などと表現されるような状況、コミュニケーションと行動の選択、それらのような選択肢の検討を行うことを排除する場面がありうる。

 そして、逆にあらゆる選択肢を検討していく場面もまたあるということだ。それは「比較の経済性」という言葉で表現できると思う。

 また、能動受動と二分割してきたが、実際のところ、それは「受動/能動」と「情報/物理」の次元を軸に以下のような4象限をなすだろう。

1.受動/情報
 情報の受信
2.受動/物理
 影響をうけること
3.能動/情報
 情報の発信
4.能動/物理
 影響をおよぼすこと

 以上のどれをも通って「関係」という概念が一つの軸として貫いている形になる。そして、視点を関係の連なりにフォーカスしたとき、「受動/能動」という区別の絶対性は消失するだろう。

2023/9/23

存在の真理、闘争の消失

 実際に多世界解釈が事実なのかどうかは、はっきり言って私にはわからないが、倫理はたとえそれが建前であったとしても、他者と共有するただ一つのこの世界の取りうる状態を奪い合うという――いたるところにあり、そしてどこにもない暴力――選択の暴力、その根源的経済性、根源的闘争の中でのみ意味をもつことになるのであり、寧ろその闘争を前提としない倫理は存在し得ないし、これまでも存在していなかったはずだと私は考える。かなり突飛な議論かもしれないが、このように見れば、この根源的闘争がなければ倫理を論じる意味など全くなかっただろうことがわかるだろう。

https://note.com/kasamaru_hatsuka/n/nb0df756d5225

 この根源的闘争、他に取りうる可能性を奪い合うという、どこにでもありどこにもない闘争は、統整的理念としての存在の真理においては消失することがわかるだろう。

 存在の真理においては、他に取りうる可能性、欲望、そこにないものを見ることは否定される。故に選択そのものを否定せんとするために、闘争は消失ないし、少なくとも緩やかなものへと軽減されるだろう。

2023/11/23

カントのアンチノミーと関係論

 関係という視点は一つのアンチノミーを提示する。そして、それはカントのアンチノミーうち、自由と世界の始まりの二つがその問題のバリアントであることを示すだろう。以下の二つの命題の。

  1. 我々は常に関係の末端にいる

  2. 我々は常に関係の中にいる

 1.我々はいつも選択を生む選択の、関係の一方の側にいる。だから、その関係の他方の向こう側を完全に制御することはできない。アリョーシャがネギを差し出すというときの見地は以上のアポリアの行動(物理)の次元での現れであり、認識(情報)の次元でのその現れである独我論の決定不可能性の原因である。

 2.我々は常に関係の中にある。我々は常に何かと何かの間にいる。その様子は禅問答の問い、拍手をしたときに、右の手が鳴ったのか、左の手が鳴ったのかを答えられないのと似ている。認識が現実そのものなのか、そうでないのかの区別がつかないということは、これの認識(情報)の次元での独我論の決定不可能性の結果であり、我々が正常に日常生活を送れるということは、その行動(物理)の次元での現れである。

 我々は関係の末端にいるということと、我々は常に関係の中にあるということ、これは見地の取り方から発生する2つの立場であり、どちらも否定できるものではない。それは事前の立場と事後の立場の違いでもある。

 これらは自由に関するカントのアンチノミーの別表現である。また、これはそれが物理的に正しいかは棚上げするが、世界の始まりに関するカントのアンチノミーの別表現でもある。そして、自由がこのアンチノミーの中にあることは、責任の概念が同様にこのアンチノミーの中にあることを示す。つまり、以下のようなことを。

  1. 関係の一方の側にいるということ、それは自由を持つ実存的な主体として存在することであり、そこから責任が発生する。

  2. 関係の中にいるということ、一者が自身が定位する場における周囲との関係によって動かされるということ、そのような者に自由はなく責任は存在しえない。

 責任の概念はこのアポリアのうちにあり、その両者とも退けることは難しい。何かの出来事の「原因」をどちらか一方に完全に帰することはできない。故に私たちは常に一者とその周囲との関係の両者を同時に問わなければならない。

2024/1/20

相対主義、相対性、絶対性

 では「善/悪」や「よい/悪い」といった道徳的な判断や価値判断を行うとき、何が行われているのだろうか?そこには第一に判断を行う主体や行為者が存在しなければならない。そして、主体がそれについて判断を行う対象が存在しなければならない。最後に、それが気まぐれなものでなければ、その一者が判断を行う理由や比較尺度などの基準が存在しなければならない。自明なことではあるが、善と悪はその背景に、少なくとも必ず判定者、判定の対象、判定の基準、この3項の関係が存在し、「善/悪」は、この判定者による行為から生まれる4項目の関係となる。
 しかしながら、判定の理由や比較尺度、判定基準が言語化できた場合、判定者は誰であっても変わることなく判定できるために、判定者は捨象可能である。簡略に「善/悪」は判定の対象を判定の基準に照らし合わせたときに生まれるものとして、2項関係のうちから生まれる3項目とみなすことも可能だろう。また、判定の対象が自己である場合もあるが、その場合は自己は判断者によって認識の媒体上で客体的に見られているはずであるから、この3項関係は揺るがない。
 この3項関係は、「よい/わるい」が常に認識対象と基準の2項間の関係であることを超えるものではないということを含意するだろう。自明なことであるが、判断基準が変われば何が「よい/わるい」かは変わる。これは資本主義がイデオロギーでないのと同じように、相対主義というようなイデオロギーではなく、「判断を行う」という仕組みのあり方の普遍的条件であると私は考える。この相対性を「相対主義」であるといい、それに対する別の見地を提示する場合、「判断の対象」、「判断基準」、「判断者」という3項関係なしに「善/悪」判断が可能であることを示す必要があると思われる。

https://note.com/kasamaru_hatsuka/n/nb0df756d5225

 何でもありという意味での相対主義を批判するのは問題はないと思う。しかし、相対性を否定することには慎重な判断が必要になる。相対性とは「一方が定まれば他方が定まる」性質、その関係性のことであり(これはほんとんど「関係」の定義そのものであることに注意してほしい)、「何でもあり」ではない。

 逆に相対性の否定とは絶対的であること、つまり「他方がどのような状態であっても、もう一方が変わらない」という硬直的な状態のことを指す。そのような絶対性自体もまた単純に否定できるものではない。

 あらゆる絶対性を否定すると、例えば日によって1cmの長さが変わるなど壊滅的な混乱が発生する。自分も気づくまでずいぶんと時間がかかったのだが、ポストモダニズムの言説にはこれに似た何かがあるように思う。ある種の哲学の論争の中には喩えて言うなら「ヤード」と「メートル」のどちらが正しいのかを延々主張しあっているようなものがあるように思える。しかし、絶対性の無条件な肯定は、原理主義的な肯定に近く、状況に応じて柔軟に判断を変えることを放棄する安直な思考停止などに繋がりかねない。

 ただ言えることは、相対主義の批判は、安直な相対性の否定、絶対性の礼賛であってはならない。絶対性の批判もまた蒙昧なものであってはならない。

関係としての善と悪

 では「善/悪」や「よい/悪い」といった道徳的な判断や価値判断を行うとき、何が行われているのだろうか?そこには第一に判断を行う主体や行為者が存在しなければならない。そして、主体がそれについて判断を行う対象が存在しなければならない。最後に、それが気まぐれなものでなければ、その一者が判断を行う理由や比較尺度などの基準が存在しなければならない。自明なことではあるが、善と悪はその背景に、少なくとも必ず判定者、判定の対象、判定の基準、この3項の関係が存在し、「善/悪」は、この判定者による行為から生まれる4項目の関係となる。

https://note.com/kasamaru_hatsuka/n/nb0df756d5225

 善と悪はあるものや主体に属するものではない。それはあるものや主体と他のものとの関係に属するものである。一般的に通用する道徳の規範というのは、そのような関係が集積され、集合合理性を持つようになった貨幣に近い。貨幣の交換が完全でないのと同様にそこからこぼれ落ちるものがある。

カントのアンチノミーと関係論についての追記

 関係という視点は一つのアンチノミーを提示する。そして、それはカントのアンチノミーうち、自由と世界の始まりの二つがその問題のバリアントであることを示すだろう。以下の二つの命題の。
 1.我々は常に関係の末端にいる
 2.我々は常に関係の中にいる

カントのアンチノミーと関係論

 関係の末端あることと関係の中にあること、能動/受動態と中動態の対立は概ねその問題に換言することができる。前者と後者はそれぞれ対応しているということで。

関係のアポリア

関係から何かを切り出すことは暴力的であり、
一切を関係から切り出さない者に自由はない。

その他行き場のない雑記

全体と限界の向こう側

 知の探究は「全体」を定めながらそれを否定するダイナミズムである。知の探究、関係の探究は関係の集積である集合合理的な実体に近いものを追い求め、それと同時にある項のその次の他の項を求め探してしまう。それは「始まり」「終わり」「果て」「限界」を定めると同時にその「向こう側」の存在を仄めかす。

言語と実存

言語は実存と社会のはざまにある。
それを結び合わせ、両者を成立させるもの。

意志、必然、偶然

 意志と世界の関係は必然と偶然の間にある。状況とスケールによってどちらが優位かは変わる。足掻き、諦め、「信じること」と「信じないこと」、精神の自己実現と偶然による自然選択、その間に人の多様な姿勢が生まれる。

定義はなぜ重要なのか

 定義がなぜ重要なのか、それは比較尺度の言葉で言えば、言語において単位を定めることと等しいからである。それをもって何かを「知る(選択する)」ために必須の行為である。定義が曖昧な言説は何かを指し示すことができず、何かを測る事ができず、正しい選択をすることができない。

限りないもの

 あらゆる意味において限りないものは認識することができない。認識とは識別することであり、それは限界を定めることだから。

信任論と他者

 岩井克人の法人論の議論には信任のトピックが最後に登場する。それは、とどのつまり、人は他者の理性、他者の自由への強制不可能な期待を持たざるを得ないこと、法人も人間も一人では生きられないということ、自力の限界を悟ること、この世界で日常的に限界を超えた跳躍が行われており、失敗したり、成功したりしていることを示すものだろう。それは、醜聞や不正と平凡な誠実にまみれた日常の奇跡を示すもの。

 ある意味で、そこにおいて岩井克人もまた、他者とのコミュニケーションの問題に直面していたのではないか。

2024/4/27

ひとつの誤り

 このような前提のもと、善悪に頼れないと仮定したうえで、私たちは何を目指すべきなのかということについて私見を述べたい。

3.世界のかたち、世界におけるかたち、「よい」と「悪い」の織りなすかたち

 善悪について私は誤っていただろう。自由を目指すということ自体は誤りではないと思うが、その場合でも理念を目指す以上は善悪が生まれる。絶対的な善を知らず、それにたどり着けないということは、それを目指すことを諦めていいい理由にはならない。

 ソクラテスは不知を自覚してもそれを求めるのを諦めたわけではなかっただろう。寧ろ、それにたどり着かないことを知りながら、自身の限界を知りながら善を求めることそれ自体が倫理なのかもしれない。

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