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黄表紙「従夫以来記」①~江戸の町から未来を見れば

 「従夫以来記それからいらいき」(1784・天明4刊)は、竹杖為軽たけづえすがる作、喜多川歌麿きたがわうたまろ画。 大人の絵本である黄表紙きびょうしの作品。作者竹杖為軽たけづえすがるは、本名が森島中良もりしまちゅうりょう(1756?~1810)、平賀源内ひらがげんない(1728~1780)の弟子で、狂歌師、戯作者げさくしゃとして、森羅万象しんらまんぞう万象亭まんぞうていなどの名前でも知られる。挿絵さしえは浮世絵師として有名な喜多川歌麿(1753?~1806)。有名な浮世絵師の多くが黄表紙の挿絵を描いている。出版社は、これまた有名な蔦屋重三郎つたやじゅうざぶろう(1750~1797)である。
 上中下三巻を三回にわけて紹介する。江戸の人々は、こんな本を読んでいた。 



上巻

 恋川春町こいかわはるまち先生の「無益委記むだいき」、続いて朋誠堂喜三二ほうせいどうきさんじ先生の「長生見度記ながいきみたいき」の一部でもひろい集めようと、うそをちらして思いついた「従夫以来記それからいらいき」、悪いところは「未来記」発案の聖徳太子しょうとくたいし様のせいにするでもないす。
  万象亭まんぞうてい 竹杖為軽たけづえすがる述 

 聖徳太子が未来を予言して描いた「未来記」という本があると伝わる(実物は不明)。それをもとに恋川春町こいかわはるまち(1744~1789)が黄表紙「無益委記むだいき」(1779?刊)をえがき、朋誠堂喜三二ほうせいどうきさんじ(1735~1813)も「長生見度記ながいきみたいき」(1783刊)という未来記を描いている(タイトルは「みらいき」という言葉をもじる)。それにならって本作「従夫以来記それからいらいき」(1784刊)を描いたとべる。
 黄表紙の「未来記」では、未来予想を描くというよりは、現実とは逆の描写をした、異世界物の作品となっている。逆の世界の表現の中に、現実への批判もみられる。 



 わいわい天王てんのうれきウソ万八千年にあたって、草双紙くさぞうしは大人の読むものとなり、学校では新年最初の授業で使い、毎月授業でも使う。昔から読まれ、授業でも使われた教養書、四書五経ししょごきょうは子どものなぐさみ本となり、朱子しゅし枚絵(一枚絵いちまいえ)、草荘子そうし草双紙くさぞうし)として売り歩く。
先生「観水堂丈阿かんすいどうじょうあの草双紙に、大木の切り口で太いの根ときて、合点か合点かなどと申すは、いたって古いダジャレで、一通りではわかりませぬ。例えて申せば、朋誠堂喜三二ほうせいどうきさんじ荻生徂徠おぎゅうそらい恋川春町こいかわはるまち四方赤良よものあから太宰春台だざいしゅんだい服部南郭はっとりなんかく岸田杜芳とほう伊藤東涯とうがい市場通笑いちばつうしょうは教訓が多いので朱子学で決まりでござる。この黄表紙『高漫斉行脚こうまんさいあんぎゃ日記』が読み終われば、『源平惣勘定そうかんじょう』に移りましょう」
弟子「先生の説明はちょっと訳のわからないものだ」
 
子ども「これ、本屋、おれには『礼記らいき』をください。訓読くんどくのものじゃなく、白文はくぶんの原本の中国産だよ」
他の子ども「中国語の『春秋左氏伝しゅんじゅうさしでん』と『論語ろんご』をください」
本屋「それより、新しく出版された『史記しき』になさりまし」 

 草双紙くさぞうしは、絵と文が一体となった絵本作品。黄表紙きびょうしも草双紙のひとつ。
 一枚絵は一枚りの浮世絵。
 朋誠堂喜三二ほうせいどうきさんじ恋川春町こいかわはるまち四方赤良よものあから岸田杜芳とほう市場通笑いちばつうしょうは、黄表紙作家。観水堂丈阿かんすいどうじょうあは、黄表紙以前の絵双紙作家。荻生徂徠おぎゅうそらい太宰春台だざいしゅんだい服部南郭はっとりなんかく伊藤東涯とうがいは、江戸時代の学者。『高漫斉行脚こうまんさいあんぎゃ日記』(1776刊)は恋川春町の黄表紙、『源平惣勘定そうかんじょう』(1783刊)は四方山人(四方赤良よものあから大田南畝おおたなんぽ)の黄表紙。『礼記らいき』『春秋左氏伝しゅんじゅうさしでん』『論語』『史記』は中国の本で、江戸時代の教養書。
 これらの単語をずらずら並べても、江戸の人々には、なるほどなるほどと理解できたのだろう。それだけ江戸庶民の知識は豊富だった。



 芝居では、お客が劇をし、役者が見物する。
「曾我兄弟と馬の足の役がやりてえ。とかく、おれはおれをひいきしてるさ」
と、口々に自慢をする。
 
はばかりながら口上こうじょう (画面右の看板の文字)
 その昔、歌舞伎にて春狂言のお芝居の役割をファンの皆様の希望を聞いて決めたとのこと、後の世では、未熟な役者の芝居にまだるっこく思われるでしょうから、それならば、お客様自身が舞台に上がられ、演技していただきましょう。我々役者は見学いたしますので、見物料として我々に代金をお支払いくだされ。
 きたる正月十五日から開演いたします。 



 傾城けいせい、すなわち高級女郎じょろうが吉原の大通りへ、平安時代の牛車ぎっしゃにて出る。もちろん衣装は十二単じゅうにひとえ、おつきの子どもの禿かぶろも赤いはかま、若いしゅうは平安時代の兵士が着る白い狩衣かりぎぬなり。
 遊女が並ぶ張見世はりみせでは三味線しゃみせんのかわりに琵琶びわことなどを演奏する。吉原名物の桜は紅葉もみじとなる。
禿「近江屋にいなんすは、四方赤良よものあからの赤良きょう朱楽菅江あけらかんこうぬしなんめり」
男「ここらで狂歌師の加保茶かぼちゃ元成もとなりがうろついているようだ。例の狂歌師のもと木網もくあみ法師も今夜は泊まりにておわさん」 

 四方赤良よものあから大田南畝おおたなんぽ)、朱楽菅江あけらかんこう加保茶元成かぼちゃのもとなり元の木網もとのもくあみは狂歌師。五七五七七の狂歌もよく読まれていた。川柳は、名もなき一般の人々が創ったが、狂歌は知識がなければ創れなかったので、それぞれの作者がわかっている。 



 はまぐりびたいならぬ、ぐりはまびたい本田髷ほんだまげならぬ、田本まげという髪型かみがた流行はやる。
 羽織はおりは短く、一尺二三寸(30.6~9㎝くらい)。坊主は、えりを立てた羽織が流行る。通のことを「ビイ」と言い、粋なことを「ブウ」と言い、女郎のことを「ヘケレケ」と言う。
 このごろは、夜、遊郭ゆうかくに行く者なし。そのため、遊郭は朝の営業となる。
客「とかく遊びは朝が一番」
客の僧「ぬしのヘケレケはブウだよ」
客「おらのよりも、おめえのは、とんだビイでありがてえ」
駕籠かごの客「薩摩守さつまのかみ平忠度たいらのただのりではなく、薩摩守逆乗さかのりとはおれのことなり」 



 薩摩守さつまのかみ平忠度たいらのただのりは、「タダ乗り」から無賃乗車のことをいうダジャレ。ビイ、ブウ、ヘケレケは、はひふへほハ行の言葉遊び。はまぐり、ぐりはまと語順を変えた言葉遊びもある。はまぐりびたいは、ひたいの横の髪が、はまぐりのように曲線を描くもの。画面の男は、その逆の髪型。本田髷ほんだまげは、当時流行のちょんまげの型。画面の男のちょんまげは逆向きとなっている。 



 大人は甘いものを食べ、子どもは辛いものを好む。
母「そんなにわがままを言うと、柱にしばりつけて甘いまんじゅうを食わせるぞ」
子ども「母さん母さん、とんとん唐辛子とうがらしを買っておくれよ」 



 訳のわからない世界を描きながら、次回につづく、 



黄表紙の始まりといわれる「金々先生栄花夢きんきんせんせいえいがのゆめ」の現代語訳は、こちら、

黄表紙の代表作「江戸生艶気樺焼えどうまれうわきのかばやき」の現代語訳は、こちら、

これらの中に、他の黄表紙の紹介もあり。 


作者竹杖為軽たけづえすがるの師匠、平賀源内については、こちら、

四方赤良こと大田南畝については、こちら、

江戸の狂歌については、こちらも、

 

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