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江戸戯作の立役者、大田南畝、四方赤良、蜀山人について考える①

今までは人のことだと思うたに俺が死ぬとはこいつはたまらん

 文政6年(1823年)4月6日、御家人、大田南畝(おおたなんぽ)が亡くなった。75歳だった。彼は、四方赤良(よものあから)、蜀山人(しょくさんじん)の名でも知られる、江戸を代表する戯作者。その辞世の句だといわれている。


 戯作げさくとは、戯れに作るという意味の漢字で、具体的には江戸時代の、洒落本、滑稽本、読本、草双紙などを指し、正式な書物より劣っているという卑下がある。
 当時の一流文学とは、古典作品や、中国の漢詩や日本の和歌(短歌)が中心だった。今の、純文学の芥川賞に対する、大衆文学の直木賞のようなものが戯作だ。いや、直木賞よりも下の、雑文のつもりだろう。世の中を斜めに見た作品が多い。パロディーなども多い。
 平賀源内の、屁を面白おかしく描く「放屁論」や、陰茎の形の棒を持って講釈をする志道軒を描く「風流志道軒伝」などが戯作の始まりと言われる。
 恋川春町の「金々先生栄花夢」から絵と文が一体となった黄表紙が始まったと言われる。遊里で色事修行する金々先生が主人公だ。


 大田南畝は、下級武士の家に生まれ、学問で身を立てようとする。生涯に随筆など大量の文章を残している。五七五七七の狂歌も作り、19歳の時に寝惚先生(ねぼけせんせい)の名で、漢詩の形で書いた狂詩を集めた「寝惚先生文集」を出し、平賀源内(風来山人ふうらいさんじん)が序を書いた。
 「序して以て同好の戯家に伝ふ」と冊子の内容を書いている。
 この作品から、狂歌がブームとなる。

 狂歌では、四方赤良(よものあから)という名を使っている。四方の赤という味噌の名前からとったらしい。
 あっけらかんの朱楽菅江(あけらかんこう)や元木網(もとのもくあみ)、智恵内子(ちえのないし)など狂名はダジャレが多い。恋川春町も狂歌を作っており、その時の名前が酒上不埒(さけのうえのふらち)で、全く不埒な名前だ。

 平賀源内、恋川春町、朱楽菅江は武士であり、教養もあった。元木網は湯屋の主人。元木網の妻が智恵内子。身分社会の江戸時代に、武士だけでなく町人も一緒に狂歌を作っていた。夫婦で参加したりもしていた。


 南畝の作品としては、

世の中は酒と女がかたきなり どうか敵にめぐりあいたい

山吹のはながみばかり金いれに みのひとつだになきぞかなしき

もののふも臆病風おくびょうかぜやたちぬらん 大つごもりのかけとりの声

などがある。

世の中にたえて女のなかりせば をとこの心はのどけからまし

 これは、「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」(「古今集」の在原業平の歌)のパロディーとなっている。

ほととぎす鳴きつるあとにあきれたる後徳大寺ごとくだいじの有明の顔

 百人一首の「ほととぎす鳴きつる方をながむれば ただ有明の月ぞ残れる」が本歌(元歌)で、この歌の作者が後徳大寺実定。
 知識がなければわからない。南畝は和漢の作品を知っている知識人でもあった。

 時は田沼意次が政治を主導する田沼時代で、学問や文化が花開いた時代でもあったのだ。それが後の文化文政(1804~1830)の江戸の町人文化、化政文化かせいぶんかへとつながっていく。

 南畝は、田沼意次の失脚の後、松平定信の寛政の改革の頃、出世を願う御家人でもあるので、悪ふざけの多い狂歌や戯作から遠ざかる。
 50歳を越えて、また狂歌を作り出してから、蜀山人(しょくさんじん)という号を使うようになった。

 大田南畝、四方赤良、蜀山人は同一人物である。
 狂歌の時、黄表紙の時と、それぞれ名前を変えている。19歳の時には寝惚先生という名も使っている。当時の人は、いろんな名前を使っている。南畝も、本名はふかし。通称は直次郎と言い、後に七左衛門と改めている。


 いろいろな知識を持ち、たくさんの名前があるのと同じように、大田南畝は、いろいろな新しいジャンルに挑戦した江戸の文化人だった。




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