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「金々先生栄花夢」①江戸の黄表紙のはじまりはじまり

 恋川春町こいかわはるまち(1744~1789)作画の「金々先生栄花夢きんきんせんせいえいがのゆめ」(1775刊)は、子どもの絵本だった赤本・黒本を、大人の絵本である黄表紙にしたはじまりだといわれる。
 子どもだけの娯楽だったマンガを、青年向けの劇画としたようなものだ。
 「ゴルゴ13」のさいとう・たかをらが、手塚治虫を中心とした丸っこい絵の子ども向けマンガを、角っぽい絵の大人向けの内容に変えた。それと同じようなことが江戸時代にもあった。
 その記念碑的作品を、現代語に意訳し、挿絵も各部分を模写して紹介する。上下二巻の上巻をまずご覧いただきたい。

 



 古き文にいわく、浮世ふせいは夢のごとし。よろこびをなすこといくばくぞやと。まことにその通り、金々先生の一生の栄華も邯鄲かんたんの夢も、粟餅あわもちができるまでのごとし。金々先生は誰ということは知らず。金ある者は金々先生となり、金なき者はトンチキとなる。さすれば金々先生は一人の名にして一人の名にあらず。別の古き文に、これを得る者は前に立ち、これを失う者は後ろに立つと、それこれ、これのことを言うかと。
  画工恋川春町戯作げさく

 

 今は昔、田舎に金村屋金兵衛きんべいという者ありけり。生まれつき心優しく浮世の楽しみをつくしたいと思えども、いたって貧しく思うようにはいかない。よってつくづく思い、都会へ出て金を稼ぎ、出世して、思うままに浮世の楽しみを極めようと、まず江戸へ向かって行きければ、有名な目黒不動尊は運の神様なれば、これに運を祈ろうとしけるが、はや日も暮れ、ちょいと空腹になりければ、名物の粟餅あわもちを食べようと立ち寄る。
 そもそも目黒不動尊は霊験れいげんいちじるしく、あまねく人々の知るところなり。本尊ほんぞん慈覚大師じかくだいしの作にして、寺を龍泉寺りゅうせんじという。ここの名産、粟餅あわもちならびに餅花もちばなというものあり。割った竹の中に、赤・白・黄の餅を花のごとくにつける。よって餅花もちばなという。
金兵衛「なんでも江戸へ出て、店の番頭になって、お金をちょろまかして金をため、ぜいたくをしたいものだ」
金兵衛「もしもし、何時頃でしょうか。ちょっと粟餅あわもちをたのみます」
女「あい、おおかた昼過ぎでござりましょう。奥へお通りなさりませ」 


 金兵衛きんべい、空腹のあまり、粟餅あわもち屋の奥座敷へ通りけるに、粟餅あわもちはまだできず、しばし待つうちに、旅の疲れにや、少し眠くなるまま、そばにある枕を引き寄せ、すやすや思わずまどろみける夢に、いずこからともなく、駕籠かごを連れた黒服仕立ての草履ぞうり取り、小僧、手代、番頭たっくさん連れて、先に進み出た年配の男が、かみしもを着けて申しけるは、「そもそも我々は、神田八丁堀に長年住まいいたす和泉いずみ清三せいざと申す者の家来けらいなり。しかるに主人の清三せいざ、だんだん年老いても、いまだ子がなし。今年は頭を丸め出家し、名を文ずいぶんずいと改めそうろう。よって跡をぐべき人はいないかとたずねれば、あなたが出世を望んでここまで来たことを、主人が年来信仰いたす万八幡まんぱちまん大菩薩だいぼさつのおげで知り、ここまで我々やって来ました。願わくば、主人の文ずいぶんずいの望みをかなえていただきたい」と、無理矢理駕籠かごに乗せ、いずこともなく連れ行くこそ不思議なり。
 金兵衛きんべい、思いもよらぬことに、いと不審に思えども、これ幸いと、天にも昇る心地して、駕籠かごに乗りて、いずこともなく出かけけり。
迎えの男「うれしやうれし。ようやく若旦那わかだんなをさがし出したぞ」 


 金兵衛きんべい、かの駕籠かごに乗り行くほどに、ほどなく和泉いずみ屋の門に至る。やがて駕籠かごより出、番頭手代を先について行けば、その住まいのすばらしさ、まこと玉のごとき瑠璃るりのごとく、金銀もちりばめられている。ほどなくあるじの老人、清三せいざが出てきて、喜び、金兵衛きんべいに我が名をゆずり、和泉いずみ清三せいざと名乗らせ、宝物もすべてゆずり、上等の酒を出してきて、親子、主従の祝いの酒宴を始めける。
文ずい「不思議なえんでござる。これから隠居をいたします」
番頭「首尾しゅび良く相続のが終わり、めでたくぞんじまする」
女「今度の若旦那わかだんなは、まるでものぐさ太郎のようなかっこうだ」 


 金兵衛きんべい、家を相続してより、何不足もなければ、だんだん調子に乗ってきて、日夜酒宴を開き、昔の姿は何のその、今は頭のり込みも入れ、ちょんまげも細~い本多ほんだにし、着物は黒羽二重はぶたえ、帯はビロードまたは博多織、あらゆる当世の流行をつくせば、類は友をもって集まるのたとえどおり、手代の源四郎げんしろう太鼓持ちたいこもち万八まんぱち座頭ざとう五市ごいちなど、一緒になってそそのかしける。その昔、金村屋金兵衛きんべいなので、その名をとりて、人々、金々先生きんきんせんせいともてはやす。
 手代源四郎げんしろう、芸者を呼び集め、金々先生をそそのかす。
源四郎「なんと旦那だんな、家で騒ぐばかりはさえませぬ。明日は北国、つまり吉原へ、おでかけなさりませ」
芸者「チャンチャン。♪きたきた讃岐さぬき金比羅こんぴらさんだ♪」 


 金々先生きんきんせんせい、そそのかされ、ふと吉原へ行きけるが、それより、「かけの」という女郎になじみ、親の意見もなんのその、一寸いっすん先はやみの夜も、かの手代源四郎げんしろう万八まんぱちを連れて、ひたと歩みを運びけり。
 金々先生の出で立ち、流行の服に頭巾ずきんから目ばかり出し、人目を少し忍びけり。
万八「だんなのお姿、なんともいえません」 



 上巻は、ここまで。次週、下巻につづく。

 初期劇画が、手塚治虫っぽい絵で描かれたように、「金々先生栄花夢きんきんせんせいえいがのゆめ」にも今までの子ども向けっぽい部分がたくさんある。
 江戸時代に、印刷技術の進歩にともなって、赤本という絵本が作られた。赤っぽい表紙なので赤本。そこには、桃太郎や金太郎の子ども向けの話が描かれた。その後、黒っぽい表紙の黒本、青っぽい表紙の青本が作られた。これらの絵本は草双紙くさぞうしと呼ばれる。木版印刷した五枚の紙を二つ折りした10ページの短い作品で、上下二巻、あるいは上中下三巻の作品が多かった。
 そこに、昔なつかしのわら半紙っぽい色の表紙の黄表紙が、大人向けとして出現する。その最初とされるのが「金々先生栄花夢きんきんせんせいえいがのゆめ」なのだ。
 遊里の話や、当時の流行を取り入れ、だんだんその地位を確立していく。

 




 その他の黄表紙現代訳は、


 


 その他の黄表紙原本の紹介は、

 



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