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突然出会った本—『冒険の書 AI時代のアンラーニング』 孫泰蔵

たまたまこの本の表紙を見た途端、私の直感センサーが働き、すぐさまAmazonでポチった。

そして読んでみたら、面白かった。文章はさほど堅苦しくなく楽しげな感じで、読みやすかった。そして、多くの学びがあった。

 


メモ

◯『パノプティコンの憂鬱』— 学校は監獄と同じ

 □ フランスの哲学者ミシェル・フーコー「教育や医療のような公共サービスによく見られる管理システムのルーツは「パノプティコン」にある」
 ※パノプティコンは、19世紀のイギリスで発明された「あまねく」「見る」というギリシャ語から名付けられた刑務所。ドーム屋根の円形の建物。ドームの中心には、監視塔が立てられており、独房からは塔の監守が見えず、塔の監守からは独房が丸見えになるという造りになっている。

 □パノプティコンの刑務所は、囚人たちに「自分は常に監視されている」と思い込ませることによって、大人しく服従させる仕組みになっている。

 □自分から進んで規律を守る人間、監守がいなくともちゃんと命令に従う人間=「機械化された人間」を作り出せる仕組み。

 □囚人を監視するのにもっとも効率がよく、もっとも安上がりで優秀な刑務所、パノプティコン。学校はこれと同じ

 □学校は、監視、賞罰、試験という3つのメカニズムの複合体。規律や訓練で子どもたちを秩序の中にはめ込み、生徒自らが服従するようにできている。

   ・私も学校に通っていた頃、そのような事を思ったことがある。子どもを一つの建物、空間に長時間閉じ込めて、校則や時間割なんかで行動が縛られて「まるで明るい監獄だな」と。
 
 □たまたまテストの点が良かった、悪かったという話が、いつの間にか「成績が優秀な方が、悪い人より偉い」という上下関係になった。
  悪い成績を取った生徒が「学力が低い=頭が悪い=落ちこぼれ」とバカにされる。校則を破った生徒が「規律を守らない=態度が悪い=反抗的」と不良のレッテルを貼られる。それがきっかけで周りから煙たがられたり、いじめられたりする。

□ 筆者「『社会に出たらわがままは認められない。だから、社会に出る前に学校でそういう訓練を積んでおくことは大事だよ』これは、一見もっともなようだが、絶対におかしい。
 子どもたちが今の社会に合わせられるようにするのではなくて、むしろ子どもたちが現状を変えていけるような教育を行うべき。
 変わるべきは、子どもではなく大人の方。

◯『スローな学びにしてくれ』— 早咲きの何が良い

 □ 小さい子どもに教えている先生「外国語、スポーツ、音楽などの体を使って表現するセンスが必要なものは、幼い時からはじめないと、プロのレベルにはなかなか到達できない」
  その言葉に疑問を抱いた筆者は、いろんなデータを調べた。
  本に載せられた図は『2004年開催のアテネオリンピック出場選手が競技種目を始めた年齢』をグラフにしたもの。
 『野球』は、七歳未満が一番多かったが、それ以降の年齢もけっこういる。
 『全体平均』は、10%から20%のあたりであまり変わらない。
   ・中学生、高校生から競技種目を始めて、アテネオリンピックに出場した人も種目によってまちまちだがけっこういる。
   ・必ずしも「幼い時からはじめないと、プロのレベルにはなかなか到達できない」わけでは無いことがわかる。

□ 筆者「オリンピック選手になるのでさえも、早く始めることはあまり関係ないんだから、普通にアートやスポーツなどを楽しむのに、早く始めないとダメなわけがない」

□筆者「人生は100年もあるのに、その中でたった数年、ちょっと早く、ちょっと何かがうまくできるようになったからといって、それがなにか意味があるわけ?」

□生まれて最初の20年かそこらのうちに詰め込み教育をする必要がどこにあるのだろう。いつでも興味を持った時に学び始めればいい。生涯かけていろいろなことをじっくり学べばいい。

◯『基礎という神話』— 基礎とは何か

 □「基礎」という概念もまた、多くの人が重要だと思い込んでいる神話の一つ。
 
 □筆者は、「基礎が大事」という考え方に疑問を持つ。
  基礎の定義は何か。

 □人類の知恵は、基礎から応用へと発達してきたのではない。

 □人類の知恵は、いろいろな問いや結論が互いに結びつき、絡み合った巨大な網の目のようなもの。
 基礎と応用の境目はない。

 □大海原を航海するのに「この航海だけが唯一のルートだ」というものがないように、「これを学ぶにはこのアプローチしかない」ということはない。
 何を学ぶにしても、いろんなルートを通ってもいいし、ルートは一人ひとりちがっていい。
 逆に、「新しい発想を生み出すにはいろいろな人がいた方がいい」という多様性から見れば、ルートは全く違う方がいい。

   ・創真が言っていた「正解を一つしか知らないヤツは、もっとすごいものにたどりつけない

 □「基礎」という考えは、学びを「型」にはめてつまらないものにしてしまう。

 □「基礎」に囚われず、学びは自由でいいし、もっと楽しくすればいい。

◯『失敗する権利』—「〜ねばならない」に縛られない

 □「〇〇をしなければならない」「〇〇らしくあらなければならない」に疑問を持つことも放棄して、従うのは思考停止の現れ。

 □上と同時に「してはいけない」ということも社会にはたくさんある。
  人が失敗しそうなことをやろうとすると、周りの人は忠告したり、たしなめたり、自分の意見を押し付けたりする。

 □彼らはその人のためを思ってアドバイスしているつもりだろうが、筆者曰く「余計なお世話。それどころか「害」だといっても過言ではない」

 □彼らは失敗から学ぶ「権利」を奪ってしまっている。
  そんな人が多数派になると「絶対に失敗は許されない」という空気が広がる。
 →人々は空気を読んで、誰も何も言わなくなってしまう。
 →若者が自由にチャレンジして失敗できなくなり、自ら未来を切り開いていく機会を奪ってしまう。
 →社会は衰退していく。

 □大事なことは、失敗を「成功するためにとても大事な学びのプロセス」と捉える。そして、「失敗を楽しみ、愛でる」

◯『ザ・グレート・エスケープ』— 学校に行くことだけが正しいのか

 □ある不登校の小学生がインターネットの動画を通じて「インターネットでなんでも学べるから、わざわざ学校に行って勉強する必要はない。だから中学校にも行かない」というような発言をした。
 →「学校教育をバカにするな!」「家で勉強するだけだと社会性を身につけられない。それでいいのか?」といったコメント殺到し、炎上している記事を筆者が発見した。

 □筆者はこれを見てモヤモヤした。小学生一人に対して、何千人もの人が頭ごなしに全否定しているのも異様だと感じたが、それ以上に、なぜ彼の意見がそんなに非難されないといけないのかが、全くわからなかった。

   ・私も、その子の意見がどうであれ、一人の小学生を、その子よりも年上(それも数年、数十年)であろう人たちが、寄ってたかって責め立てるなんて、あまりに大人げないし、非道だと思う。
    そして私も、その子側の人間だ。学校に行くくらいなら、それこそインターネットで調べたり、YouTubeの動画を見たり、図書館に行くなどして本を読んでいた方が、自分の身になるし、興味のあることを学べる。
 学校に行ったって授業でやるのは、せいぜい教科書の内容に軽く触れるだけで、あとは語句やその説明なんかの暗記をしろで、小テストばっかり。何も楽しくないし、それを何も疑問を持たず、当たり前のように語句を唱えたり暗記練習をする周りの生徒たちをみて「これは何をやっているのだろう」と異様な光景に思えた。
   「社会性を身につける〜」に関しても、私は人と話せなくて、いつもぼっちで、人と関わった経験は数少ない。そもそも(学校で培う)社会性とは何だろう。監獄のそれみたいな「機械化された人間」だとしたら、私はなりたいとは思わない(というか、なれない)。
   ということで、行きたくない学校に無理やり行っていた日々は、本当に辛かった。心だってボロボロだった。←行きたくないことを無理にして、心身がボロボロになるくらいなら、学校なんて行かなくて、好きなことをしていた方が絶対にいいに決まっている。
   学校に行っていた、あまり意味を感じない日々よりも、中田さんの動画を身漁っていた、今みたいな日々の方がより学びがあって楽しい。

□哲学者イヴァン・イリチリ「学びは本来、自分の好きなように行える自由な活動であるはずなのに、学校はそれを『教わる』という受け身の活動に変えてしまう。そして人々に、『ちゃんとした勉強をするためにはきちんとした教育の制度と専門家が必要だ』と思い込ませる」

□教える側が頑張って教えようとするほど、学ぶ側はどんどん受け身になってしまう

□人は学校でしか学べないわけではない。にもかかわらず多くの人が「学校でしか学べない」と信じきっている

□社会は学校に通わない子どもを「不登校児童」と名づけ、不良やアウトサイダーのような扱いをする。

◯『3つに分けられた悲劇』— 「遊び」と「学び」の区別

 □学びがつまらなくなった背景に、三重の遊んではいられない構造がある
  一つ目、社会における「遊び」と「働き」の区別。お金をもらうためにあくせく働くことだけが「仕事」だとハッキリ区別するようになった。
  二つ目、学校における「遊び」と「学び」の区別。100年程前から「専門的な教育施設」として学校が発達し、そこでも目的は子どもが「勉強」をすること。授業の合間に「休み時間」を入れ、「休み時間の間だけは遊んでよい」としたことで、区別が始まった。
  三つ目、「自ら進んでする遊び」と「受け身の遊び」の区別。大人や子どもは、仕事や勉強の苦労から逃げるために遊ぶようになった。
 → 「疲れを癒す」ニーズに応えるエンターテインメント企業が誕生し、「遊ばせてくれる」ことに期待してお金を払い。期待が裏切られると「損をした」。遊びはただの浪費になった。
 認知科学者で教育学者の佐伯先生:遊びは新しい学びや創造、発見をするための本質的な活動であったにもかかわらず、ただの『エンターテインメント消費』になってしまった。

□小さい子どもの世界では、遊びと学びに区別はなく、学びは遊び心から生じる。

□大人でも、「遊び」と「学び」と「働き」が一体となったまま思い切り楽しんでいる人もいる。
 

◯『暴かれた秘密』— 「子ども」という存在

 □「これは仕事だ! 遊びに来てるんじゃないんだぞ!」↔︎「こっちは遊びなんだ! 仕事よりも真剣!」

 □子どもが大人と区別されるようになったのも大きな問題。子どもが子ども扱いされていることで。子どもたちができることが昔に比べてかなり制限されている。

 □中世ヨーロッパでは、まだ「教育」という言葉も、「子ども時代」という言葉もなかった。(言葉でやりとりができるようになる)7、8歳にもなると大人と同じように扱われていた。
 □子どもも大人も同じ空間で同じ仕事をする仲間だった。

 □17世紀になると、子どもは「汚れを知らないピュアな存在」として保護されるようになった。18世紀になると、「子どもは特殊な存在なので、それにふさわしい扱いをされなければならない」と考えられた。
 →「立派な大人に育て上げるために、“教育” が必要だ」と考えるようになった。

 こうして、「子ども」が誕生した。「子ども」の発明は、大人と子どもの間に線が引かれたことを意味する。そして同じような分割線は「仕事」と「遊び」、「公」と「私」の間にも引かれていった。

◯『能力という名の信仰』— 「能力」とは何か

 □「能力」とは、知能を測る「知能テスト」が一般に広がったことによって生まれた統計的な概念のこと。
  ただの統計上での数字しかない「能力」をまるでそれが実在するかのように考えるようになった「信仰」の一種。

 □「能力信仰」は、「子どもは守られるべき存在だ」という信仰と同様に強い信仰。多くの人が「能力を高めることこそが、幸せになるための唯一の道だ」と信じ、「頑張って勉強して学力を高めれば、きっといつか報われて幸せになる」という教えにすがるように生きている。

 □大人は子どもに、「勉強をして能力を高めると、きっといいことがある」いい「能力を高めないと、社会から脱落してしまう」と脅し、頭ごなしに勉強を押し付ける。

□その教えを信じない人を変人扱いする。まるで他を寄せ付けない一神教のよう。

□思考停止は、必ず「手段の目的化」を生み出す。

□学校は、「すべて自己責任」だとする格差社会を作りだすのに一役買っている。

□「地獄への道は善意で敷き詰められている」

◯『才能は百害あって一利なし』— 「才能」が人の自信を奪う

 □「才能」とは何か。能力と同じように実態がない。

 □後知恵バイアス:何かの結果を知ってから「ほら、やっぱりそうだと思った!」と事前に予測できたかのように感じる心理

 □スポーツチームの監督を、試合に勝った時は「名監督」と称える一方で、負ける「迷監督」と責め立てる観客がその典型。
 観客は結果だけを見て残酷に評価を下す。

 □結果論で物事や人を評価する社会は、自分たちの首を閉めることになる。

 □大事なことは、「今この考えや感情にはバイアスがかかっている」と自覚すること。それができれば、人に対して広い心を持つことができ、無駄な争いをせずにすむ。そして、自分自身にも優しく慣れる。

 □「Good try!」(いい結果は出なかったけど、思い切ってトライしたこと自体に意味があると称え、そのプロセスをねぎらう言葉)

 □「才能」は、能力と同じくバイアスによって下された、部外者による浅はかな評価に過ぎない。能力よりもたちが悪いのは、そこに決定論的な考えが潜んでいる。

 □「才能や適性、素質などを持っていない者はいくらやっても無駄だ」と考えが人々のやる気を奪う

◯『優劣のラインを越えて』— 「優劣」よりも「アプリシエーション」

 □アプリシエーション=ある人や物をきちんと理解する。相手の良いところをきちんと理解して褒める。

 □アプリシエイト=「鑑賞する」「感謝する」

 □人はアプリシエイトをされると嬉しくなり、ますます頑張ろうという気持ちになる。世界中のすべての人がそのような気持ちで接することができれば分断など起こらない。

◯『車輪の「無意味」』— 「無意味」だからこそ意味がある

 □「役に立つ」「役に立たない」とはどういうことか
 
 □フランスのアーティスト、マルセル・デュシャンの作品「自転車の車輪」。丸いイスに自転車の車輪を逆さに取り付けただけのもの。
  イスとして座れないし、自転車としても乗れない、何も役に立たないシロモノ。この物体の存在は皆無。

 □「常識」というフィルターを取り払って、そこにあるモノをただ純粋に見ることができれば、新しい意味を発見することができる。

 □積み重ねたものを捨てることで、新たな思考が生まれる。

 □「無意味」の否定の後のだからこそ意味があるという大いなる肯定。
  「壊して捨てる」の後の「だからこそ新しいものが生まれる」

◯『無用之用』— 荘子の言葉

 □人は効率や合理性ばかりを追い求め、ムダを目の敵にしている。本当に省くべきムダはそのままになっているが。

 □「形あるものが役にたつのは、何もないからこそ」
  役に立つか立たないかは、ものの見方次第で、実はこの世の中に役に立たないものはない。

 □著者の父「学校の先生は嘘ばかり言うから、先生の言うことは聞いてはいけない」→「人の言うことを鵜呑みにせず、常に自分の頭で考える習慣をつけなさい」

◯『悪人正機のカミソリ』— ロックなお坊さん、親鸞

 □親鸞「善人ですら浄土へ往けるのだから、悪人が往けるのは当然のこと。しかし、世間の人は常に反対のことを言う」
 
 □他力本願とは、「すべての人間を苦悩から救おうとする阿弥陀の存在を信じ、それを心の拠りどころにして生きよう」ということだという。
 「他力」の力を支えにして、「無明の闇」をいたずらに心配せず、強く明るく感謝の気持ちを持ってお互いに敬い助け合う。

 □親鸞「『善人』とは、『自分は善い行いをしている』と『自力』で幸せになろうとしている人。『悪人』とは、最初から『他力』にすがる人のこと」

   ・これでいうと、他力本願にすがるぼっちちゃんは「悪人」ということになる。

 □「『悪人』こそ、もともと阿弥陀仏がお救いになろうとしていた人だろう」

 □善いことをしていて、素晴らしい人に見える人間の中でさえも、「自惚れ」や「独りよがり」が潜んでいる。
  善と思ってやったことが、善をもたらすことがあれば、悪をもたらすこともある。

 □人間は善をなすことも、悪をなすこともできず、何もできない。

 □「善い行いをしよう」と強く思っている人は、他人にも「善い行い」をさせようと押し付ける。
 その正義感から「なぜそうしないの?」と問い詰めかねない。
 「善い行い」をしない人は酷い目にあっても仕方ない。自業自得だ。と思うようなところもある。
 親鸞「それは決してちっとも善くない」

 □親鸞は、時の権力者から厳しい弾圧を受け、越後に流された。その時から、「非僧非俗」となって、僧侶の戒律を破って、妻をめとり、肉食もためらわなくなったという。



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