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小さな雲が二つ【二〇〇〇文字の短編小説 #10】

春の雨がスラックスの裾を濡らし、両の足首が冷たくなったから、余計に気分が重くなった。東京の桜はもう、だいぶ散ってしまっている。牛革のビジネスバッグに隠れていた折りたたみ傘を取り出し、仕方なしに開く。茶色い革にいくらか染みた雨がエクスクラメーションマークのように見えた。

得意先の出版社で七月に出す別冊の見積もりに関して打ち合わせをしたあと、日比谷線の築地駅に向かう道すがらで春雨に遭った。湿った足首が鬱陶しく、細い路地を入ったところの、カウンターだけの小さな喫茶店にもぐり込んだ。業界では四番手か五番手あたりをうろつく印刷会社に就職して三年が経つ。会社のホワイトボードにはあと二件打ち合わせだと記されているが、実際は違う。さぼり方も板についてきた。

ブレンドコーヒーを頼んだ。ネクタイを緩め、ケントの九ミリをくわえた。右手の親指でライターをこする。でも、なかなか火が点かない。ライターを繰り返しひっかく音が誰かの舌打ちのように聞こえる。火を逃したケントを箱の中に戻し、コーヒーをひと口飲んだ。熱い苦味が舌の上を転がっていく。

雨はしばらくやみそうにない。思い出したように、本当は印刷会社になど就職したくなかったんだとうつむいた。子どものころからずっと本が好きだから、自分でも何か書いてみたいと思っている。大学では文学部だったし、卒論では安部公房の『他人の顔』を軸にフランツ・カフカとの共通点を取り上げた。ゼミの教授から「なかなかよく書けてるよ」と言われ、さらにその気になった。小説家になれたら、とぼんやりと夢見ながら、何度かパソコンに向かったこともある。けれども、何も書けなかった。パソコンをにらむたび、最初の一節さえ文字にならなかった。何らかの形で本に関わりたいといくつかの出版社に応募したが、全滅だった。本を刷る印刷会社は、かろうじての妥協点だった。

けれども、小説とは無縁の会社員生活が続いている。担当するのは教育系の雑誌を手がける編集部で、主たる仕事は印刷費の折衷案を出すことだ。何度も何度も落としどころを見つけてきた。心から楽しめる仕事ではない。ただ、退屈すぎるわけでもない。外回りが多く、自分の時間をつくることができる。現に今、こうやってなんともなしにコーヒーを飲んでいる。抜け殻になったライターのせいで、煙草を吸う気にはなれない。

恋人の歌織の言葉を思い出す。冬の夜更け、出し抜けに「三十歳になる前に子どもを産みたいな」と言ってきた。僕は何も答えなかった。そんなつもりは全くなかった。今の仕事が自分の居場所には感じられていないし、まだ何も成し遂げていない。誰かとともに、誰かのために生きる人生なんて考えたこともなかった。会社の同期入社の関係だった歌織とはすぐに気が合い、社会人になってほどなく付き合い始めた。一年後にはどちらからともなく、同棲生活に踏み切った。歌織は半年前に取引先の出版社に転職している。半ば引き抜かれるようなかたちでのキャリアチェンジだった。文芸出版部に配属され、「まだまだ見習いよ」と控えめに話しながら、どこかうれしそうだ。慣れない仕事で毎日が終電帰りという忙しさだけれど、とことんまぶしく見える。

スラックスの裾はまだ濡れている。足首が冷たく、落ち着かない。今日も歌織の帰りは遅いのだろうか。カップの半分が残るコーヒーに角砂糖を落とす。煙草をふかすかわりに、変化がほしかった。申し訳程度の大きさでコーヒーをかき混ぜる。スマートフォンをのぞくと、ベン・E・キングが亡くなってからちょうど八年がたつという記事が目に飛び込んできた。映画の『スタンド・バイ・ミー』を思い出す。高校時代、まだ幼い青春群像劇が気に入って、台詞をそらんじられるくらい繰り返し観た。少年時代の終わりを描いた物語、というのが自分なりの結論だ。

コーヒーカップの底に砂糖が溶け残っていた。歌織の戻りが遅いのなら、どのみち手持ちぶさたになる。パソコンを立ち上げ、何か書いてみようと思い立った。何か書き出してみようと心に決めた。今の僕に何が書けるだろうか。喫茶店を出るとき、ドアベルが鳴った。教会の鐘の音のように聞こえた。

雨はまだ少し降り続けている。どういうわけか、築地駅で日比谷線には乗らず、八丁堀駅まで歩こうとひらめいた。青い傘をさしながら、新大橋通りを進んでいく。歩くたびに水が跳ね上がり、足首がどんどん冷えてくる。スマートフォンの音楽アプリからベックの「ルーザー」が流れてきた。「so why don’t you kill me?」と聞こえるたびに、「子どもを産みたい」と話したときの歌織の顔が思い浮かんでくる。いつの間にか、傘がいらないくらい雨は弱まっていた。ふと顔を上げると、東京駅のほうに小さな雲が二つ浮かんでいる。

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