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地獄に行った男と【一二〇〇文字の短編小説 #2】

その男は「私は地獄に行ったことがある」と言った。どこか誇らしげな口調で。

その夏、僕は旅先のバンゴールの町でふらりとパブに入った。確か、ザ・キャッスルという名前の店だったと思う。夕方、安宿のホテルからふらついていたときにひと休みしようと思い立った。

ビールはドゥーム・バーを一パイント、少し腹が減っていたからラムステーキをオーダーした。

小さな編集プロダクションに就職して三年目、気分転換も兼ねて夏休みにイギリス旅行を計画した。ウェールズの小さな港町を行き先の一つに選んだのは、レコードショップがあるからだ。僕は母親の影響でいろんな音楽をレコードで聴く。旅行の行程を考えているとき、インターネット上を徘徊していると、この町にマッドシャーク・レコーズという店があることを知った。

二人掛けのテーブルにラムステーキが届くと、向かいの席の男が「調子はどうだい?」と声をかけてきた。白髪を肩まで伸ばし、口ひげとあごひげを整えた表情はどこか神々しい。僕は「悪くないですね」と答え、ドゥーム・バーをひと口飲んだ。

「どこから来たんだい?」

「トーキョーからです」

「そいつはすごい。なんでわざわざこんな小さな町に?」

「マッドシャーク・レコーズに行くためにです。めずらしいレコードを何枚か買っていきたいなと思っていて」

「あの店の品揃えは豊富だし、いい買い物ができるはずだ」

僕が黙ってうなずくと、その男は「日本には行ったことがないが」と静かに話し、「私は地獄に行ったことがある」と切り出した。冗談を言っているようには見えなかった。表情は真剣だった。

二十二歳の誕生日の出来事だった、と話は始まった。朝目覚めるとただやたらに広い荒野にひとり立っていて、すぐに地獄だと悟ったという。「地獄はもぬけの殻だ。すべての悪魔たちはこちらにいる、だよ」と男は言い添えたが、僕には意味がわからなかった。

「地獄は静まり返っていて、時が止まっているようだった。どういうわけか、私は毎日先の尖ったシャベルで地面に穴を掘り、そこに水を溜め、水がすべて土に染み込んだら穴を土で埋め返した。そして翌日、また穴を掘り、水を溜め、埋め直してという行為を繰り返した」

僕が「シシュポスが受けた罰みたいですね」と言うと、男は「そうとも限らないんだ」と答えた。「だんだん、私には果てしなく続く作業が何かとても意義があるもののように思えてきた。いま振り返ると、穴と水、それから土は何かの象徴のように感じられる」

「なるほど」と僕は言い、「でもどうやって地獄から帰還したんです?」と訊いた。男は、ある日、自分の掘った穴に入ってみたくなって、思い切り穴に飛び込んでみると、自宅のベッドで目覚めたのだと説明した。それから「君も一度地獄に落ちてみるといい」と告げて去っていった。

なぜか嫌な気分にはならなかった。僕はドゥーム・バーをもう一杯頼み、ラムステーキをナイフで切り刻んだ。

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