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【書評・生活指導】『自由論』から考える生活指導②

前回の記事に「先生政治的強制は”指導””教育”とは呼べない」と書いた。しかし、そもそもなぜ生徒は間違った行動を取るのか。今回は『自由論』の記述に基づきながら、間違った行動の原因という視点で指導のあり方を考えてみたい。

衝動=エネルギー

「人間が間違った行いをするのは欲望が強いからではない。良心が弱いからである。衝動が強ければ良心は弱い、というのは決して自然の道理ではない。衝動が弱いと良心も弱いのである。…その人(衝動の強い人)のほうがより多くの悪をなしうるが、しかしまた、確実により多くの善もなしうる。」

ミルはこのように言う。教育は「より多くの善をなしうる」人を育てるために行われるべきだろう。

しかし私達教員の行う生活指導は、「より多くの善をなしうる」人を育てることよりも、「善も悪もなしえない」人を育てることを目的としてしまっているのではないだろうか。

確かに衝動が弱く教員のいった通り医にしか行動しない生徒が多いほうが楽だ。そして前回の記事に書いた”強制”を行い続けていれば、こうした”楽”な集団が出来上がる。

教員間では、こういう集団を作れる教員が「ちゃんと生徒をコントロールできている優秀な教員」と高く評価される傾向すらある。

しかしミルは「強い感受性(衝動のもとになるもの)を育てることをとおして、社会はその責務を果たし、社会の利益を守るのである」と言う。

なぜなら「無気力で無感動な人間よりも、エネルギッシュな人のほうが必ず世の中に多くの益をもたらす」からである。

「現代人が自分に問いかけるのは、次のようなことである。…何をするのがふつうだろうか。」「人間性を脅かしているのは、個人の衝動や好みの過剰ではなく、それが足りないことなのである。」

これは19世紀に書かれた言葉だ。21世紀を生きる我々が、19世紀と同じ過ちを繰り返してはならない。

良心による衝動の抑制

「他人のために正義の厳格な規則を守る用強いられていくうちに、他人の幸福を自分の目的とするような感情や能力が発達していく。しかし他人の幸福を損ねないものでも、ただ相手を不愉快にさせてはいけないという理由で抑制させられていると、良い意味での発展は何もない。」

良心が弱いから間違った行動をする。ならば私達教員の仕事は、衝動を抑え込むことではなく、良心を強めることだ。

ではどうすれば良心を強められるのか。ミルの言う「他人のための正義の厳格な規則」と「他人を不愉快にさせてはいけないという理由」の境界線をはっきりと見取るのは難しいが、ただ一つ言えるのは良心を働かせ衝動を抑えるよう求められるのは「他人の自由を侵してしまう場合」のみだということだ。

私達教員による指導は「他人を不愉快にするかもしれない」とか、「あなた自身の将来にとって良くないかもしれない」とかいう、勝手な予測によるものが多いように感じる。

もちろんこれらの予測は長年の経験や前例の蓄積から導かれたものであり、ある程度正しいとは思える。しかしこのような理由は、前回の記事に書いた通り、説得には使えても強制には使えない。

また、ひどい場合には「教員を不愉快にさせないため」に生徒への矯正が行われている場合もある。

思い通りに生徒を動かしたい、それによって楽したい、評価されたい。言うことを聞かない生徒はムカつく。だから強制する。

これでは衝動の弱い、善も悪もなし得ない人が育ってしまって当然だろう。

学校において「他人のための正義」の「他人」とは、他の生徒でなければならない。

「大人を不愉快にさせないため」はおろか「大人のための正義」すら、強制の理由になってはいけないのだ。

まとめ

間違った行動を正そうとするのは教員として当然だ。だが、間違った行動をさせないことが大切なのではない。

間違った行動をさせないことを目指して指導すると、衝動も良心も、それらに伴う善い行動も潰してしまう。

衝動も良心も、ともに高める指導が重要だ。そのためには、間違えさせ、間違いに気づかせ、次からどうするべきなのかを「他の生徒のための正義」という観点から議論する。

こういう生活指導が必要ではないだろうか。

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