見出し画像

「鰻」「うなぎ」の看板が目立つ土用丑の日の前、そして平賀源内について考える、そしてそれを借りてくる

 今年は7月28日が土用丑の日(どよううしのひ)となるので、「鰻(うなぎ)」の看板が目立つ季節となった。

 「土用丑の日」の「土用」とは、立春、立夏、立秋、立冬の前、約18日間をいう。
 「土用丑の日」というときは夏の場合だが、「土用」は年に4回ある。おっと、夏の「土用」といったが、今年の立夏は5月5日、こどもの日だった。今年は7月28日が「土用」となるが、立夏はとっくに終わっている。
 立夏の次の季節は、8月7日の立秋だ。
 夏の前ではなく、秋の前の土用の鰻だったのだ。
 立秋の前、7月19日から  8月7日までが「土用」となる。

 丑の日というのは十二支(じゅうにし)の丑で、

子(ね)丑(うし)寅(とら)卯(う)辰(たつ)巳(み)午(うま)未(ひつじ)申(さる)酉(とり)戌(いぬ)亥(い)の丑。

 十二支は生まれ年だけでなく、月も十二個(旧暦11月の「子」から始まる)、そして日も、月火水の曜日のように十二個が順番にやってくる。「土用丑の日」は年によって変わる。土用の期間の丑の日だから18日のうちの1/12。二回ある年もある。去年は7月21日、8月2日二回あった。

 その「土用丑の日」に鰻を食べる風習は、江戸時代の平賀源内から始まったと言われる。

 夏場に売れなくなったうなぎ屋が、源内に相談すると、「本日、土用丑の日」という看板を出すことを提案した。もともと「土用丑の日」には「う」のつくもの、ウリ、うどん、梅干しを食べる風習があった。夏バテ防止にはうどんや梅干しより鰻の方が効果がありそうだ。そこから「土用丑の日」に鰻を食べるようになった。

という話だが、実はどこから出てきた話なのかわからない。何かに書いてあるわけではなく、いつのまにか平賀源内と鰻がむすびついた。

 エレキテルを作っただけでなく(本当は修理して使えるようにした)、風来山人(ふうらいさんじん)のペンネームで戯作も書いていた源内だから(油絵も描いている)、さもありなんと、鰻と結びついたようだ。

 源内は浄瑠璃作者として福内鬼外(ふくうちきがい)の名で、「神霊矢口渡(しんれいやぐちのわたし)」など多くの作品を書いている。「神霊矢口渡」は「太平記」をもとにした、新田義貞(にったよしさだ)の遺族の話で、人気を博し歌舞伎にもなっている。

 風来山人としては、「根南志具佐(ねなしぐさ)」「根無草後編(ねなしぐさ―)」「風流志道軒伝(ふうりゅうしどうけんでん)」が有名だ。
 「痿陰隠逸伝(なえまらいんいつでん)」なんてすごい名前の作品もある。
 「痿陰」、萎(な)えた逸物(いちもつ)、つまり、しなびたチンコが題名。「隠逸」は、俗世を離れ山里などにひとり隠れ住む、隠遁(いんとん)のこと。
 「痿陰隠逸伝」については、「ほぼ日刊イトイ新聞」に江戸時代の話題として糸井重里と橋本治の対談が載っている。「チンコの話ばっかり」と言っている。その話をネットから借りてくる。

※「橋本治と話す平賀源内。」の第6回第7回

※「橋本治と話す平賀源内。」は2004年の記事なので、ネットでなかなか探しにくくなっている。ぱっと検索できなかった。(リンクは以下の数字から)
 1  2  3  4  5    8  9  10  11


 源内は、戯作者・風来山人としても多くの影響を残している。

 源内は、大工の棟梁二人を殺害したために投獄され、獄死したといわれる。享年52歳。浅草橋場の墓所には、友人の杉田玄白(すぎたげんぱく)が碑を立てている。杉田玄白は「解体新書」を訳した医者だ。その碑文には、

嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常

とある。

ああ非常の人、非常の事を好み、行ひこれ非常、何ぞ非常に死するや

 非常の人であった源内は、その死に様まで非常であった。それでも杉田玄白は友人であった。碑まで立てている。狂歌師の平秩東作(へずつとうさく)が遺体を引き取ったともいわれる。戯作者、朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)は弟子として接していた。
 どんな奇人であっても理解してくれる友や仲間はいた。


画像1


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?