「やってみなければ分からない」ということ
「やってみなければ分からない」という言葉を、文脈で意味を変えてみると、発見があります。
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例えば、ガソリンスタンドが、火気厳禁なのにライターを握りしめて「やってみなければ分からない」と、思い詰めた目で口走ったら、怖いですよね。無機物が話してるし、ガソリンの取り扱いはルールを守るべきだから。
試すまでもないこと。
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なら、ロシアンルーレットはどうでしょう。正確に確率通りに、5/6は助かり、1/6は命を落とす。確率の問題ではなくて、ロシアンルーレットに相当することを人生に持ち込まなくていいと思われませんか。
1/6でも当たれば致命的なことは、自明です。
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では、「やってみなければ分からない」を、PDCAのように仮説を立て、実際にやってみないと判断できないくらい、十分に準備されている場合は、安心ですよね。失敗するかもしれないけれど、出来る限り備えてある。
無策ではなく失敗も含めて活かす体制がある。
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そして、僕らは苦しくて足が止まることがあるから、足が止まってしまった仲間を「やってみなければ分からない」と気休めで勇気づけることはどうでしょうか。
足が止まっても友情は変わらないけれど、足が止まるほどの環境や状況にい続けてしまうから、自分をそこに固定しない方がいいことを、負担がないように、そっと手渡せるのなら。
機会損失の他に、失うものがある。
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そして、気休めのこと。一見無責任な言葉で、根拠はないかもしれないけれど、実際に友達から気休めの言葉を受け取り、気が休まることはあるわけです。
比喩的に足が止まるくらい心が苦しい時に、気が休まることは十分価値がある。
このように、「やってみなければ分からない」は文脈により意味が異なりますし、それぞれの日常や場面で文脈も異なるのです。言葉の複雑さを思います。
でもだからこそ、「やってみなければ分からない」をご自身の日常でどう用いると心地よいのか、やってみないと分からないですね。