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子どもから始まる愛と貨幣の運動


1.モノではなく流れを観る

子ども政策で有名な明石市の元市長の泉房穂さんが、2022年に「子ども家庭庁」の設置に伴って参議院内閣委員会に参考人として呼ばれた際に、「お金がない時こそ、子どもにお金を使う」というような発言をしました。

これは分かるようで分からない、なかなか理解しづらいロジックかも知れませんが、非常に大切な考え方だと思います。

整体の創始者の野口晴哉は、自宅の井戸の水が涸れかけたとき、家族で集まって「しばらく水を節約しよう」と家族会議をしていたら、「そんなことをしていたらますます水が涸れる。どんどん使うんだ!」と怒ったと言います。

家族は「いったい何を言っているんだろう」と思いつつも、でも先生が怒るからと節水することなくいつも通り使っていたら、水が戻ってきたそうです。

まあ、それはちょっと極端な話のような気もしますが、でも「流れ」という現象においては、確かにそのようなところはあるのです。

私たちは「お金」というと現金紙幣を思い浮かべて、モノとしてイメージしてしまいがちですが、どちらかというとお金というのは、私たちのあいだをぐるぐると巡る「流れ」としての性質の方が、その本分に近いのです。

そのような流れというのは、流れているところに集まり、流れのないところは詰まったり涸れていったりするものです。ですから「流れが来ないから」と言って渋っていたら、ますます流れが涸れていくのです。

野口晴哉という人は、徹頭徹尾、気しか見ないし、流れしか見ないような人だったそうですから、井戸が涸れても、人が病気になっても、お金を見ても、そこに同じことを見たのでしょう。

「元気になったら動きます」という人に「動くから元気になるんです。動きなさい!」と叱り、「足が治ったら歩きます」という人に「歩くから治って丈夫になるんです。どんどん歩きなさい!」と叱った野口晴哉の哲学は、一見乱暴にも見えますが一貫しています。

卒業した弟子のところに顔を出したとき、人が大勢いて賑やかで活気に溢れる様子を見て「こんなに繁盛しているなら金は無いだろう」と弟子に言い、そのお弟子さんも「よく分かりますね。その通りです」と笑ったというエピソードがありますが、見つめるところがまったく違うのです。

人の住まない家がたちまちボロボロになっていったり、橋を保存するために通行禁止にしたらあっという間に劣化していったり、純粋な「物」ですらそんな現象が起こったりもするのですから、町や国といった有機的な共同体においてはなおのことでしょう。

2.信用貨幣という人間関係の一表現

それで、先ほどの「お金がない時こそ、子どもにお金を使う」ということの理解を進めるために、私たちはそもそも「貨幣とは何か?」というところから理解をした方が良いと思うのです。

日本の現金紙幣には「日本銀行券」と書かれています。

その意味するところは「日本銀行の発行する債券」ということなので、日本銀行の貸借対照表(バランスシート)を見ると、現金は右側の「借り方(負債)」の項目に記入されています。

つまり「現金というのは日本銀行にとっては負債」なんです。

ちょっとややこしいんですけど、分かりますかね? 「現金が負債」って、たぶん空想が追いつかないですよね。

でも例えば「デパートの商品券はデパートにとっては資産ではない」と言えば、分かりやすいですかね?

自分が作ったその紙でモノは買えませんが、でもその紙を持ってこられたら自分の資産を差し出さなければならないんだから負債ですよね。

お金というのは、誰にとっても「資産」であるかのように思ってしまいがちですが、実はそうでなくって誰かにとっては「負債」なんです。

ある人の背負った負債が、それ以外の人にとっての資産になるのです。それが信用貨幣という現代のお金の成り立ちで、現実にそのように生まれています。

そうして生まれたお金は、人から人へと巡っていって、やがて負債を背負った人の元に還っていったとき、そこで生まれたときの双子の相棒である負債と相殺されて消滅する(チャラになる)のです。

「借りは返したぜ」ってことです。

デパートも、還ってきた商品券は大事に金庫にしまうのではなく、破って捨てるのです。そうやって商品券の旅は終わるのです。

つまり「お金」というものは、負債と資産という異なる方向に同時に伸びる貸借関係の一表現であり、そこを起点にぐるぐると巡っていきながら、私たちのあいだのさまざまな関係を取り持っていく、一つの「流れ」なのです。

こと私たちの持つ現金に関して言えば、日本銀行が負債を背負ってくれているお陰で、その分の現金紙幣が日本国内に流通することになり、私たちの資産の一部となって、そして日本の経済活動を支えてくれているのです。

つまり全体として見てみると、どこかで負債として沈んだ分だけ、他で資産として浮かび上がっていて、そうやって全体でバランスが取れています。

その水面より上に浮かんだ部分(資産)だけを、私たちは評価してしまいがちですが、それは必ず水面より下に沈んだ分(負債)だけ浮かび上がっているのであって、その沈んだ部分もまた同じだけ評価されて良いと思うのです。

負債を評価するなんて言われると、これもまた分かるようで分からない、なかなか理解しづらいロジックかも知れませんが、その眼差しは私たちにとって非常に大切な見方だと思うのです。

何故なら、その落差によって人間の未来への運動が始まるからです。

「だれか手を貸して~」と助けを借りたい人がいて、「よし、手を貸そう」と言って動き出す人がいて、そこから生まれる流れがあるからです。その双方がどちらも必要で、どちらも価値あることなのです。

その「借り」をその場で返したらそのままチャラになって終わりますが、「この借りはいつかどこかで返すね」というペンディングによって、他の人まで巻き込みながら私たちをつないでいく流れを生み出しているのです。

3.愛と贈与が大人を育てる

そしてそのような、負債を背負うところから生まれる貨幣の流れは、私の中では「愛と贈与の運動」につながっているのです。

急に話が飛んだような印象があるかも知れませんが、私の中では思いっきりつながっているのです。

どうして人は無力な状態で生まれてくるのか。
どうして人の子どもはずいぶん長い時間、世話がかかるのか。

それは分かりません。分かりませんが、貧しき者や無力な者、誰かの助けを必要とする者がいて、それを起点として人間社会の中に、ある運動が生まれていることは確かなことであるでしょう。

小さな赤ちゃんが一人いるだけで、その場にいる人がみな自発的に何かしてあげようと動き出すのは、とても自然なことではありませんか?

子どもというのはひたすらに愛を施される存在であり、贈与を受ける存在であり、投資される存在であって、それで良いのです。

そうやって子どもたちは、社会的な意味での「弱き者」として、私たち大人から無尽蔵な「贈与の運動」を汲み出しているのです。

無限の債務者です。愛の発行者です。

そんな営みに、経済合理性だの、等価交換だの、稼げる大学だの、そんな概念を持ち込んでくる人間は、かつては自分も子どもであって、ひたすらに周りから贈与を受け取って育ってきた、ということを忘れてしまっているのだと思います。

あるいは「自分は愛されて育った」と、そう思うことができないのかも知れません。悲しいことですが…。

そんなことはないはずなんですけどね。でも怒りや悲しみや寂しさばかりが募っていると、そんな風にも考えてしまうでしょう。もう一回言いますが「そんなことはないんですよ」。

だって生まれたときに無力であったあなたがいま生きている。
それこそがすでに誰かに愛された証拠でしょう。

お腹の空いたあなたにお乳を与え、寒さに震えるあなたに毛布を与え、表現を知らないあなたに言葉を与え、寂しさに泣くあなたに抱擁と接吻を与えた人がいるのです。

そのときあなたに何が返せましたか?

何も返すことなんてできませんよ。いやたとえ返せたとしてもその人は受け取らなかったでしょう。

いったい今までどれだけ多くの愛が自分に向かっていたのか。

この世に生を受けて以来、自分に向かったすべての愛のベクトルとその始点に思いを馳せ、その圧倒的な事実に気づいて途方に暮れたとき、人は初めて大人になるのです。

大人とは贈与する人です。
子どもが、私たちを大人にしてくれるのです。

思い出しましょう。今度は私たちの番なんです。

4.大人がいなくなってしまった日本

ところが現代日本はそんなことをすっかり忘れて、子どもに贈与することをやめ、一消費者として扱って対価を求め、学びすら自分で稼いで支払えと言い、子育ては個人の贅沢とまで言われるようになってしまっています。

そのようにして、子どもを社会で支えることをやめ、自己責任だ自分で稼げだと、子どもたちから「子どもでいる時間」を奪おうとしている私たちは、自ら「大人へと成長する機会」を捨てていっているとも言えるでしょう。

私たちは、かつて見上げたカッコいい大人になる夢を、自ら捨てたんです。何とも哀しいお話です…。

いま日本を覆っている空気は、私たちから愛もお金も活力も失わせ、不幸な子どもたちばかりを再生産する「悲しい子どもたちの国家」となりかけています。

私は日本の政治家たちを見ていても「悲しい子ども」にしか見えないんですよね。もちろん見た目はおっさんだったり、老人だったりするのですが。この国の大人たちはどこに行っちゃったんだろう…と思います。

もちろん、ごくわずかに残っている大人たちもいます。絶滅危惧種です。

これ以上悲しい子どもたちを増やさないためにも、そんな人たちを応援したいと思いますし、また自らも「大人であろう」と思います。

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