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黄表紙「時代世話二挺鼓」①~あの田沼意次を彷彿させる物語

 「時代世話二挺鼓じだいせわにちょうつづみ」は、1788(天明8)年に蔦屋重三郎つたやじゅうざぶろうから出版された黄表紙きびょうし山東京伝さんとうきょうでん作、喜多川行麿きたがわゆきまる画の二巻二冊。
 タイトルの前には「将門まさかど秀郷ひでさと」とある。
平安時代の武将、平将門たいらのまさかど藤原秀郷ふじわらのひでさとの「時代」物であり、現代を扱った「世話せわ」物でもある、二人の物語というタイトルとなっている。歴史を描きながら、現代を描くという意味。
 藤原秀郷ふじわらのひでさとは、別名俵藤太たわらとうたとも呼ばれる平安時代の武将。巨大百足むかでのばけもの退治たいじで知られている。平将門の乱を平定し、陸奥むつ国の鎮守府将軍ちんじゅふしょうぐんとなる。平泉ひらいずみで栄えた、後の奥州おうしゅう藤原氏の祖先ともいわれる。
 平将門たいらのまさかどは、学校の歴史で習った平将門の乱(939)を起こし、自らを天皇と名乗っていた。死後は怨霊おんりょうになったと伝えられ、神として祭られる。
 当時の読者は、こういうことをすべて知っているうえで物語を読んでいる。 



上巻

 ここに黄表紙きびょうしの作者に京伝きょうでんというものあり。毎年、本屋から新春(正月)発行の黄表紙のアイデアをせつかれるたびに、「どうぞからだが二つも三つもあればよい」と思うのだが、伝え聞く平将門たいらのまさかど親王しんのうは、体が七つあったといわれる。七人でかせいだら、さぞもうかるだろうと思えども、また七人で金を使うので同じことか。されば、世の中にままになることは、京橋の伝蔵でんぞう京伝)が考えた黄表紙を読めばよい。
京伝「なんとか言いてえが、書き込みが多くなると読みにくいので、黙っていよう」
 京伝の妹黒鳶式部くろとびしきぶ、今年十八なりしが、この黄表紙に女の姿が少ないのを気のどくに思い、ここの挿絵さしえに使われ、兄弟で幕を開ける。
黒鳶式部「わたしも言いたいことはあるけれど、黙っておりやす」
 

 京伝の妹黒鳶式部くろとびしきぶは、本名よね。ちょうどこの頃に亡くなっている。
 平将門たいらのまさかどは、六人の影武者がいたという。本体と併せて七つの体。読者は、「ふむふむ」と思いながら、権力をほしいままにし、数年前に失脚しっきゃくした田沼意次たぬまおきつぐの家紋「七曜星しちようせい北斗七星ほくとしちせい)」(丸を七つまとめた家紋かもん)をも思い浮かべたことだろう。さらに「二挺鼓《にちょうつづみ》」の「二人」とは、田沼意次たぬまおきつぐ殿中でんちゅうりつけられた息子の意知おきともの田沼父子をしているとも考えたことだろう。 



 人皇六十一代朱雀すざく天皇の天慶年間、平将門たいらのまさかど東国とうごく猛威もういるい、人民これをなげきければ、このこと京都へきこえ、藤原秀郷ふじわらのひでさとが天皇の命令を受け、っ手としてせ向かう。
公家くげ「どうぞ将門まさかどをぶちのめしてくれろ」
秀郷「承知しょうちいたしました。へいへい。こんなときに、どうあいさつするか知らねえよ。秀郷ひでさとって名前だけど、さとに住んでる田舎者でもないしなあ」
公家「おまえは俵藤太たわらとうたともいうそうだが、吉原のたわら屋の女郎たちは元気で仕事をしているかの」
公家「これ、秀坊ひでぼう、この間から呼び出しをしているのに、ずっと留守るすだったそうだな。きっと、 吉原の遊女屋に泊まり続けていたんだろう。その店は、松葉まつば屋か丁子ちょうじ屋かたま屋かおうぎ屋か。ちょっと離れた尾花おばな屋かの。おれのなじみの女郎からの伝言はないかのお」 



 親王しんおう平将門たいらのまさかどは、王位を望み、東国に宮廷を移し、いろいろな建物をこしらえる。公家くげ偽物にせものかかえ、狂歌師のようなダジャレの名前を名乗らせる。
秀郷ひでさとはぐっと考えて、家来けらいはみんな後ろの山の中にしのばせ、自分一人将門まさかどに対面する。
秀郷「親王しんおう様は早業はやわざの名人と聞いています。わたくしも少しできるので、早業はやわざくらべをいたして、わたしが負けたら、あなたの味方になりましょう。あなたが負けなさったら、この宮殿をこわして帰ることにしようじゃござりませんか」
将門「こいつはおもしろい。おぬしが負けても文句は言いっこなしだぞよ」
家来「われらの名前は、たわら曲持ちきょくもちかりうえ上塗うわぬりと申す。以後、お見知りくだされ」
家来「このごろ評判の俵藤太たわらとうたとはきさまのことか。わしは南鐐なんりょう御大臣おだいじんと申す。以後、お見知りくだされ」
秀郷「どれもみんな変な名前だ。最近の相撲取りすもうとりの名前のようだ」 



 将門まさかどは、秀郷ひでさとが味方になろうというのを本当のことと思い、わが早業はやわざを見せてやろうと、一人にて七人前のなますを作ってみせる。
 六人の影法師かげぼうし、後ろで手伝うが、人々にはまったく見えず。
将門「なんとすばらしいできばえだろう。これなら仕出し弁当の料理だと言ってもいいだろう」
 そのとき、秀郷ひでさと、すこしもさわがず、ふところより神明社前の、なこ屋で買った、千切り器の早業はやわざ八人前を取り出し、あっという間に八人前のなますをこしらえければ、将門より一人前多いので、将門を大いにへこませる。
秀郷「わたくしの料理は、おまえ様のように包丁ほうちょうはいりませぬ。大根だいこ細工さいく)はりゅうりゅう仕上しあげをごろうじろ」 



 将門まさかど、料理には負けたけど、芸能に関してはかなわないだろうと、歌舞伎かぶき七変化しちへんげを一度にしてみせる。
将門「なんと、中村仲蔵に岩井半四郎を兼ねた動作は、なかなかのものだろう」
秀郷「あんまりうぬぼれなさるな。うぬぼれるとふられるよ」 



 

将門まさかど、ヒゲをなでなで得意になれば、秀郷ひでさとの方は、かねて習いし八人芸八種の楽器を一度に演奏する芸をみせる。
チンツン、チャンチャン、トントン、ピイラリヒョウ♪
将門「なるほど、器用なやつだ。また一人前負けた。ちぇっ、いまいましい」 



 歴史の教科書に出てくる田沼意次たぬまおきつぐ(1719~1788)が老中となった「田沼時代」は、天明6年(1786)に失脚して終わりを告げる。あっという間に出世した田沼を、天皇を名乗った平将門たいらのまさかどになぞらえているのだろうと、読者は思っただろう。
 この作品「時代世話二挺鼓じだいせわにちょうつづみ」(1788)は、田沼失脚後の作品である。
 その後の時代には、こんな狂歌もつくられた。

白河の清きに魚もみかねてもとのにごりの田沼恋しき

 田沼時代に続く、白河しらかわ候、松平定信さだのぶ寛政かんせいの改革(1787~1793)が、厳しい財政改革であったため、生活が豊かで、文化も花開いていた田沼時代を恋しいという人もいた。平将門たいらのまさかどが神としてしたわれたのと相通あいつうずるものがあるだろう。 



次回につづく、 



 黄表紙の始まりといわれる恋川春町の「金々先生栄花夢きんきんせんせいえいがのゆめ」の現代語訳は、こちら、

 黄表紙の代表作「江戸生艶気樺焼えどうまれうわきのかばやき」の現代語訳は、こちら、

 これらの中に、他の黄表紙の紹介もあり。 


狂歌についてはこちらも、

 

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