黒白水鏡①~田沼意次と寛政の改革を描く黄表紙の世界
「黒白水鏡」(寛政元年・1789刊)は、石部琴好作、北尾政演画の黄表紙。上下二巻。
タイトルの前には「世直大明神/金塚之由来」とある。
遊里を舞台とした大人の絵本である黄表紙だが、田沼意次が失脚し、松平定信の寛政の改革がなかなかうまくいかない時代に、政治問題をあつかった作品。舞台を鎌倉時代に変えた作品ではあるものの、当然のように政治批判だということで作品は絶版となり、作者琴好(生没年不明)は手鎖の刑となり、江戸払いとなった。画工の北尾政演こと山東京伝(1761~1816)は罰金刑となる。京伝の人生では、この後、洒落本で手鎖50日の刑をうけているが(1791)、それはこれとは別の話。
「黒白水鏡」の現代語訳を二回に分けて紹介する。
上巻
序
鳥に鳳凰あり、また鳶あり。獣に麒麟あり、また豚あり。人に通あり、不通あり。作品に良し悪しあり。下手があるので上手が知れるというが、あんまり考えず本屋に進めて出版するこの作品、その名を「水鏡」という。
とりの年、寛政元年(1789)
初春 石部琴好作
一
そもそも源頼朝公より十代目の将軍に当世公と申しけるは、ただ世の中を通にする。野暮なものは、箱根から先を尋ねてもなし。昔のように謀反を起こすものも出ず、通であることを喜ぶ世の中なれば、鎧兜や馬具はもちろん、軍事費が使われることもなく、小判の山吹色が色あせぬうちに、早く出して使うがよかろうと、たくあんの山吹色じゃああるめえし、ムダをダラダラ申す。
当世公「今、町人のあいだでは何が流行っているのかな」
岩永「ただ今は、狂歌と、お題に対して五文字を考える五文字(五文字付)というのが人気です」
山二郎「『どういうもんだ!』という流行言葉はすたれましたが、羽織の紋は三つ紋より七つ紋が今の流行さ」(七つ星の家紋は田沼意次をさす)
二
政策会議ありけるに、梶原景時が子孫の梶原かぬまの思い付きで、町人や商人に収入によって、給付金を、一年につき何千両ずつか渡すのが今の時期には必要なりと申しあげければ、当世公様、おおいに賛成され、さっそく町中にお触れを出されける。
町の人々、これを聞いて、「これだけ給付金を現金でいただいても、金の置き場に困ります」と断ったにもかかわらず問答無用で金を与える。
されば町人、商売に応じて給付金をもらったけれども、思いのほか幕府の金は減らず。またまた政策会議があれば、岩永かつもとが申しあげけるは、「かぬま殿の計画、すばらしきもの。けれどもあれでは全ての家には行き届かず候らえば、まんべんなく届くように、家ごとの給付になされ、決まった金額を配布すれば、大小残らず給付金が行き渡り申すべし」と申しければ、またまたそのつもりで、それぞれの家に給付金を渡されける。
町人「どうしようもないこった。これが本当のありがた迷惑だ」
岩永「これ、大家ならば、共益費の分まで金を渡しますぞ」
山二郎「これで何億両出ましたかな」
三
されば、国民が困るのもかえりみず、かぬまとかつもとの指図にて、土地の大きさによって給付金を与え、大きな家は、普通の給付金のほかにさらに給付金を与えられ、金が増えて難儀するとは、とんだことなり。
坊主「帰命頂礼、奇妙奇妙の箱根山、賽の河原の地蔵尊」
客「こういうことなら、金を減らすために一日の食事を四度にし、晩に二度食うようにするがよかろう」
客「しかし、おまえ殿のところでは、ご子息殿が、よく金をお使いなさるから、よろしゅうござる」
亭主「さようさ、せがれめが道楽をいたしてくれますので、私はおおいに楽でござる」
四
さるほどに、世の中豊かすぎて、迷惑する者多し。そのうえ、商売ではもうかり、ことのほか困り、いろいろと使ってはみるものの、お金が減ることさらになし。このうえは、神や仏に祈るしかないと、目黒不動様へ番頭に裸参りをさせければ、途中で泥棒に会い、裸でいるのを捕らえられ、無理矢理着物を着せ、そのうえ懐にお金を押し込み、いずこともなく逃げけるは、油断のならぬ世界なり。
泥棒「ふんどしも新しいのに変えさせなせえ」
泥棒「手ぬるく言えば、月明かりの下、世迷い言を言わずに、早く着て行け」
番頭「それでは店へ帰られませぬ。どうぞ許してくだされまし」
五
悪いときには悪いもの、番頭が目黒へ参って、泥棒に着物を着せられ、亭主もどうしようもなく、「どうしたものか」と思案をし、世の中では、「博打をする者の勝ったためしはなし」と聞き、これはいいことを聞いたと、ギャンブル場に行けば、そこはいかさま博打で、むちゃくちゃ勝たせられ、ますます金が増えて難儀したりけり。
博打場の主人「こっちに恨みはないぞや。金が敵と思わっしゃれ」
女「そこらにお金を落として行ってはだめでござんす」
亭主「こんなに金を持って、どうしたもんだのモンダミン」
六
それより亭主は、息子に面目ないと、家には帰れず、どうしようもなく、ここに三日、あそこに五日と過ごせども、一両も使い切ることができぬ。世間のうわさはいろいろで、「あそこの家は金を持っている者を居候において、しまいには金を押しつけられるぞ」と、おかみさんたちはもちろん、大家からも苦情がくるので、世間へ外聞が悪いと、そこもことわったとかや。
主人「今どき、そんな高利の金があるものか」
亭主「こういう高額を貸すところがあれば、千両ばかり借りたいわ」
上巻は、ここまで。
鎌倉幕府の重鎮であった梶原景時の子孫だという梶原かぬまは、かぬまかぬまかぬま……たぬま田沼……となり、田沼意次を連想させる、あまりにも単純な名前。
田沼意次の政治(老中としては、1719~1788)では、運上金や冥加金という税金が作られた。新しい税金を増やす、どっかの総理大臣の時代のようだ。たくさんの税金を取られた時代なのに、逆に幕府からお金をもらうという皮肉にもならない物語。
当時は干ばつや洪水が多発し、地震は起きるは(1782)、浅間山は噴火する(1783)。天明の大飢饉(1782~1788)も起こり、幕府の財政は大変な時代だったので増税するしかなかった。
田沼意次は、幕府の経費を削減し、倹約令を出した。銀の割合を減らした南鐐二朱銀を発行したり、株仲間を奨励した。農業中心の財政から、商業中心にしていった。
そのため、黄表紙など、町人の文化が発展してはいったものの、人々の暮らしは厳しくなった……。
そういう江戸の町とは逆の、金があふれる世界を描いて下巻につづく、
同じように田沼意次を暗示する黄表紙「時代世話二挺鼓」(1788刊)の現代語訳は、こちら、
黄表紙の始まりといわれる「金々先生栄花夢」の現代語訳は、こちら、
黄表紙の代表作「江戸生艶気樺焼」の現代語訳は、こちら、
これらの中に、他の黄表紙の紹介もあり。
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