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自分とは何か? 多様な認知特性・無数の納得へのルート

自分とは何か? Googleで検索しても答えは出てこないと思うんですよね。 もしかしたら、ChatGPTなら、インタビューをさせることで、自分とは何かに気がつくヒントは得られるかもしれないけれど。文学・哲学・心理学・教育学・宗教などの領域で、扱われることが多い、普遍的な問いだと思います。かつ、誰かに正解を教わることではなく、自分で納得いくまで探すものでもあります。

私の場合は、一般的ではない育ち方をしており、 早く大人になる必要があったので、 本を読んで探したずね、河合隼雄の話す無意識やカミュの言う実存など多くの栄養源から、自分の言葉による自分を見つけることを意識しました。

「誰が何と言おうと、自分は自分の味方」だという自分の核になる部分、あるいはテコを動かすための足場になる部分が、私にとって自分のイメージの入り口でした。

様々なことが重なり、メンタルヘルスの問題を抱えたので、 「誰が何を言おうと、自分は自分の味方」という部分が崩れるということが、第2のスタートラインでした。 じゃあどうすればいいんだというと、結論は客観視をメタ構造にすることです。客観主のメタ構造に関しては、「メタ認知」でググっていただくと、参考になるのではないかと。言い換えると、適切に自分を疑うスキルを練習しました。 疑いすぎれば何もできなくなるし、疑わなさすぎればチェックが甘い。また、疑いすぎて自己肯定感を壊すのも問題ですが、客観視を怠るとナルシズムや自己憐憫に陥ると私は警戒しており、適切な疑い方、客観視のバランスを調整し続けました。

客観視の練習を行えば、自動的に自分は誰か理解出来ます。なぜなら、客観視で観察する対象は自分であり、客観視を行うのも自分なのですから。

だから自分探しとか、自分とは何かと言われてもピンとこない面も有ります。切実さは察するのですが、どこまで逃げてもついてくるものが自分だから、隣や背後にいるじゃんと、思うのです。自分とは何かを問うのはその方の「自分」ですし。自我や主体を全部ひっくるめるわけだし、お酒を飲んでリラックスしたとしても、そのお酒を飲んでいる自分も、お酒が覚めた自分も、全部自分は見ています。でも、納得いかないのでしょうね。

なぜなら、僕らは認知特性が違うので、人によっては「自分は自分だよね」と言えばそれで通じる面が有るのですけど、抽象的すぎると感じる方が多いはずで、「それじゃ何も言ってないのと同じだよ」と、世界を放浪したり、勉強したり、仕事に打ち込んだり、 いろんな方法を通して、「ああなるほど、これが自分か」という、手応えある納得を必要とするのでしょう。
青い鳥は最初からここにいるけれど、探究した過程が大切だ、とも言えそうです。

ちなみに、客観視の効率を求めるなら、認知行動療法の7つのコラム法を試すことを勧めます。認め難い自分が可視化され、そこに反証を書く取り組みなので。こつこつ、ドリルを解くように反復練習すると、客観視の習慣化を行えます。少なくとも、Googleで検索するより、確実に自分とは何者かを把握出来ると思います。

そう考えると、自分とは何かということを把握し、理解すること、つまり「自己の確立」は、21世紀になってテクノロジーが進歩しても、 一人一人にとって、一大事業だという点は変わりませんね。Tシャツ短パン姿でサンダルつっかけて、近所のコンビニでアイスやソフトドリンクを買うついでに、「自分」も見つけて、 税込み550円で買って帰ってくることは、残念ですが取り扱いが無いので。

(なお、今回は、自分と自分の関係に絞りました。社会と自分の関係も、大きな要素になります。)

自己の確立をして、自己理解が深まると、他者の理解も深まるから、やりがいありますね。



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